柏木林之助と町田亘①
柏木林之助は韮山代官江川に仕える元締め手代・柏木平太夫の長男として、江川家家臣の若手達の筆頭という役割をよく自覚し、その役割に恥じぬよう精進を心掛けていた。
一方の町田亘は韮山出身ではなく江戸でたまたま林之助と同じ塾に通っていただけの、江川家とは特に縁のない者だった。
林之助は町田の書の巧みさに驚き、江川家の書役として雇ってもらえるよう、上役に交渉した。町田は自分のために上役を説得してくれた林之助に対し、まともな職に就ける見通しもなかった自分を取り立ててくれた恩義を感じていた。
江川家の主君も家臣も町田を温かく迎え入れてくれたが、一人だけ人の輪から距離を取っている者に気がついた。その者は望月鵠助といい、江川家を多額の借金から救うために『忠義の切腹』をした忠臣・望月鴻助の息子だと林之助が教えてくれた。
江川家の多額の借金は贅沢のせいでは決してない。
代官の職務は治安、民政、徴税の多岐にわたり、行政と司法のほとんどの権限を担っていたのに対し、幕府から支給されるのは150俵(年収およそ600万円)のみという、非情なほどの薄給であった。
江川家に限らず代官の懐が貧しかったのは、人件費を含む必要経費を幕府が満額支給しないからであった。
五万石の支配に対して550 両は補償されるが、追加支給はない。災害、暴動など事件事故が起きて支給額で収まらなくなると代官が自腹で出費しなければならないという、制度として重大な欠陥を抱えていた。良い統治を行おうとすればするほど自腹が増えるのである。
英龍の父の代には管理を任された地は七万石を超え、武蔵・相模・伊豆・駿河・甲斐・伊豆諸島の広範囲に及ぶため、人件費を削ることも不可能に近い。とうとう借金は六千両を超えた。
英龍の父・英毅の命で、伊豆出身で江川家の養女として家康公の側室となり、紀洲家の祖・徳川頼宣の母となった養珠院お万の方の縁を頼って紀州家に借金を願い出て断られた望月鴻助は、主君江川家のために紀州家の屋敷内で『切腹』した。
この鴻助の切腹に深く心を痛めた紀州家は、縁を切る代わりに千両を香典として江川家に送った。鴻助の切腹はやがて幕府首脳陣の耳にも届き、代官の救済策が協議され、江川家も最大の危機を乗り越えることができた。
その忠臣、望月鴻助は、もとは甲賀忍者の末裔というよそ者だったが、英龍の祖父・英征に『碁』と『隠密』の腕を買われ、一代限りの条件で手代に採用されていた。しかしその忠義の死に報いるために、英龍の父・英毅は鴻助の息子・鵠助に父の身分と地位を受け継がせ生活の保証をした。
よそ者出身者に忠死という栄誉を先取りされ、さらにその息子まで主君から厚遇を受けていることで、他の家臣の子息達は無自覚に鵠助を遠巻きにし、鵠助もまた自ら距離を置いていた。
林之助と鵠助は町田が知る限りでは特に確執があったようには見えなかったが、ある日二人で『碁』をやっていた時に、あっという間に負けた林之助が逆上して鵠助に切りかかろうとして取り押さえられたと人づてに聞いた。
林之助は『気鬱』と診断され、自宅謹慎となり同僚達は面会を禁じられた。
後に聞いた話では、林之助は若い衆の統率者として強い責任感から孤立する鵠助を皆の輪の中に取り込もうと躍起になっていたが、鵠助はそれを巧みにはぐらかしていた。普段二人で碁を打つ時も、鵠助は誰にも気づかれないほど自然に相手を誘導して勝利を譲る『接待碁』をしていた。
林之助が逆上した日の前日、鵠助は江川家に辞職を願っていた。林之助は今まで自分が鵠助に良くしてあげたのに疎まれていたことを知り、鵠助を憎悪するようになった。そして鬼気迫る様相で接待碁ではない本気の碁の勝負を挑み、負けた。そこで林之助の自尊心は崩壊し、「気づけば刀を抜いていた」と取り調べで語ったそうだ。
約一か月の謹慎ののち、精神が落ち着いてきた林之助は今の江戸役所から韮山役所へと転勤することになった。
次にいつ会えるか分からない。町田が今夜にでも挨拶に行こうかなどと考えながら帰宅の準備をしていると、林之助の妻が大声で泣き叫びながら鵠助を探していた。
「夫が乱心いたしました!望月様を探しています!息子も叔母様も斬られました!」
役所は騒然となり、鵠助は急いで長屋に向かい、町田は急いで英龍に報告に行った。
町田が英龍達と事件現場に着いた時にはすでに辺り一面血の海になっていた。すでに息絶えている者、息はあっても腕を指を切り落とされた重傷者が混在し、阿鼻叫喚の有様となっていた。
林之助を取り押さえに向かった鵠助も背と胸元、左腕を斬られ事切れていた。林之助も自害しようと首を斬っていた。顔にうっすら笑顔を浮かべて…。
あまりの惨状に耐えきれず、町田の意識はぷつりと途絶えた。
天保2年7月23日の夜のことであった。殺された者8名、重傷者4名の『柏木林之助乱心事件』である。これ以降、江川家では林之助が鵠助に遺恨を持つきっかけとなった『碁』を禁じた。
被害者は本法寺の塔に合葬された。本法寺にて町田の手紙を発見した柏木総蔵は、林之助の歳の離れた異母弟である。
この事件のあと町田は心身が不安定になり、英龍の配慮で韮山役所に転勤した。そこで『大塩平八郎の手紙』を書き写すことになる。
『柏木林之助乱心事件』は史実です。
誰がどのように斬られたか詳細な記録が残っていて、読むのもツラかった…。




