8話
すっかり日も沈み、屋敷の者は全員寝静まってしまった。
母親が準備したドレスで参加した夕食は、それはもう私にとっては居心地が悪いものだった。
全員が王子の顔色を伺いながら、私を気にかける。
アンジュにとっては、普段よりも豪華な食事。もちろん、私にとっても普段絶対口にすることのできない食事。本当ならちゃんと食べたかったが、あまりにもその場の空気が不快すぎて、まともに食事が喉を通さなかった。
あまり進まない私に当然気のある王子は声をかける。その瞬間、家族の焦りが手に取るようにわかった。
「いえ、お気にならないでください。病み上がりで、あまり食欲がないのです」
「そうだったのか……病人には重い食事だものね」
ピシリと、王子の鋭い視線を受けた家族は、わずかに焦りの表情を浮かべる。
本当なら、ここで「普段口にしないので」なんて言ってやろうかとも思ったけど、ここはあえて家族想いの令嬢を演じる。
「いえ、私がお願いしたのです。体調も戻ったので食べられると思って。家族も、ギリギリまで気にかけてくれましたから」
そんなこんなで、一歩間違えれば大変なことになる夕食だった。
その後は、また昼間のように何か言われると思ったけど、王子が出た後、家族全員が何事もなく、かと言って私のことを気にすることもなく、部屋を出ていった。
「姉あたり何か言うと思ったけどな……」
母親がドレスを持ってきたときと同じように、昼間のことから王子がいる間は大人しくしているのだろう。まぁそれはそれで、明日の朝が怖いんだけどね。
『ご、ごめんなさい!ごめんなさい!』
『服を脱ぎなさいアンジュ。今のお前には勿体無いものよ』
『まったく、殿下の前でよくも恥を晒したわね」
『ホントお姉様ってダメな人よね』
『王子も帰ったことだし、もうお前屋敷入んなよ』
『あーヤダヤダ。仕方ないとは言え、こんな化け物を姉上とか呼ばないといけないだななんて』
アンジュの記憶に刻まれている、家族からの理不尽な扱い。本当に彼女が不憫だ。気の弱いあの子からしたら、こんな生活をずっと続けるなんて無理なことだ。死にたいと思って当然のことだ。
「はぁ、眠れないな……」
明日のことを考えると気持ちが落ち着かない。
少しだけ、前のアンジュの感情が残っているのかもしれない。結果は多分同じ。でも、もしかしたら違う未来があるかもしれない。そういった、明日への期待。
「アンジュはいつも、こうやって考えてたんだったかな」
窓を開け、テラスに足を運んで月を見上げる。
絶望を感じながらも期待と希望を抱くアンジュ。だけど、どんなに願っても、期待も希望も何もなかった。毎日変わらないことの繰り返し。変わらないなら、いっそのこと全部を終わらせよう。そう思って、あの子は絶望の中に落ちて行ったんだ。絶望を受け入れ、今世を諦め、来世の扉を開いたのだ。
「だからって、私に押し付けないでほしいな」
あの空間で、アンジュは自分の体を好きにしていいって言った。彼女にとって、この体での毎日はどう頑張っても幸せにはなれないと感じ取ったのだ。
「体を入れ替える……いや、魂を入れ替えるって感じなのかな?」
何はともあれ、私には知識が不足している。
屋敷の書物に手を出したいところだけど、それは不可能だ。アンジュ自身も自分のことを調べようとしたが、家族から書庫の出入りを禁止された。私だって気にせず乗り込みたいけど、今はおとなしくせざるを得ない。
明日からまたあの日々が始まる。知識が欲しいと思っても、それを叶えるすべが私にはない。
「やっぱり、唯一の知識源はレイモンドか」
アンジュの知識のほとんどが彼からのもの。彼の知識=アンジュの知識。だけど、彼の限界がくれば、それが今の私が知れる限界の知識だ。
「んー、やっぱりどうにかこの屋敷を……」
いつものように夜空に浮かぶ月。アンジュが何度も見上げた月。私にとっても、元の世界と何一つ変わらない存在だった。だけど、そこに影が落ちる。
鳥よりも大きな翼と、トカゲのような尻尾。遠目からでもわかるその存在は、アンジュになってからもしかしてと期待していた存在。
「やっぱり、いるんだ……」
憧れ続けた存在。本の中では当たり前で、現実では非科学的な存在。
あぁ、実際にまじかでその存在に会ってみたい。
たとえ命を奪われる事になっても、それはそれで本望だ……
人間には届くはずのない存在。触れることもできない存在。神に近い存在……
「……失礼ですよ」
高まり続けた興奮。だけど、私の感情は一瞬にして冷めきる。だって、招かざる客が、さも当然のように部屋へとやってきたのだから。
「こんな時間にノックもせずに……しかも音を立てずに入るなんて、それでも次期後継者ですか、お兄様」
振り返った先、部屋とテラスの出入り口に立つ男は、王子の前で見せるような笑顔ではなく、あの時と同じ、最低な表情を浮かべていた。




