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斎藤弥九郎①

 英龍には身分を超えた無二の親友がいる。神道無念流の兄弟子で今は練兵館(れんぺいかん)の館主、剣術師範・斎藤弥九郎(さいとうやくろう)である。弥九郎は剣の腕だけでなく学問にも造詣があり、今は英龍のもとで役人としても働いてくれている。

 英龍は弥九郎を家に呼び寄せ、遠山や川路と話した内容をすべて伝えた。弥九郎は韮山代官所の身内として『大塩の手紙』の全容も知っており、大塩の乱の直後の大坂を英龍の隠密として視察している。また、水戸藩の藤田東湖とは英龍と同じく神道無念流の同門で、水戸藩から剣術指導のため扶持(ふち)(給与)をもらっている。


「鳥居の手は水戸にまで及ぶか。」

「そうだ。だが今、水戸の斉昭の威信を失うわけにはいかぬ。」

「跡継ぎ問題か。」

「ああ。七郎麻呂(しちろうまろ)様(のちの15 代将軍・慶喜)のためにも、斉昭公には適度な権威を維持しつつ、過剰な行動は慎んでいただかねばならぬ。」

「塩梅が難しいな、何しろ正義感が暴走してしまうからな。」


 水戸の斉昭公は才気溢れる人物だが苛烈(かれつ)な性格で、寝相の悪い幼少期の慶喜の枕の両脇に剃刀(かみそり)を立たせて寝相を矯正しようとしたほど、己の正義を信じて疑うことなく実行してしまう。それが良い方に進んでくれればよいが、ひとたび暴走してしまうと高貴な身ゆえ止められる者がいない。英龍や弥九郎、渡辺崋山らと親しかった立原杏所(たちはらきょうしょ)が天保11年に亡くなってしまって以来、その傾向は日々強くなっている。


 立原杏所は幡崎鼎を藩に迎え入れるほど蘭学に精通しており、長女を崋山の弟子にするほど絵画にも造詣が深かった。蘭学の師となる人物を探していた英龍に幡崎を紹介してくれた人であり、英龍は一世代上の先輩として彼を尊慕(そんぼ)していた。蛮社の獄の時は藩主の斉昭公を説得して崋山を助けようとした同志だった。

 斉昭公は藩主である自分に耳が痛いことを(ひる)むことなく忠告してくる立原をあまり快く思っていなかったようで、立原と対立する藤田東湖を重宝した。藤田東湖は『廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)(仏教を排除すること)』を唱え、大砲を造るために寺の梵鐘(ぼんしょう)や仏像を()つぶしてしまう策を取るほど過激な尊皇攘夷論者で、斉昭の過激さは東湖の影響とも言われている。


 斉昭公派幡崎鼎を招いて大型帆船製造の計画や西洋式大砲の国産化をはかるなど、一見英龍や水野と同じ進路を辿っているかに見えるが最終目的が『開国』と『攘夷』、相容れないものであり、近い将来衝突してしまうであろうことは想像に難くない。


 英龍は自分の良き理解者でいてくれながら攘夷派の藩にも親交がある弥九郎に、双方の仲裁の役を負ってもらえないかと願っている。

 警戒心の強い東湖も兄弟子である弥九郎には心を開いている。

 剣術師範の生業(なりわい)だけでも多忙なのに役所仕事までさせて、さらに仲裁の約までさせるのは済まないと思うが、弥九郎はとても頼りになるのだ。


 元々は学問をしたくて越中国(えっちゅうのくに)仏生寺村(ぶっしょうじむら)(富山県氷見(ひみ)市)から荷担ぎをして駄賃を稼ぎながら江戸に出てきたほど知識欲が深く、英龍とともに幡崎や崋山、高島から西洋の情報を学んでいる。さらには腕が立つので、単独行動や危険な捜査なども任せられる。

 かつて幡崎が有罪になって伊勢の菰野藩(こものはん)に送られる際は英龍が用意した金十両を、乞食に扮して渡してくれた。

 また、大塩が乱を起こし行方不明になったあと裾野や富士宮近辺に潜伏しているとの噂が流れた時、弥九郎は英龍と二人だけで供も連れず、身分を隠して刀の行商人に変装して捜索するという無茶を笑いながら引き受けてくれた。

 剣術師範として幕臣の子弟だけでなく諸藩士とも交流があるため、諸藩の動向も熟知している。

韮山の本立寺(江川家の菩提寺)に『伝九郎の墓』という、徳利型のお墓があるらしい。これが『弥九郎が大酒を控える決意を込めたもの』と伝わっているそうです。弥九郎はおちゃめな人??

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