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種痘(しゅとう)

 嘉永2年、英龍と懇意にしている佐賀藩主・鍋島直正(なべしまなおまさ)から、「オランダか届いた『痘苗(とうびょう)(天然痘の予防接種に使う弱体化させたウィルス)』を用いて領民に種痘を施し、成功した」との連絡があり、英龍は歓喜した。

「それはすごい!我が領でも種痘を行えば、疱瘡の流行を食い止めることができるぞ!」

 

 種痘とは疱瘡(天然痘)の予防接種のことで、『天然痘に近いが天然痘よりはるかに死亡率が低い牛痘のウイルスに罹患(りかん)した人は天然痘にかからなくなる』という言い伝えの研究のもと、イギリスのエドワード・ジェンナーが1798年に発表したものである。

 天然痘は空気感染、飛沫感染、接触感染をする伝染力、罹患率、致死率の高い疫病で致死率は20~50%といわれている。運良く命が助かった場合でも、体にあばたが残るため、『美目定(みめさだ)めの病』と呼ばれ忌み嫌われていた。


 日本ではシーボルトがこの種痘を伝えたが、この時は広めることができなかった。その後、嘉永2年にバタヴィアからもたらされた痘苗を用いてオランダ商館医オットー・モーニッケにより佐賀藩医に伝わり、長崎・佐賀を起点として蘭方医のネットワークで広まっていくことになる。

 

 英龍は伊東玄朴(いとうげんぼく)に依頼して息子の保之丞(やすのじょう)と娘の(たか)に種痘を受けさせることにした。



「本当に、本当に大丈夫なんでしょうか?」

 

 嘉永元年に仕えていた御簾中・任子様が亡くなり、剃髪して大奥を辞し実家に帰ってきた私は涙を浮かべて兄に詰め寄った。

 

 任子様の死因も疱瘡であった。一度罹患した経験がある私はうつる心配がないからと、臨終まで側に侍ることができたのは不幸から生まれた幸いであった。


 あの無慈悲な病を本当に予防できるなら素晴らしいが、牛の病のもとを人の皮膚を切り開いた傷に擦り込むなど、正気の沙汰とは思えなかった。

 何より、こう言ってはいけないのは重々承知の上だが、他の者に試す前にまず大切な我が子達に試させてその安全性を領民に訴えるという兄の主張は理解はできるし領主として素晴らしいと思うが、感情が追いつかない。


 兄が種痘を勧めるきっかけが自分であったことも理解している。私は自分の顔の痕を撫でた。分かっている。顔に痕が残ってしまった者は、その後の人生も大きく狂ってしまう。自分と同じ辛さを甥や姪に味わわせたくはない。


 なお悩む私に声をかけたのは義姉だった。

「きっと大丈夫よ。この『種痘』は『疱瘡から人々を救いたい』という強い思いから開発されたのですもの。

海外では広く一般に使われていて、接種をした地域はもう疱瘡が流行することはなくなったそうよ。

もし接種をしないまま、保之丞達が疱瘡にかかってしまったら…、私はその方がずっと恐ろしいわ。」


 私はは涙をぬぐってくれた義姉に微笑む。義姉だって不安は十分感じでいるだろう。それでも兄を信じて受け入れたのだ。私が二人を困らせてはいけない。


「はい、そうですね義姉上様。確かに私が接種を拒んで子供達を病にかからせてしまったら…、私は一生後悔することになりますね。

兄上様、差し出がましいことを言ってしまい申し訳ありませんでした。種痘が成功するようお祈りいたします。」


 私と義姉はすぐに気を取り直して保之丞と卓を看病する手筈(てはず)や快癒したあとのお祝いの打ち合わせを始めた。

 

 どうせならお祝いを盛大にやろうと。皆を安心させ前向きに種痘に向き合えるようにと。


 

 英龍は越の、人の心に沁み込む言葉を紡いでくれる才能をとても頼もしく思った。


 年が明けた嘉永3年1月、江戸の伊東玄朴のもとに保之丞と卓を連れて行く際、江川家の韮山での主治医・肥田春安(ひだしゅんあん)を同行させて二人の体調を万全に整えた。

 できる限りの準備を尽くした上で二人に種痘が施された。二人の善感を確認したのち、一行は2月19日に韮山に帰郷した。


 翌日、『御疱瘡、御湯拭い(全快)』の祝いとして、役人達や韮山塾の塾生にまで赤飯などの御馳走が振舞われた。普段は徹底した倹約の質素な料理しか食べられない韮山役所にて、全快の喜びと御馳走に歓喜の声が響き渡った。

牛の病のもとをメスで切った傷口に擦り込むとか、なかなかに怖いよね。しかも子供に。注射を発明してくれた人、ありがとう。

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