《第二章 幼き邂逅》
幼稚園が休みのお昼過ぎ。三十ピースのパズルを組み立てているときに家のインターホンが鳴った。玄関に向かった母は少したってからわたしのもとに来て、お向かいさんが来たから一緒に挨拶するのよとわたしの手を引いた。
玄関先で待っていたのは綺麗な女性と、その女性に手を繋がれている小さな男の子だった。どうやらわたしと同じく、お母さんと一緒に挨拶するように言われた息子さんらしい。向かいの家は約半年前から建設が行われていた。完成したため引っ越してきたと思われる。
はじめての場所や相手に不安を感じているのか、男の子はお母さんの後ろに隠れぎみになっている。前世の幼児期はわたしも極度の人見知りだったからそういう気持ちはよくわかる。
男の子のお母さんは天城結城と名乗った。そして隣の男の子は蒼生だと。
「そうせい……」
聞き覚えのある名前を思わず復唱した。蒼生のことを見つめてしまっていたたが、挨拶がまだだったため結城さんを見上げる。
「葵です。よろしくお願いします」
下げた頭を上げると結城さんはお花が咲いたような笑顔でよろしくねと言ったあと、母に幼稚園はどこに通っているのか聞いて再度わたしに目を向けてきた。今度はしゃがみ込んで至近距離で嬉しそうに言う。
「蒼生も葵ちゃんと同じ幼稚園に通うの。よかったら仲良くしてね」
そう言われて蒼生のほうを見る。一度も目が合わない。
仲良くしていいものだろうか。もしかしたら人見知りではなく異性が苦手なタイプだということもあり得る。そうなら無理矢理つくられた関係に嫌になって、嫌になっても誰にも言えないままストレスだけが積み重なる可能性だってある。この年齢でストレスを感じていることすらわからないだろうしそれを伝えるのも難しい。まあ、今考えても仕方ないか。なにかあったらそのとき考える。
「あおいって呼んでね。よろしく」
母と繋いでいた手を離し、蒼生に手を伸ばしてみた。蒼生の目線がわたしの手のひらに、そしてわたしの顔に。やっと目が合った。
「ぼくのことは、そうせいと。よろしく」
蒼生がわたしの手を握ってくれた。震えている瞳はすぐに別のところを視界に入れるも何度か目を合わせてくれる。極度の緊張さんか異性が苦手なのかどっちだろう。握手してくれるということはそこまで苦手ということではないのかな。また目が合って笑ってみせるとまばたきをされた。
握った手をお互いに離したあと、母同士での会話がはじまり気を抜いた。いつからかそんなわたしを蒼生は見ていたようだ。もしかしたら第一印象がこわかったのかもしれない。だからわたしの笑った顔を見て、そんなにこわい相手ではないかもと今は確認モードに入っているのかも。
もう一度笑ってみると蒼生は緊張が解けたかのような柔らかい表情をみせた。周りに小さなお花が咲いているように見えるくらい温かさを感じる。
挨拶が終わってリビングに戻りパズルを再開した。完成したらひっくり返して、綺麗に繋がれたままのピースをぐちゃぐちゃにしてまた組み立てる。なぜかそういう遊びが好きで同じことを繰り返している。前世の幼児期もそうだった。
おやつの時間には結城さんから頂いたというクッキーがでた。鳥の形をしたクッキーはほんのりと甘くてさくさくとした食感が美味しかった。
幼稚園に途中入園の蒼生と一緒に送迎バスに乗った。自然に隣に座ると、蒼生が緊張していることがよくわかる。
「蒼生の好きな食べ物ってなに?」
「え、食べ物? ハンバーグかな」
「目玉焼きとウインナーも一緒にあるといいよね」
「うん。葵の好きな食べ物は?」
緊張でそれどころではないはずなのに蒼生は素直に答えてくれたうえ、こちらにまで気をまわしてくれる。
「わたしは今のところミートボールかな」
「ぼくも好き」
「ちっちゃいから、ぱくぱくいくらでも食べれるよね」
「葵は意外と食いしん坊なんだね。……あっ、ごめん」
「ううん、意外と思うことを知ってもらえて嬉しいよ」
興味を示すだけでなく弾んだ声で好きなものを話してくれるのは本当に嬉しい。蒼生はほっと息を吐くように、よかったと言葉をこぼした。それだけでも蒼生が気を遣う優しい子なのだとわかる。
気を遣える子ほど周りの目を気にしておどおどしてしまうもの。
「なにか心細いこととかあったら話してね」
不自由なく過ごせる平和な環境で生きてくれたらと、そう思わせるほど蒼生は小さくて守りたくなるような存在で、らしくなくそんなことを口にした。
幼稚園で蒼生は全員の前での挨拶をなんとか済ませ、すこし戸惑いながら先生に指定されたうさぎグループの席に座った。椅子を引く音も小さく、声を出すタイミングを測っているように見える。ときどきこちらを見てくるので助けを求められているように思えてしまう。わたしは蒼生とは違うねこグループで席が遠くもなく近くもないので見守ることしかできない。頑張れ、蒼生。
食後、自由遊びの時間となり絵本を開いた。蒼生は同じグループの子と仲良くできているようなので、いつも通りに絵本やぬり絵セットを用意して自席で時間つぶしに遊ぶことにした。
絵本を読み終え、子供たちに人気のキャラクターのイラストに色鉛筆で色を加えていく。前世では保育園でぬり絵をしていてよく色をはみ出していたけど、好きで何度もやっているうちに綺麗にぬり絵を完成することができていた。そういった成長とかが感じられる遊びが今思うと好きだったのかもしれない。
いつの間にか夢中でぬり絵をしていたところ、視界の端に映った人物を確認すると蒼生だった。どこか落ち込んでいる様子。
「蒼生、大丈夫?」
ゆっくりと首を横に振る姿が可愛らしい。
「どうしたの?」
「やっぱり仲良くできない」
なにがあった。
蒼生が班になったうさぎグループは女の子二人と男の子二人。自由時間には基本的に外で遊ぶ子たちで仲の良さはグループ一番のように見えていた。だから問題ごとなんておこらない、と。わたしがそばにいるよりそういった子たちの近くにいるほうが蒼生にとって、とてもいい環境とばかり。
「ぼくのせいでまた喧嘩になった」
またとはなんだ。蒼生は今日、幼稚園に来たばかりで喧嘩騒動は見ていない。
「座って」
「葵の席……」
「いいから。蒼生の椅子借りてもいい?」
「うん」
蒼生をわたしの席に座らせて、蒼生の椅子を持ってきて隣に座る。
「うさぎグループの子と喧嘩したの?」
「ぼくのせいで喧嘩になった」
「蒼生以外の子が喧嘩になったってこと?」
蒼生がうなずいたので一歩踏み込んでみる。
「蒼生がなにか言ったりしたの?」
「ぼくはなにも。てつなぎ鬼するってなって、それで誰が鬼になるのかって話になって。ぼくは鬼って決められてたんだけどもう一人が決まらなくて。じゃんけんで勝った子になるはずだったのに言い合いが始まって、やっぱりぼくやらないって走ってきちゃった」
じゃんけんで勝ったほうが鬼、なんてそれだけで少しおかしな話に聞こえるけれど今はそんな感じなの? そもそも蒼生が鬼と決められていたなんて、ちょっとしたいじめかそれとも……蒼生と手を繋ぎたかっただけ? そうなると、蒼生と仲良くなりたくて喧嘩になった、そういうことになる。実際のところあっているかわからないけれど、もうひとつ気になることがある。
「またって、まえはいつ喧嘩になったの」
「ここに来る前に」
この幼稚園もしくは引っ越して来る前にも同じようなことがあったのは、もしかしたら蒼生の可愛い容姿のせいなのかもしれない。周りの男の子たちよりも目立つ存在に執心してしまうのか。そこも想像でしかないけど、喧嘩になったのは蒼生の言動のせいではない。蒼生がいたから起きてしまったことではあるのかもしれない。だとしても蒼生だけが責任を感じて負うことではない。
「今度同じことあったら、みんなと順番に鬼をやりたいって言ったら喜ぶと思うよ。順番のことでも喧嘩になるなら、ぼくのために喧嘩しないで! って本音を言えばいい。言葉で伝えればきっと蒼生の気持ち、わかってくれるよ」
「今度、そうしてみる」
すっきりとした面持ちになった蒼生はわたしが途中まで色を塗っていたぬり絵に興味を示し、やりたそうだったので勧めた。
自由時間終わりぎわ、蒼生と一緒に椅子を戻しているときに外から戻って来たうさぎグループの子たちは、蒼生に謝っていた。
送迎バスの窓から差し込む光がシートの端を金色に染めている。
以前までは窓際で流れる風景をただ眺めていただけなのだが隣に蒼生が座っていて窓際の席を譲っているため、風景を見るにしても蒼生越しとなるため、会話を交わしているほうが気楽に感じる。
「嫌われるのがこわくて」
言葉を選びすぎて発言できないという蒼生の理由は、わたしの心をえぐる。前世のわたしは幼児期から周りの目を気にしすぎる性格だった。周りの目を気にしすぎて嫌われるのを恐れていたのか、嫌われるのを恐れて周りの目を気にしすぎていたのか。どちらにしろ言動を制御していた。そんなわたしに蒼生が似ていると第一印象で感じたから、庇護欲のような感情を初めて人に抱いたのか。
「蒼生は素直で優しいから誰とも仲良くなれるよ」
「そうかな」
「もし蒼生を嫌う人がいるなら、その人がやなやつなだけだから気にしなくていいよ。誰かに嫌われたとしても悪者になるわけじゃないし。もし悪者にしてくる人がいたらその人が悪者なだけだし」
「やなやつとかに嫌われたら、ぼくのこと嫌いにならない?」
「もちろん。やなやつがいたら顔も見ないし、記憶にも残さない」
わたしが唯一、前世で周りの目を全く気にせず自由を謳歌していた時期は小学校低学年の三年間。友達という存在を信じて疑わなかったときだろう。高学年では幼児期とまではいかずとも周りの目は気になっていた。
「どうしたら友達つくれるかな」
「友達になりたい相手がいたら、その人と一緒にいる時間を増やせばいいと思う。そしたら自然に友達になっているものらしいから」
友達はいつの間にかなっているもののようだが、前世でそのことを知らなかった小学校登校初日、初対面の子に友達になろうと言ったことがある。用事があったのかその子は、うん、ちょっと待ってとどこかに行ってしまった。その出来事で、友達は口頭でなるものではないとさとった。
蒼生が途中入園してからすぐに運動会の練習が始まり、約一カ月が経ち本番当日。青い空の下、園庭には赤・白の二色の旗が風に揺れている。蒼生もわたしも白組だ。前世での幼児期の運動会は全く覚えていない。
かけっこはクラス対抗ではなく個人の順位を競うもの。
四人での競争となり、わたしはスタートラインに立つ。走る距離は年中のため短い。蒼生も同じスタートラインに立っている。この幼稚園での初めての運動会ということもあってか蒼生は緊張している面持ちだ。
レースが始まり、走り出す。
前世では遊びに対しても全力で、隠れ負けず嫌いなところもあった。今世では年に一度しかない行事など楽しんだ勝ちのように思う。
砂を巻き上げる音と観客席からのざわめきが聞こえて瞬時に振り返ると、蒼生が砂の上に倒れたまま両手をついて、上半身を起こそうとしていた。駆け寄りり声をかけて体に傷がないか確認すると、膝に擦り傷を負っている。
「保健室行く?」
「まだ走れる」
「じゃあ、一緒に走ろう」
手を差し伸べたわたしの手を握った蒼生と二人で走ってゴールテープを同時に切ると、テープを持っていた先生に保健室へ案内をされた。
「痛いよね?」
「少しだけ滲みる」
蛇口で膝の傷などを水洗いしている蒼生に聞くとやはり痛いらしい。
「蒼生、かっこよかったよ」
「ほんと? 転んじゃったけど」
「走れるって聞いたときびっくりしたもん」
話していると救急セットを持ってきてくれた先生が蒼生の傷口を消毒したあと絆創膏を貼ってくれた。
先生と蒼生とともにご両親のもとへ行くと、女性がとても申し訳なさそうに謝っていた。そのため蒼生のもとにこれなかったのかもしれない。
「わざとやったことではないですし」
穏やかな声で対応している結城さんが蒼生の存在に気づく。同じタイミングで気づいた女性が、申し訳なさそうにしながら蒼生に謝った。蒼生は女性に対して、大丈夫ですと答える。
その後、先生の保護者への話が終わり、女性が立ち去ってから結城さんは蒼生にやっと声をかけられた。
「蒼生、大丈夫?」
「擦り傷だから、大丈夫だよ」
「本当に大丈夫なのか?」
「うん」
両親はしゃがみ込んで蒼生の心配をしている。蒼生のお父さんは初めて見た。一言で言うなら美男美女夫婦だ。その光景を見ていると結城さんと目が合った。
「葵ちゃん。蒼生を助けてくれてありがとう」
「いえ」
「本当は一番だったのに、一緒に走ってくれただろう」
「わたしが蒼生と一緒に走りたかったんです」
そう答えると二人は目を合わせて笑った。そのときの雰囲気で感じた。あ、これ。相思相愛、円満夫婦というやつだと。前世も含めて初めてこの目でその存在を確認した。宇宙人並みに希少だと思う。そんな希少な存在から生まれた蒼生は唯一無二? ずっとそのままでいてほしい。蒼生のためにも。
運動会を終えた後日、教室で噂になっていた。くまグループの熊田くんが、わざと蒼生に思いきり肘をぶつけて転ばせたと。熊田くんはふくよかな子だ。体当たりされたら蒼生なら吹き飛ぶ。真相はどうなのだろうか。
おもに女の子たちが騒ぎ立てていて、それに対して熊田くんはわざとじゃないと突っぱねている。女の子たちが聞きたい言葉はそれではないはずだ。これではいくら時間が経ってもほとぼりが冷めない。
本人がわざとでないと証言しているのだから、蒼生にぶつかったのは確かなのだろう。その行為に悪意があったのか。見ていた子たちは悪意があったと答えを出しているようだが。蒼生はそれとは違う答えを出したのか、答えが不明だから何も言わなかったのか。それとも悪意を感じたからこそ言わなかったのか。
どうであろうとも、熊田くんのあの態度は許せるものではない。
「わざとやったことじゃないし」
そればかりを繰り返していて、もう開き直ってすらいるように見える。
「熊田くん」
静かに呼びかけると熊田くんは、そんなに驚くかというくらい目を丸くした。女の子に声をかけられるのは慣れているであろうに。初めて声をかけたからか。
「わざとやったことでないなら、なおさら謝るべきだと思う」
「なんだよ。そいつだけ名前呼びしやがって!」
「……は?」
脈絡のなさに驚いて一瞬、感情を隠すことを忘れてしまった。
わたしの感情を一切察していない熊田くんの勢いは止まらない。
「おれのことは熊田、熊田って。なんであとから来たそいつとのほうが仲いいんだよ」
「蒼生とはよく話すから」
「顔! 顔がいいからだろ!」
子供は感情的になることが多く、感情的に話す相手とは話にならないことも多い。脱線したこの状況、どうすれば収拾がつくか。
わたしと仲良くなりたいような素振りは見たことがなかった。わたしが気付かなかっただけなら接点がなくても話しかけてくれればと思うけれど、もしかしたらそれは難易度が高かったのかもしれない。
蒼生が来るまで前世と同じように他人と深く関わらないようにしていたから、無口で何考えているかわからない存在になっていたと思う。
「蒼生は素直で優しくて、そばにいても落ち着くから一緒にいるの。自分が悪いことをしたわけでもないのに、悪いと思ったらすぐに謝ってくれるすごい子だからそばにいても安心できるの。熊田くんと大きく違うのはそこだと思う」
なにを思ったか泣きそうになってしまった熊田くんは逃げ出してしまった。
傷つけて傷つくのも単純に傷つけられるのも疲れるから、本当に大丈夫な相手にだけ素で接することを決めていた。
基本的にわたしのするかしないかの判断基準が、疲れるか疲れないかだった。悪口を言うのは疲れるため言わない。誰かに嫌なことをするのも疲れるからしない。誰かを嫌うのも憎むのも妬むのも疲れるからしない。
落ち葉の色が深くなっていき落葉樹の葉が落ちきったあと、教室でクリスマスの飾りづくりが行われた。蒼生が星の折り紙をくれたのでわたしも同じく星の折り紙を渡したらとても嬉しそうに笑ってくれた。
年の始まりには伝承遊びの福笑いで蒼生とペアを組み、目隠しをして蒼生の指示通りに顔のパーツを置いていき完成したおかめを見て吹き出した。蒼生も耐えきれなくなったように笑い出し、順番を交代して目隠しをする蒼生に指示を出していたけれどいつの間にかつぼに入っていてくすくすしていたら「なに笑っているの。そんなに変?」と聞かれて変じゃないよと答えておいた。他の子たちの穏やかな笑い声も教室の空気をやわらかく包み込んでいた。
節分の日には鬼面づくりが行われ、鬼役の先生などがいたり、鬼は外をしたり前年と変わりなかった。変わったのは蒼生がいることくらい。
お別れ会のあとは幼稚園内でのお花見、そして園庭に鯉のぼりが揺れる季節となったとき「風が強いとほんとに泳いでるみたいだね」という蒼生の声と「それなら青空は川だね」と答えたわたしの声は風に乗って流れていった。
梅雨の時期には教室の窓に、子どもたちが作ったてるてる坊主が並んだ。蒼生作のてるてる坊主はなんだかやさしい顔をしていて、わたしはそれを見て少しだけ晴れた気持ちになった。
「なにを書けばいいのかな」
「こんなことがおきてほしいとか、こういうことはおきてほしくないとか。例えばクリスマスや誕生日にも貰えなさそうな、どうしてもほしいものがあるならそれがほしいって願うのもいいと思う」
「葵はなんて書いたの?」
「まわりにいる人に嫌なことがおこりませんように。わたしにとっての幸せは、嫌なことがないことだから」
短冊に願い事を書く日。
「書けた」
わたしの願い事を見本に蒼生が書いたものを、思わず凝視した。
――あおいにいやなことがおこりませんように
「葵に幸せでいてほしい」
心の奥で眠っていた感情がひらりと目を覚ました気がした。
誰かに想われている、そんな実感をしたのはこの時以外に思い出せない。今までそういった出来事がなかったのか、相手の好意に気づかなかったのか。もしかしたらそういう記憶を残そうとしなかったのかもしれない。
蒼生となら高校か大学まで、自然と側を離れることになるまでの間、一緒にいて誤解など生まれても変わらない関係でいられるかもしれない。
小学校には蒼生と二人で三十分ほど歩いて通っていた。
「こいつみたいのを腰巾着って言うらしいぜ」
あの熊田くんが筆頭にほかの男子も同じようにしてからかってくるようになってから、蒼生の元気がなくなったときもあった。
「ぼくのせいで葵にまで嫌な思いさせる。一緒にいないほうがいいのかな」
「わたしは、まわりの目を気にして蒼生と離れたくないよ。蒼生がわたしといると疲れるから嫌だってときは離れたいから、そのときはちゃんと言ってほしい」
熊田くんに腰巾着と言われていつも真っ先に浮かぶ感情は、金魚の糞に比べれば言葉の響き的に綺麗だな、だった。小学生で金魚の糞ではなく腰巾着という単語を選んだもしくは先に知ったのは、歴史まんがなどから得た知識か親の影響なんだろうかとか、熊田くんはガキ大将のように絡んでくるなとか、同性の友達多いな人気者なんだなとかそれまでは考えていた。
「巾着って便利だよ。大事なもの入ってるし」
「そういうこと言ってんじゃねー」
「ならどういうことを言っているの? お互いに信頼しているから一緒にいるんだよ。どうしてそれをからかうの? 人が嫌がることする人、かっこ悪いと思う。自分の行いをちゃんと見つめることのできる人、かっこいいと思う」
その日から熊田くんとその友達が構ってくることはなくなった。
前世の小学校低学年の頃は、異性の子と六人ほどで毎日鬼ごっこをするほど体を動かすことが好きだった。いつの日か、普通に走るのと忍者走りではどちらが早いのか試したことがある。体感で忍者走りのほうが速かったが、あまりにも危険だと気づいたので数回ほどやってやめた。転びやすい体勢であり、勢いあまって転んだときには手をつけず顔面をぶつけると子供ながらに想像ができたのだ。でもそういうリスクがあっても全力で走るのは気持ち良かった。
体を動かすことがとにかく好きで、運動会二年間ともアンカーだった。最後の一年は測定のとき、買ったばかりの靴が脱げてしまい走り出しの一番となったことが悔しかったのを覚えている。アンカーのほうが楽しかったのだと思う。
ちょっとした冒険に行くこともしていて、方向音痴のせいで迷子になったときもある。秘密基地を作ったりもした。女の子の家で遊ぶことになったときはおままごとの類のやり方がわからず、お人形を渡されて固まっていた。
友達がいることは心強くも、傷つけられるときもある。わたしは一度、男の子たちにはぶられたことに傷ついて、遊ぶ約束をすることをやめ走ることをやめ、運動会も休むようになった。
高学年になってから女の子の友達が何人かできたけれど、ある一人の友達に騙されて、親友を傷つけたことに傷ついて一生友達をつくらないことを決めた。
親友を傷つけてからは幸せを感じることに後ろめたさがあり、わたしのそばにいたら不幸になるぞというオーラをまといながら学校生活を送っていた。それなのにまわりにはなぜか人が集まってくれて一人になることはなかった。それでも友達にならないと心の中で一線を引いていたため、孤独を感じていた。
そういえばそんなときのわたしでも、学校で腕相撲が一番強かった子が挑できて勝ったの嬉しかった。本当はもっと遊びたかった。
高学年になってからは二人して自転車通学となった。そのための自転車に乗るためのコツはわたしが蒼生に教えたけれど習得が早くて驚いたことを覚えている。
きっかけは、蒼生のお母さんに仲良くしてねと言われたからだった。少し接してみただけで心根のいい子だと感じて、嫌なことがない日々を送ってほしいと思った。他の子たちよりもほんの少し早めに出会ったことで頼りにされてからそばにいることが多くなった。それは蒼生自身がわたしのそばに寄ってきてくれることと、先生がペアにさせたりすることが多かったから。それと家が向かいで送迎バスへ乗るタイミングやその他接点が多かっただと思う。
中学校には十五分ほど歩いて通った。ヘルメットを着用したり駐輪場などで鍵をかけたりすることが手間に感じて自転車通学するよりも歩くほうが気楽だと気づき途中で通学方法を変更したのだが、蒼生も同じ考えだったらしく小学生の頃と同じく一緒に徒歩通学となった。
以前まではいつも一緒にいてもそれほどおかしいと思われなかった。
いつも通りの時間に家から出ると蒼生も同じタイミングで現れる。
「傷つけて傷つくのが嫌だから友達はなるべくつくりたくない。友達をつくるのは大人になってからでも遅くないと思う」
友達の話になったときに本音を口にしたら蒼生に、自分はわたしにとって何なのかと問われた。わたしは首を傾げながら答えた。
「身内? のようなもの?」
バレンタインの日には別クラスや学年からも蒼生にチョコを渡しにくる女子がたくさん来て、完全に学校のアイドルと化しているのを実感した。同クラスの男子が羨ましそうにしているなか蒼生は「チョコは苦手だから」と全て断ったのである。受け取ってもらうだけでもいいからという女子が多かったが先生に注意されて持ち帰っていっていた。
小さい頃、蒼生はバレンタインデーに女子からチョコを貰ったことがある。蒼生のお母さんは微笑ましそうにしていたらしくホワイトデーのお返しを考えてくれて用意されたそれを女子に渡したとき、『あたしたち両想いなのね!』と勘違いして抱きしめられたことがあまりいい思い出ではなかったらしい。そのときに居合わせたわたしは抱きしめられた蒼生が驚いて固まったあとに青い顔をして女子を突き飛ばしたところもしっかりと見ている。尻もちをついた女子は泣いてしまって蒼生はおろおろとしてしまって、仲介に入るしかないと思い蒼生に大丈夫だよと伝えて女子に大丈夫かと聞いて手を伸ばしたけれどその手は女子に弾き飛ばされた。『あんたが悪いのよ!』と、幼稚園児にしてちょい昼ドラかと心の中で思いながらいい音がした手を眺めていたところで先生が来てくれて場をおさめてくれたのだ。『ぼくが悪いのに』と蒼生はわたしの手を握りながら申し訳なさそうに心配してくれていた。わたしが出しゃばって勝手に八つ当たりを受けただけだというのに、それから蒼生は同い年からのチョコどころか贈り物を一切受け取らないようになった。
幼稚園でも小さな修羅場が発生する。今直接に蒼生と女子の間に入ったら何があるかわからないしまた蒼生がわたしに申し訳なく感じる出来事が起きてしまうかもしれないから無暗に邪魔になるようなことはできない。
「中学生で早いのかなとも思うけどそうでもないのかなとも思う」
その日の帰り道、恋愛についてどう思うか聞かれどっちつかずの回答をした。
「蒼生は恋愛したいと思うの?」
「よくわからない。葵は?」
聞かれて思い出す。小学生低学年の出来事。
好きだと思っていた男の子に、お小遣いで買ったチョコレートを渡した。ホワイトデーに男の子からはくまのぬいぐるみとクッキーが入った可愛らしい贈り物を頂いた。
両想いなのではと思っていた時期もあった。
中学生となり、その男の子が女の子と付き合ったことを知った。同時に、その男の子が女の子と幸せそうにしているところを目撃してーー心の底から嬉しくて、心の中がほんわかしながら、良かったねと伝えるように思ったことがある。
それは異性として好きだったわけではなく、人として好きだったということに気づいたときだった。
もうひとつ、大人になってから思ったことがある。
もしかすると私は、リスロマンティックなのかもしれない。好きになっても、好かれたくはない。そんな矛盾な感情。
だからあのとき安心した。好きな男の子の幸せに、同じくらいの幸せを感じて嬉しがった。まあ、ただ単に異性として見ていなかっただけの可能性が高いのかもだけど。
「わたしはもしかしたらリスロマンティックかもしれないから、恋愛はできないかな」
好きな人がわたしを好きだとわかったとき、わたしが相手を嫌いになってしまうのなら恋愛なんて一生できない。
蒼生の真似をしてバスケ部に入り、二年目となった。男子バスケ部のマネジャーではなく女子バスケ部にて活動をしている。体を動かすのは好きなことと、マネジャーなんて見知らぬ誰かのサポートなんてできる気がしなかった。こんなやつがマネージャーかなんて残念がられるのも嫌だからというのも少しある。蒼生専属にならできそうなんて言ったら色々な見方をされる。何を選択するにも複雑な感情が混ざり合ったりするけど自分のしたいようにできている。
「バスケ部やめようかな」
隣に座っている月岡さんが、遠い目をしている。その視線の先には、女子バスケ部の不真面目な三人組のメンバー。いつも会話をしていて主に男子バスケ部の試合を見ていたりしていて、真面目にバスケ練習しているところを見たところがない。わたしもそこまで必死になってやっているわけではないが、月岡さんもわたしも体力作りや試合練習のときは私語なく必要な会話しかしないようにしていた。今までは。
「ならわたしもやめようかな」
「どうして」
「月岡さんしか意思疎通をはかれる人いないから」
「白河さんは、たくさん友達つくれると思う」
「わたしは楽しいことを共有できる人が近くにいればそれでいい」
先輩とは距離感が離れていて、後輩とはそれとなくな距離感でいる。クラスが違う月岡さんが学年の中で一番心を許せる同性だと自覚している。物静かで場の空気を乱したりしない。後輩にも親切で、先輩には頭を低くしていて、そんないい子。そんないい子をわたしも前世では青春時代に発揮していた。自分自身では演じていたつもりではないけれど、嫌われたくなくてそんなふうにしていたんじゃないかと思う。嫌いな人も作らないようにしていた。それはたぶん嫌われたくないから。嫌いになると嫌われると思っていたから。
「わたしのわがままだけど残りの部活動、月岡さんと一緒にやりたい」
月岡さんは頷いた。
それから少し経ってから、不真面目な三人組に月岡さんがわたしの悪口を言っていたと言われ本人に聞くと本当のことだった。月岡さんが蒼生のことを幼稚園の頃から気になっていたことが根本的な理由。
前世ならしないようなスキンシップを学校でもしていたのがいけなかったらしい。スキンシップといっても部活動後に蒼生に声をかけたり、一緒に帰るために蒼生を待ったり、悪ふざけとかを蒼生にしてみたりしていただけだ。
月岡さんがあのときにわたしに、たくさん友達つくれると思うと言っていたのは女性と接してほしい気持ちがあったからなのだと気づいた。事前にそれに気づいて対処できていたはずだけど、そういうことはもう面倒で普通であろうとしたから起きたこと。
「良かった」
というと驚かれた。
「ブーメラン、やっとかえってきたから」
やったことは自分にかえってくるもののはずなのに、前世であの子を傷つけた因果応報は今までなかった。だからこそなおさらこわくて、気持ちの整理もとても長い時間がかかった。
悪口を言われていたことが事実だと知り、なぜか報われたと思ってしまった。もしかしたらあの子の痛みを、今の今まで感じたいと待ちわびていたのかもしれない。ただの自己満足。もうあの子に謝るすべがないからこうやって自戒するしかない。あのときちゃんと、悪口は言っていないと本当のことを言えばいいだけだったのに疑われて傷つくのがこわいからと行動できずあの子を傷つけ、結局傷ついた。だからあの子にとってそれは事実となってしまった。
もう同じ過ちは繰り返さないと自省を何度もしていたけど、ブーメランがかえってきていないことが原因で自分自身を信用できないでいた。でも、それがかえってきたから手元にあるから、もう振るわない。
心が軽くなって頬が緩んでしまう。同時に感情が目から溢れ出す。
すがすがしいはずなのに、穏やかな気持ちでいて涙なんて出るはずがないのに真夏の汗のように頬を流れる。そのことに焦りを感じれば感じるほど感情を抑えられない。家であれば許されるけれど、こんなのだめだ。
正直に前世のことをまるで今世の出来事のように話すと、涙を浮かべられた。
前世では、小学生のときに親友と呼べる子との関係を友達に切られてから、傷つけて傷つくのが嫌だから友達はなるべくつくりたくないと心を閉じこめるようになった。
あのときのことは鮮明に覚えている。
なぜか電話越しに親友の悪口から始められて戸惑いながら頷きながら話を聞いた。それがなぜか翌日にはその友達が親友にわたしが悪口言っていたよと言っていたらしく、卒業間近であったこともあり疎遠になってしまった。その子は小学校高学年に上がるときに転校してきた子で、怖くないかな寂しくないかなと、力になりたくて仲良くなりたくて自分から話しかけて毎日行動を共にするようになった。気兼ねなく話せていたし、彼女が笑っている顔を見て嬉しくなるのが常だった。それなのに、悪口を言っていたと勘違いされて誤解を解くことも謝ることもできなかった。謝れば悪口を言っていたことになってしまうと、子供で頭が足りなかったせいでそんな思い込みで自分を責めるしかなかった。自分だけがいけなかったと。
友達をつくらないようにしていたけれど、人に恵まれていたため周りには人が集まってくれていたから一人になったことはない。ただずっと孤独だった。学校がまるで牢獄のようで、卒業時は学校を見ながら『やっと解放される』と心底安堵するほどだった。
自分の傍にいる人は不幸になるという強い思い込みは、社会人になってから数年経ってようやく消えてくれた。
天使のような子が仕組んだ罠だった。天使のような子はこわい。誤解を解けなかったのはわたしのせいではあるけれど、普通に学校生活を送れていたら有り得ない状況をつくったのは天使のような悪魔だった。そうやって納得することができた。なんでも自分だけのせいにして責めることはなくなった。楽な生活をできるようになったんだ。気づくのが遅すぎたかもしれないけれど、遅くても気づけて良かった。
個人の見解では、職場では楽しい日々を過ごせていたから、学校は職場よりも人間関係の問題が起こりやすい。どうしても誰かが誰かを誤解してしまう。 だから、友達をつくるなら、もう少しだけ生き方が定まってからでもいい──そう思えるようになった。
「蒼生のことが羨ましくていじわるなことしてた」
ちょっとした騒動があってから、幼稚園で一緒だった熊田くんがぶっちゃけてきた。聞いた感想は、うんそうなんだといった感じで声には出していなけどそういった理由でしかないとは思っていた。
「やっぱり蒼生のことが?」
蒼生のことが? 蒼生のことが。ああ、好きとか。
なんて周りくどい。
「熊田くんが思うような感情は抱いていないよ」
前世ならここで愛想笑いをしていた。でももう無理する必要ないから、幼稚園のときと同じように表情をつくらず答えていた。嫌われてもいいし、感情を乗せるような話題ではない。
「人間関係はやっぱり疲れるね」
「無理して馴れ合うものじゃない」
「これ以上は無理になるのがわかる」
体育館での月岡さんのとのことを知っている蒼生は気遣ってくれる。
今までは無理して月岡さんに心を勝手に許しているわけではなく、これからもそうすればそれは無理になる。熊田くんも幼稚園の頃からほんの少しの好意を抱いてくれているようなので距離を縮めるようなことをしたら面倒になるようにしか思えないから塩対応がちょうどいい。
「男女の友情は成立しないだとか、彼氏彼女いるいないだの話題になっていることあるけど。まだ周りの目、気にしないんだね」
「他人を気にして側から離れることはしたくない」
「離れたくなったときは気を遣わずに離れてね」
前世と同じような心の変化をしていた。自分の行いで周りの人が負の感情を抱いて欲しくない、だからそんな行動は控えたほうがいい。
そういう気持ちを強く抱きすぎて自分自身が本当にしたいことができなくなり、本当にしたいことなのか自分自答して誰かがこう思ってしまうなら、そう思われるくらいならしたくないといろいろと諦めて。幼き頃と違って何にも手を伸ばさず、わざと流行なものとかも避けるようになり。つまらない世界を自分でつくり上げていた。
そんなのはもう嫌だから、限度が知りたい。限度も自分でつくりあげる枷?




