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高島秋帆

 事態は進む。本庄茂平次も逮捕され、鳥居は沙汰があるまで『禁固』となった。

 弘化2年9月に水野忠邦へ『二万石の減封の上、隠居蟄居』の沙汰が下り、10月には鳥居耀蔵に『讃岐国(さぬきのくに)丸亀藩に永蟄居』の判決が下された。


 しかし事態は思わぬ方向に転がった。

 

『謀反』『密貿易』という死罪相当の重罪の疑いをかけられていた高島秋帆は、『息子に身分不相応の婚姻を結んだ』『親族が役職に就けるよう賄賂を贈った』など、謀反、密貿易の罪文は取り除かれ微々たる罪だけになったのに対し、下った判決は『中追放の上、武蔵国岡部藩(埼玉県深谷市)に永蟄居(えいちっきょ)』という、理不尽に重いものであった。


 ここにも大塩平八郎の乱の影響が残っていた。最新鋭の兵器が完全に『自軍』のものならこの上なく心強いが、『敵軍』ならば脅威でしかない。大塩は本来与力(御家人、幕臣)なので『自軍』のはずだったが、『敵軍』となって牙を向いた。

 どれだけ英龍達が評定所の人々に言葉を尽くそうとも、他人からしたら絶対に裏切らないとは言い切れないのだ。

 

 秋帆の開放を願っていた英龍は落胆したが、岡部藩は秋帆を表向きは罪人として、裏では先生として丁重に扱ってくれた。英龍は諦めず、秋帆を無罪放免にするために幕府に訴え続けた。

 

 弘化3年に刑が決まってから7年後の嘉永6年、ペリー来航に乗じてようやく赦免され喜平と名を改めた秋帆は、英龍への恩義に報いるため家臣として仕え、英龍が亡くなった後も長崎に帰郷することなく、英龍の遺児・英敏、英武兄弟を支えた。


 10年に及ぶ不当な仕打ちに耐えた秋帆は、ペリー来航以降堰を切ったように進められた西洋式軍事化の多大な功績を残すことになる。


 英龍が興した韮山塾を江戸で継承するために幕府が土地を用意した『芝新銭座(しばしんせんざ)大小砲(だいしょうほう)習練場(しゅうれんじょ)』(東京都港区)と直心影流の師範で勝海州の親戚でもある男谷信友(おだにのぶとも)が、水野忠邦のあとを継いで筆頭老中となった阿部正弘に献策して採用された幕府陸軍の先駆けとなる『講武所(こうぶしょ)』(築地鉄砲洲)。

 

 この2つの訓練場の教示役・師範役として最期までこの国の国力増強に尽くした。

静岡県三島市の佐野美術館に高島秋帆が描いた『狸』の絵があった。

目がくりくりでかわいかった。

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