妹と御簾中様の絆
私に全幅の信頼を寄せて慕ってくださる御簾中・任子様はこのところ、世継ぎを望まれる重圧に耐えかねて体調を崩している。
里帰りを終えて大奥に戻った私は、直属の上司である御年寄の梅岳様に相談した。梅岳様は口を引き結んでしばらく考えたあと、
「先走って一人で行動する前に、よくぞ私に打ち明けてくれました。これはそなた一人で背負うものではありません。
そなたに万が一のことがあれば、心労を重ねておられる御簾中様をさらに苦しめ悲しませてしまうでしょう。今、そなたという御簾中様の心の拠り所を失うわけにはいきません。
御小姓の権太様にもよく相談して段取りを決めましょう。」
とおっしゃった。
梅岳様と権太様の取り計らいにより、上様と任子様がお会いする機会に任子様からお渡しいただこうということになった。病に苦しむ嫁の願いを上様が無下になさることはあるまい、と。
任子様はわずか8歳の時に江戸城に輿入れし、京の公家文化と江戸の武家文化の違いに苦しんでいたが、幼心に我がままを言ってはいけない、この結婚は朝廷と将軍家を繋ぐ大切な使命だとご自分に言い聞かせて耐えておられた。
私が幼い頃、伊豆熊坂(静岡県伊豆市)に菊池袖子という女流歌人がいた。弱冠14歳で江戸の加藤千蔭様に才能を認められ、京におわす風早公雄卿ら公家の方々にも一目置かれたという輝かしい功績を持ちながら、おごることのない謙虚な方だった。
「加賀の千代か伊豆の袖子か。この人五百年来なし」と称された袖子様に、同郷の私は運良く直々に和歌を習うことができた。
私が大奥に出仕した頃にはすでに大奥でも『袖子流』が人気を博していたため、袖子様の直弟子の私は温かく迎えてもらうことができた。
『芸は身を助く』というが、芸だけでなくそれにちなむ人脈も大いに役に立ってくれると、袖子様と袖子様を私の師として招いてくれた父母に感謝した。
京からいらした任子様やお付きの上臈の方々も『袖子流』を習いたいとおっしゃっているとのことで、私が任子様のもとに付いて教えて差し上げることになった。
任子様は幼くして離れ離れになってしまった母君の代わりのように、私に心を開き慕ってくださった。私もその純粋な思いに応えるために誠心誠意尽くしてきた。
しかし今回、その任子様を巻き込むことになっていまい罪悪感を覚えた。
天保15年の暮れ、秋頃から床に伏している任子様を、舅であられる上様が見舞いに来られることになった。
(これは千載一遇の好機ね。任子様にはご病気を利用させていただくようで申し訳ないけれど…。)
私は静かに息を吐いて任子様に声を掛けた。
「御簾中様、実は折り入ってお頼み申し上げたいことが…。」
私の緊張を察した任子様は微笑みを浮かべながら首を横に振った。最後まで言わせないのは私を無礼者にさせない任子様のご配慮である。
病に苦しみながらもこのように情けをかけてくださるお方に精神的負担を掛けてしまうであろうことが心苦しい。
「その手に持っている手紙のことかしら?それを上様にお渡ししたいの?
確かに中臈の身分では上様に手紙を渡すなど御法度ね。いいわ、私が引き受けましょう。」
「…かたじけのうございます。しかしこの手紙の内容を御簾中様にお知らせできてもいないのに、本当にお願いしてもよろしいのでしょうか?」
「ふふっ、そなたがおかしな手紙を上様に上申しようとするなどとは誰も思いませんよ。
私には政治の難しいことは分からないけれど、いつも誰よりも謙虚なそなたがそこまで覚悟を決めたことなら、さぞや大事な手紙なのでしょう。
そなたの今までの献身に報いることができるなら本望よ。」
嬉しそうに笑う任子様を見て、まずは受け入れていただけたことに安堵する。義姉が言っていたように、一人で突き進まず人を頼って正解だったようだ。
顔に疱瘡の跡があり夫も子もない私は、自分の身一つ、どうなってもよいと思っていた。でも気づけば、こんなにも私に心を寄せて慕ってくださる方がいたのだと目が熱くなった。
お優しい上様も世の中が混乱していることに心痛めておられると権太様よりお聞きしたからきっと大丈夫、不敬になることはないはずと自分に言い聞かせて上様の御成りの日を待つことにした。
任子様の兄であり養父は関白・鷹司政通。33年もの間摂政や関白として朝廷を支えた。
朝廷では珍しい開国派の人。
もし英龍が在命だったら、井伊直弼が日米修好通商条約を締結する前に天皇を説得する役を、英龍とたいの兄妹で任されたかも?な〜んて。




