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英国軍艦・マリナー号

 嘉永2年(うるう)4月8日、幕府がもっとも恐れるイギリス船が浦賀(神奈川県横須賀市)に現れた。

 

 うろたえる日本人の役人を尻目にイギリス船は測量に回っている。浦賀奉行達の日本語での抗議など気にも留めない。

 浦賀奉行は困り果て、「退去どころか測量の停止にも応じない」と江戸に早馬を送るが、幕府もうろたえるだけで何もできない。

 

 イギリス船はやがて伊豆に向かうだろうから江川を当てようと、水野の再失脚のあとを継いだ阿部正弘は、それまで敵派閥である親水野派ということで遠ざけていた英龍をようやく起用することを決めた。

 

 英龍はイギリス船が伊豆片瀬村(いずかたせむら)(静岡県東伊豆町)を通過する頃、偶然にも近隣の奈良本村(ならもとむら)で山猟をしていた。英龍の山猟は鹿や猪を敵兵に見立て、小隊を組んで行う『軍事訓練』である。


 漁師より異国船出現の情報を聞いていた英龍は、異国船が浦賀に向かったあと下田に出現することを予見し、幕府からの命令に先立って手代達や私兵である金谷鉄砲組(かなやてっぽうぐみ)に大砲を用意させて向かわせた。


 4月14日、マリナー号艦長・マチソン中佐が下田港を眺めていると、土嚢(どのう)(土を入れた袋)を運び土塁(どるい)(土の壁)を築き砲を設置しているのが見えた。

 浦賀と違い、理にかなった砲の配置や歩兵の陣地にマチソンは驚いた。そして今度は浦賀での身分の低い役人ではなく高官が来るだろうと使者を迎える準備を急いだ。

 

 やがてマチソンの前に現れた武士は色鮮やで重厚な装束をまとい、高い身長で背筋を伸ばし不安や畏怖(いふ)を一切感じさせない、かといって敵対心も感じさせない目でこちらをしかと見据えていた。

 部下達も華やかで高級そうな衣装に身を包んでいた。マチソンは英龍を本当に身分高い武士であろうと錯覚した。


 その少し前、下田の民は英龍の格好にあぜんとした。

 

 普段は質素を超えて、継ぎはぎのある着古してくたくたの木綿の着物しか着ていない英龍が、越後屋特製の大名にも劣らぬ豪勢な着物を着ていたのだ。しかも供の手代達はなぜか芝居小屋のど派手な衣装を着ている…。


 日本人には滑稽な様子に見えたが、英龍は外国人は衣装の派手さで日本人の身分を推測していると知っていたため、いつか使う日が来るだろうと前々から大枚を出して一世一代の高級衣装を購入していた。

 日本人が見たら軽薄な芝居小屋の衣装も、外国人からは「下級役人のキモノより良いもの」に見えた。


 マチソンは甲板にテーブルを出し英龍を迎え、握手を求めた。

 英龍は蘭学で得た知識でそれに応える。供の蘭学者・矢田部郷雲(やたべきょううん)とイギリス側のオランダ通訳を通して交渉が始まった。


 英龍はマチソンの入港・薪水給与を『アヘン戦争』により貴国を信用できないと突っぱねた。しかし英龍の軍備、特に武器はオランダからの輸入ではなく英龍が手元で自作したということに感心したマチソンからの質問に英龍がよどみなく答えるうちに、マチソンは上機嫌になっていった。

 

 翌日、マチソンは退去を決め、英龍はその礼として薪水と米、小麦粉を贈った。

 ワイン、ウイスキー、ラムなどの酒と腸詰やビスケットで歓待され、英龍も漆の食器類と日本酒の入った樽を贈った。

 

 マチソンはイギリスで『サー(騎士)』を叙勲した誇り高い軍人であり、英龍のサムライとしての威厳に満ちた態度に深く共感し、大切に船室に飾っていた絵を英龍に贈った。そして互いに今度は心からの握手を交わした。


 英龍も直接イギリス人と対話したことで、「イギリス国内でもアヘン戦争は良くなかったという声があること」「対話もせずに日本を植民地にしようとしているわけではないこと」、そしていたずらに敵意を向けず真摯に対応すれば、こちらの言い分を聞き入れる度量があること。『我も人なり、彼も人なり』と実感することができた。


 

「おい、見ろよ!船が去っていくぞ!!」

「本当だ、江川様が退去させたんだ!!」

「さすが江川様だ!!」


 避難を命じられていた漁民達は外国船の脅威を英龍が説得で追い払ったと、『今諸葛孔明(いましょかつこうめい)』だともてはやした。

 

矢田部郷雲は、朝ドラ『らんまん』の田邊彰久たなべ あきひさ教授のモデルになった矢田部良吉のお父さん。

英龍のお抱え蘭学者。

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