英龍と奥方の夜
英龍の息子は長男、次男、四男が早逝し、生き残ってくれているのは体の弱い三男・保之丞一人のみ。何とかもう一人若君を!と親族や家臣達に願われ、側室の部屋を渡り歩く日々だったが、今晩はどうしても正妻の越の顔が見たかった。
「越、こちらで少し月を見ないか。」
「あら、殿様。今日は若い女子のところに行かなくてもよろしいのですか?」
嫌味でも皮肉でもない、純粋に疑問に思っている素直な声色で越が訪ねた。
「今日は越と話がしたい。」
「まあ、嬉しいことを。では温かいお茶でもお持ちいたしますね。」
「頼む。」
何か特別大切な話があるわけではないが、どうしようもなく疲れた日は、越と話がしたくなる。
「長英殿がどれだけ耐えても、その無実の罪が晴れることはなかった。」
越は口を挟まず、静かに英龍の表情を見つめて聞いている。
「母はわしに『忍』と言い残したが、一体いつまで忍べばいい?母が亡くなって20年が過ぎた。その間ずっとその遺言を守り、隠忍自重を心掛けたつもりだった。しかしどれほど耐え忍ぼうと、状況が好転する気配もない。」
英龍が皮肉気に片方の口の端を上げる自嘲の表情を、越は初めて見た。
「このままわしが一生忍んでいても、生きている間に今までの苦心が報われることはないかも知れぬな。せめて保之丞の代になる頃にはもっとましな世の中になっていてほしいが。」
ここまで英龍が卑屈になる姿は、誰にも一度も見せたことがない。だがもう英龍の心にも限界が近づいていた。どうしても誰かに弱音を吐きたかった。そんな弱り切った自分の姿を晒せる相手は越以外には考えられなかった。
「殿様は、保之丞が殿様の跡を継ぐ頃には良い時代になってくれることを願って今苦慮されておられるのですね。
それならば殿様は今、保之丞のために『忍』を『先払い』してくださっているということですね。」
何の問題もないとでも言うかのように、いつもと同じ朗らかな声で越は言った。思いも寄らないことを言われて英龍は驚いた、
「先払い?」
「ええ、今殿様が背負っておられる苦しみが未来の分であるならば、保之丞はきっと今よりずっと良い未来を生きられるでしょうね。」
「先払い…、そうか、そういう考え方もできるのか…。」
現在49歳の英龍は保之丞とも、それ以上にこれから生まれてきてほしいと願っている子とも、一緒に過ごすことができる時間はそんなに長くはないだろう。
そう思うと、今から子供達が将来背負う分の『忍』を自分が肩代わりして『先払い』しておけるなら悪くないと思えた。自分が生きているうちに報われることがなかったとしても、子供の代は良き時代にできるよう、まだ自分にもできることがあるはずだ。
「まだ夜が明ける時間でもないのに、夜が明けぬのはおかしいと嘆いても仕方ないということだな。息子のためにもうひと踏ん張りしなくてはな。
夜が明けるまでの時間は明日への力を蓄える時間だ。保之丞や未来の子供のことを思うと、全身に血がたぎってゆくようだ。
そなたと話ができて良かった。今日は良く眠れそうだ。」
保之丞の時代は英龍の『先払い』のおかげで比較的順調だったけれど、次の五男・英武の時代になると小栗忠順が台頭してきて小栗&フランスに事業を取られちゃう…。




