将軍・家慶②
家慶は深い悔恨の中にいた。水野忠邦に『天保の改革』の許可を出したのは自分である。水野は家慶がまだ将軍世子だった頃から西の丸(将軍世子の居所)老中として、自分の下に付いていた。
父やその側近、寵愛を受けた側室達が贅を尽くし享楽に溺れ、飢饉にも外国船の脅威にも何ら対策を施さない中で家慶と水野は必死にこの国を守るための改革案を練っていた。
水野が家慶の理想を理解し、その実現のために力を蓄えようと急いだ結果が権謀による敵陣営の追い落としという形になり鳥居耀蔵を増長させた。
『田や沼や 濁れた御世をあらためて 清く澄ませよ 白河の水』
自分を将軍に推挙した田沼意次を汚職にまみれている、前将軍の遺臣として罷免し、8代将軍・吉宗の孫であり将軍の座の競争相手であった松平定信を懐柔しようと老中に据えたのは父・家斉自身であった。
田沼の尻拭いを託された定信は『寛政の改革』を断行したが、今度は
『白河の 清きに魚の住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき』
という風潮になり、定信の改革の引き締めの厳格さに辟易した家斉は、定信のことも辞職に追いやった。
財政改革に挑んだ田沼。質素倹約によって幕府を立て直そうとしました定信。そのどちらにも『益』と『損』があり、どちらが正しかったなど決められないが、そのどちらも切り捨てた父には失望した。
父は定信を遠ざけたあとは政治に興味を失くし、己の欲ばかり満たすようになった。政治は再び腐敗して、飢饉や外国船の脅威に長く苦しめられることになった。
父が亡くなり、『水』の清流で濁りを洗い流すつもりだった。だが、父が院政を敷いていた頃の腐敗は肥大化し過ぎて水野まで腐らせてしまっていたらしい。
若い頃は父に頭を押さえつけられ、将軍の座を継いだあとも父が権力を手放さず、亡くなるまで何もできなかった。
14男13女いた我が子達の中で20歳を超えたのは障害があり子も望めない家祥のみ。現状では自分の血は家祥で途絶える運命である。我が子として愛情を持ってはいても、家祥にこの難局を任せられるとは思えない。
将軍家の血筋に生まれた者として志高くあろうとしてもうまくいかないばかりの人生だったが、この手紙を見て今こそ自分が奮い立つ時だと心が震えた。
水野を罷免し、水野の影で数々の悪事を働き己の自己満足のために無実の者達を陥れた鳥居を裁きの場に引きずり出す。これは自分にしかできないことである。
無礼を承知で、咎めを受ける覚悟でこの手紙を書いた韮山代官の『江川』という者。大奥で将軍に手紙を渡すという危険を冒してもこの手紙を届けてくれた『江川の妹』。『江川』という名の清流が、心の中の底なし沼のような淀を洗い流してくれた。
江川の妹・たいは京の公家から江戸に嫁いできたばかりの、しきたりや作法など何もかも違っていてつらい思いをしていた任子に母のように寄り添い導いて支えてくれた者だと御年寄からきいた。
病を押して江川の妹の忠義に報いた任子。その任子に自分のできうる限りの愛情を注ぐ家祥。たいの献身に支えられ、家祥と任子の仲は良好である。
今日は良い日だった。『清流』の中に小さく揺らめく、白く可憐な梅花藻を見つけたような、瑞々しく爽やかな気分になれた。御庭番の調査が終わり次第、直ちに世の中に『清流』を放たねばならない。
任子を見舞った翌月の弘化2年1月、家慶は直々に『高島秋帆の吟味仕直し』を命じた。高島だけでなく、水野と鳥居についても調べることとなった。
家慶は水野や鳥居の吟味から大塩に関わること一切を外した。他の高官達や公家などに類を及ぼさないためである。
代わりに家慶は水野を『鳥居の不正を見抜けなかった』『後藤三右衛門から高額の賄賂をもらっていた』、鳥居を『職務怠慢、不正』を理由にそれぞれ罷免した。
膠着していた『高島秋帆の処遇』を動かすことができ、もう自分がやるべきことはないと、水野忠邦は自分に罷免を言い渡した家慶に静かに頭を下げた。
家慶もまた心の中で、腐敗著しい政治の濁りにまみれながらも懸命にこの国を護ろうと、かつて自分と語り合った理想を実現しようと矢面に立って孤軍奮闘してくれた水野の背中に礼を述べた。
天保15年の12月2日に『弘化』に改元されているため、
天保15年=1844年(任子の見舞い)
弘化元年=1844年(家慶の調べ)
弘化2年=1845年(水野や鳥居の罷免)
となります。この間わずか2〜3か月。




