《第三章 前世の推し》
気づき始めたのは、中学三年生になって少し経った頃。蒼生の声を耳にするたび、胸の奥がわずかにざわめいた。
推しキャラの艶やかな声が好きだった。その声を演じる声優さんの歌声にも惹かれて、推しのキャラソンだと思い込みながら何度もその声優さんの歌を再生していた。
やがて、その声優さんと同じくらい、二・五次元の彼の声も好きになった。声変わりした蒼生の声が、まさにその声。
もしも、もしも蒼生が推しの生まれ変わりかなにかだとしたら、前世では見ることが叶わなかった蒼生の幼い頃の姿を、この目で拝めることができていたということだ。
その尊さに思わず手の指を絡ませて拝むような仕草や、胸がぎゅっと締め付けられて胸を押さえることもあった。笑みが押さえきれなくて両手でおさえることもあった。これが『限界オタク』と言われるものなのだろうか。
ただ単に容姿も声も似すぎているだけだとしても尊すぎる。
きっと、順調に成長すれば蒼生の身長は百八十センチをこえるんだろう、こえてほしい。
高身長が好きなわけではなかったけど、二・五次元の彼のおかげで、彼限定でそれがとてつもない魅力に思えるようになった。今世でもそんな姿を見てみたい、そんな気持ちが湧く。
もちろん今の時間も大切にしている。
蒼生の前ではいつも通りを装っている。感情を隠すことにはもう慣れた。前世のわたしは小学校でなぜか笑ってはいけないと思い込んでいて、毎日のように笑わせてくる男の子の前でも、笑いをぐっとこらえていたのを覚えている。
高校ではもう確信に近い感覚へと変わっていった。 わたしの中で蒼生は、前世で“推しキャラ”を演じていた彼と重なってしまった。
蒼生が高校の演劇で演じていたその姿に、前世の推しをはっきりと重ねた。声の抑揚、視線の抜き方、息の仕方。確信してしまうくらいだ。
昼休みの校庭の入り口には先輩たちが立ち並び、部活勧誘の声が飛び交っている。吹奏楽部の派手な演奏に、運動部の賑やかな叫び。
廊下のチラシを見ていると蒼生が横に並んで同じようにそれを見る。
「演劇で演じている蒼生、見てみたい」
蒼生への感情は幼馴染というよりもう推しへの尊い感情のほうが強い。そのため本音が口をついてでた。
「葵が一緒ならやってもいい」
「バスケは?」
一応、お互い真面目にやっていたから高校でも同じ部活を選ぶものだと思い込んでいた。
「興味本位でやっていたから」
「それなら入部しちゃう? 需要側だから供給側のことほとんどわかってないけど」
「だからこそなおさら楽しいかもしれないよ」
口角を上げた表情なんて、前世ではとても貴重なものだった。それがわたしに向けられているなんてありえないこと。そう、目の前にいるのは幼馴染の蒼生。落ち着く、落ち着け、葵。
「舞台袖から見守れるなんて……そんな貴重な経験、今しかできないことだし」
「葵が演じているところも見てみたいけど」
「絶対むり」
拝むような仕草をしてしまっていた手を慌ててほどき、裏方一択だ、と真っ直ぐな目を向けると蒼生は察したようだった。一緒に演じてみることはできないなと。
「それぞれ台詞とか適度な量にしてあるからやってみようよ!」
高校演劇部入部後、二年生の日高比奈先輩が声大きく訴えっていた。入部したての一年生にも対してだ。蒼生もわたしも含まれる。
オレンジに近い色の短髪で、活発な印象を与える女性。
あなたはどう? と聞かれた蒼生はあっさり頷いた。蒼生の隣にいるわたしにも日高先輩は聞いてくる。まるでその笑顔はあなたももちろん参加するよねと、不参加の可能性を全く感じていないような雰囲気。
なぜか申し訳なくなってぎこちなく視線を外す。
「わたしは、うまくできないと思うので」
「舞台は私たちが楽しむためにあるものでもあるんだよ。もちろん第一に観客を楽しませるためのものだけどね」
「自分が楽しむことでまわりに迷惑をかけたくないです」
場がしずまったあと日高先輩は、そう無理強いは良くないよねと残念そうに身を引いてくれた。いい選択をしたというのに悪いことをしてしまった気分になった。
日高先輩を残念がらせたことは間違いない。きっと全員で楽しみたいタイプなのだろう。
そうしてその日は役が決まった人たちは声合わせを行なった。そして何度か台詞や仕草、振り付けなどの練習を行い本番に合わせた練習なども行なったあと本番の演劇。
わたしの中で蒼生は、前世で推しキャラを演じていた彼となった。 まさか、と思っていた。けれど、誰よりも艶やかな声でキャラの呼吸までも掬い取るように推しキャラを演じていた彼とーー現在、舞台上で演技をする蒼生の姿が重なってしまったのだ。
名前・声・容姿が同じ。わたしはその現実を受け入れ始めた。
これは不可思議な輪廻転生というものなのか、それともわたしの願望でおかしな現実世界が創り出されてしまったのか。ううん、これはきっと偶然。でも、願いが少しだけ形になったような気がした。トリップとは違う、逆トリップとも言えない。明晰夢は日頃から見ていたけれどそれにしては長すぎる。夢や幻のようで、わたしにとっては今確かにある現実。これを『夢幻実』と名付けることにしよう。
蒼生の前ではいつも通りを装うことにした。感情を隠すことにはもう慣れた。前世のわたしは学校でなぜか笑ってはいけないと思い込んでいて、毎日のように笑わせてくる男の子の前でも、笑いをぐっとこらえていたのを覚えている。
きっと、順調に成長すれば蒼生の身長は百八十センチを超えるんだろう。高身長が好みなわけではなかったけど、二・五次元の彼のおかげで、彼限定でそれがとてつもない魅力に思えるようになった。今世でもその姿を見てみたい、そんな気持ちが湧く。もちろん今の時間も大切にしている。
その尊さに思わず手の指を絡ませて拝むような仕草や、胸がぎゅっと締め付けられて胸を押さえることもあった。笑みが押さえきれなくて両手で隠すようにおさえることもあった。これが『限界オタク』と言われるものなのだろうか。
「私のこと好き?」
女性からそう迫られることなんてあるのだろうか。人生に一度か二度あるくらいか。いや普通に女友達をつくっていたらそういうことは一般的にあるものなのだろうな。いや前世ではなかったなそんなこと。
「好きです」
日高先輩のことは好きだ、第一印象から。もちろん人として。穏やかで明るい人。もっと良いところをあげろと言われればでてくる、それくらいに好き。それほど深い関係になったつもりはないけれど人を惹きつける才能が日高先輩にはある。
「それなら舞台見せてよ。一度でいいから輝きたい、と思ったことない?」
「一瞬だけ輝くくらいならずっと普通に生きたいです」
線香花火や蛍を思い浮かびながら答えれば、日高先輩はにゃははと面白そうに笑う。
「葵らしいといえばらしいのかな」
わたしのらしさを知るほど、日高先輩もわたしのことを見てくれていたらしい。入部したときに演じることを断ったというのに、舞台裏の人も大事な存在だと認識してくれているらしい。でなければ全員のことをこんなに見れないだろう。わたしは見ろといわれても難しい。
「でもさ、ナレーションとかもあるじゃん。なんでもいいから私の作品に関わってよ」
日高先輩は全てを行える人。演じることをさらっとやっているし、脚本家や監督の役割をやってみたいと入部した頃から先輩たちに言っていたらしく、練習で二年生になってからやらせてもらえたという。こういう人が卒業してからも舞台上もしくは舞台裏で輝くものなのだろうなと思ったエピソードだ。
「裏方の役割も重要です」
「そりゃもちろんそうだよ。全員でつくりあげるものだからね。でも葵にはこう物語の部分で関わってほしいというか、なんていうかこうね、蒼生と同じ舞台に立ったところが見たいなっと思って」
蒼生と同じ。
「どうしてですか」
「ん? わかんないけど、葵が蒼生の隣にいるときなんか違和感? みたいなのがあるんだよね」
蒼生のこともちゃんと見ているんだな。もちろん役者だから当然なことではあるけれど、と不自然に思うことはなかった。でも、なぜわたしとの関係性を気にしているのか。仲良いアピールも、わざと距離をとるようなこともしていない。表向きは以前と変わらぬようちゃんとしていた。変わったところもなかったはずだ。
それなら一般的な周りの意見としては。
「不釣り合いということですね」
「違う、そんなわけないじゃん。めちゃくちゃお似合いだよ」
お似合いとか言わないでほしい。誤解する人もいる。今は周りに誰もいない部室だからいいけれど。
「温度差なのかな。同じ空間にいるはずなのにまるで別々の世界にいるような。見ている景色が全然違うんだなーって思って。ちょっぴりそのことに物悲しさを感じて。物語を創造しているからこんな独特なこと思うのかもだけどね」
日高先輩は人を見抜く力もある。
嬉しくも悲しくもない。いやちょっぴり悲しい。見抜かれていたことにじゃなく、そう思われるような雰囲気を出していた自分に気づかなかったことに。本当に気づいていなかったのか。きっとそう、気づいていなかった。たまに自分のことも想像や仮説になってしまう。
日高先輩なりにいうには。
「同じ景色を見てほしい、と?」
「そう!」
「同じ舞台に立ったら、同じ景色が見られるものなんですかね」
いつからか違う世界を見始めていた。蒼生が前世の推しと強く思うほどそうなっていたのかもしれない。いや、そうなっていた。
「見れるよ」
「同じ景色が見られれば同じ世界に生きられますか」
「同じ景色を見ている時点で、同じ場所に立ってるに決まってるじゃん」
「比奈先輩は面白いですね」
「うん、よく言われる」
同じ世界ってどういうものだったけ。今が同じ世界で同じ世界を見ているものだと思っているからよくわからない。わたしはわたしで蒼生は蒼生。それは変わって、変わっている……。変わっていた。
違う。気づかないふりをしていただけ。それだけ。
今のままでいい。今のわたしが見ている世界が現実。
「私が舞台に立つことを提案したときのこと覚えてる?」
日高先輩との初対面。
『それぞれ台詞とか適度な量にしてあるからやってみようよ!』
『わたしは、うまくできないと思うので』
『舞台は私たちが楽しむためにあるものでもあるんだよ。もちろん第一に観客を楽しませるためのものだけどね』
『自分が楽しむことでまわりに迷惑をかけたくないです』
もちろん覚えている。わたしのひねくれていると思われるような態度も。
「あのとき思ったんだよね、自分の気持ちを閉じ込めちゃう子だーって。そういう子がいるのはわかっているんだけど、蒼生みたいな子の隣にいる子が引っ込み思案なんて思わなくて。まあ偏見ではあるんだけど」
「引っ込み思案でないことは自負しています」
「でもまあ、一歩引いているよね。一歩どころかその倍以上?」
いつから? そう思われていた。そうなっていた。
そう思われても構わないはずだ。そういうことにしよう。
「正しい距離感だと思っています」
「んー、うん。葵にとってはそうなんだろうね」
意味深な言い方。気にくわない。
こうやって気持ちが揺らいでいるのはなにに焦っているのか。気づかれたことについてか、それとも自分自身そう思われていたことに気づいていなかったことについてか。
人の感情を読むのが得意でうとくありたいと思っていたはずだ。だから今回のことは嬉しく思うはずなのに。また別の感情。焦りとほんの少しの怒り。怒りは自分自身に対して。自分自身の愚かな部分について。
ナレーションとして公演に向けて練習することになった。蒼生たちに比べれれば台本が手元にあって声だけを認識されるだけであるからそこまで重荷ではない。でも演出の部分では貴重な役割なのだとはわかっている。だから身軽ではありつつ、重要な部分という意識をしなければと言い聞かせねばならない。ちょっとした矛盾。
日高比奈作。『蝶の庭にて』。
その庭は、誰が手入れしているのかもわからないまま、季節の花が絶えることなく咲いていました。 ベンチに座る人物──名前を持たないその人は、毎日決まった時間に現れ、何も話さずただ蝶を眺めていました。
蝶は、誰かの記憶から生まれてくるという噂がありました。 その庭で咲いている花は、忘れられた感情に反応して咲くのだと言われています。
ある日、庭に新しい訪問者が現れました。その人は、手に古びた日記を持っていました。日記にはかつて失った誰かへの手紙が書かれていました。
「この庭の蝶は、私の記憶を映しているのかもしれない」
「この花は、私が忘れた感情を咲かせているのだろうか」
訪問者は日記をベンチの人物に手渡しました。名前を持たない人物は、日記を開き、静かにページをめくりました。その中には訪問者がかつて愛した人への言葉が綴られていました。
時折、この庭には名前を持った人たちが訪れます。 泣きながらベンチの人物の隣に座る人もいました。 ただの沈黙だけで、言葉以上のものが伝わる瞬間がありました。
「この庭の蝶、私が見た夢と同じ色をしている」
「あのとき手放した誰かの名前が、ここに咲いている気がする」
そう言い残して去る人もいました。
ある訪問者は、庭の花を一輪摘みました。その花は、摘まれた瞬間に蝶へと変わりました。蝶は訪問者の肩にとまり、静かに羽を動かしました。
「この蝶は、私の心の中にある言葉を運んでいるのかもしれない」
訪問者はそう言いながら、庭を後にしました。蝶はその後も庭を舞い続け、訪問者の記憶を映し続けました。
ある日、ベンチの人物が初めて声を発しました。 庭にひとりで来た子どもが花に向かって泣いていたからです。
「蝶の羽音は、誰かが言えなかった言葉なんだよ」
「ここに来た人たちの心核が、少しずつ花になって、蝶になる」
子どもが涙を拭くと、青い蝶が肩にとまりました。 その瞬間だけ、庭全体の音が静かになりました。 名前を持たないはずの人物が、少し笑ったように見えました。
そしてその人物の足元にも、初めて小さな花が咲いていました。
その後、庭には新しい変化が訪れました。蝶たちは、庭の外へと飛び立ち、訪問者たちのもとへ戻っていきました。蝶が戻った人々は忘れていた感情を思い出し、再び庭を訪れるようになりました。
「この庭は、私たちの記憶を繋ぐ場所なんだ」
訪問者たちはそう言いながら、庭に新しい花を咲かせました。花は蝶へと変わり、庭の物語はさらに深まっていきました。
ベンチに座る人物がかつて誰かに名前を贈った。庭の片隅に隠されている。
蝶たちのなかに、一匹だけ名前を持った蝶がいる。その蝶が、どこかへ向かって飛び立とうとしている。
「その名前は、私が一番忘れたくなかったものだった。 それでも、あの人に贈ったのは、わたしが記憶の外に出たかったから」
――略。
日高先輩が書いた脚本は思いのほかナレーションの部分が多く、言い間違いがないよう、観客が感情移入できるよう感情を込めながら本番で読み上げた。
日高先輩は喜んでいたから練習したかいがあった。声だけなら緊張せずにただ声にして読書する感覚で、そこに感情を込めるだけでいい。
舞台上に立っている人の緊張は半端じゃないだろう。立っているだけで手足が震えそうなわたしは台詞を覚えてそれを役割を演じて口にするなんて大抵できそうもない。なんとなくやってみようでできるものではないのに蒼生は入部したての頃から緊張もなくやってのけていた。やはり……いや、こういう感情はやめよう。
日高先輩は卒業間際の公演だったため、本当は最後に舞台上で蒼生とわたしがとなりに立つ姿がなぜか見たかったのことだが、こういう形でも一緒の舞台に立ってくれたことが嬉しいと少し涙ぐんでいた。舞台上の演技で泣かせたわけではないが、それでも日高先輩の思い通りに事が運べて良かったと思った。




