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推しと独りよがり  作者: 常盤椿


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《第四章 実在する偶像》

『隔離図書館の夜』。


 この図書館は街の時計が止まった日以来、誰にも知られていない。 その中に、二人はいた。レイは黒い帽子を深く被り、クロエは薔薇をあしらった赤いケープに包まれている。

 本棚の隙間から差すランプの光だけが、時間の代わりになっていた。

「今日の物語、開けてみようか」

「でも、また戻れなくなるかも」

 ふたりは一冊の古い書物を開いた。


 その夜も、彼らは物語の中へ沈んでいく。

  物語の主人公は名前もない旅人で、記憶の庭を歩く。その旅人の選ぶ道が、なぜかレイの視線と重なる。

「この道は君が選んだ?」

  「君が読でくれたから進めたんだよ」

 クロエは本を閉じずに、指先でページの端を撫でる。それは、まだ終わらない物語に触れる仕草だった。

 ふたりの影が、旅人の足跡に重なる瞬間、物語の風景が揺らいだ。


 クロエがふと、図書館の奥にある書かれていない言葉たちの棚へ足を運んだ夜。 そこには誰かが書こうとして書き損ねた原稿が積み重なっていた。

「不思議だね。 言葉にしようとして、やめちゃったみたい」

 レイは言葉を選ぶように、そっと呟いた。

「書けなかったのは、読む人がいなかったからかも」

 クロエは灯りを手に取り、棚の奥に目を凝らした。 そこには、埃をかぶった一冊の本があった。

「これ、誰が置いたんだろう?」

  「もしかして、ここに来た誰かが残したのかもね」

 クロエはその本を開こうとしたが、ページは固く閉じられていた。 レイがそっと手を添え、二人で力を合わせて開くと、そこには一行だけ文字が記されていた。

「『この物語を完成させるのは、君たちだ』」

 その言葉に、クロエは小さく笑った。

「じゃあ、続きを書いてみようか」

 レイも微笑みながら頷いた。

「そうだね。僕たちなら、きっと書ける」

 その夜、二人は初めて一緒に物語を書き始めた。 それは、まだ誰にも読まれていない、けれど確かに存在する物語の始まりだった。


 時刻を示す時計は存在しない。 でも、図書館の風が少し冷たくなった瞬間、レイはクロエに小さく言った。

「この場所が牢になるか、居場所になるかは、君次第」


 ――略。

 大学でも蒼生と同じく演劇部に入部した。

 春のアトリエは自由度が高く、したいようにしたもんがちということで葵は入部してから二年目に脚本を書いてみることにした。それはもう物語とは言えない酷いもので、それでも遊び半分ということで演じてもらうと不思議とそれらしくなり、葵は脚本を書きそれが物語として完成していく過程が楽しいことを知った。演者さんがいてこその楽しさであり、脚本が酷ければそれなりのものしか完成されないことは前提である。脚本のテーマをきちんと決めて書かなければ何も伝わることのない物語。実際に春のアトリエで公演したわけではない。

 日高先輩の影響で書き始め、小説に近いものを暇な時間に書き始めた。暇な時間というのは図書委員会の係を務めている時間である。実際に公演するわけもないので本格的な脚本の書き方を学ぶ時間をつくらなかった。




 周りの大校生が当然のように化粧をしているなか、今世では今日初めて化粧をして登校したわたしへの蒼生からの一言。

「化粧しなくても綺麗なのに」

「高校生の肌だからすごい綺麗だけどね」

 精神年齢が高い系女子みたいなわたしの発言に、蒼生はいつもふっと口角を上げるだけで済ませる。声は出さないけれど、笑いをこらえているのがわかる。笑っていいよと言ってみても、蒼生はただ微笑むだけ。

「気になる人でも?」

「視線に辛さを感じただけだよ」

 雰囲気が一変し、蒼生が訝しげな表情を浮かべたのに気づく。やってしまった、これは感情がプラスになる話ではない。

「負の感情にさせるだけの話の内容だったよね、ごめん」

「構わないよ。話して」

 蒼生が真剣な顔で続きを促すから、家からバス停までの間、わたしらしくもなく弱音を吐いた。

「なんでお前みたいな女が蒼生の隣にいるんだっていう視線、見たことない?」

「ないよ」

「わたしは頻繁にあるの」

「どこで?」

「例えばバスの中でとか。学校の中でとか。蒼生の側にいるときはほとんどそうだよ」

「勘違いとかでは」

「そうだったらいいけど、そうじゃなくて。一応、人の感情に敏感なつもりでいるからね」

 学校にチョコを持ってくるのは禁止、と先生が生徒たちに注意をするきっかけとなった存在。蒼生のそばにいたいと思う一方で、その代償のようなものをやはり支払うことになる。

「マスクしててもその視線が変わらないからいっそのこと化けられればと思って、今更特訓しようかと」

 前世では、バイトをはじめてから、最低限の化粧をするようになった。そうするのが義務だと思ってはじめたことだ。

「そんなに周りの目を気にするようになるとは思わなかった」

「気にしていないつもりでも、たぶん気にしはじめてる。不安なこととか、負の感情をうつすだけだから言わないようにしている。いっそのこと言うけど、自己肯定感は昔からあんまり高くなかった気がする。小さい頃は駆け回るだけで楽しんでいた人も今は外見で評価する人になっているからこわい」

「他人の評価なんて気にしなくていいって、今はそう思えないのかな」

 バス停に着き、いつもと同じ時間のバスに乗り込む。後席から三番目の席に落ち着くのは、左側の席だと乗客の乗り降りで揺れて酔いやすいと気づいたから。

 あるバス停で乗客が乗ってくると、その瞬間から視線が刺さるように感じられる。ちらっと見ただけでも、いつもの人たちがこっちを見ている。怖すぎる。

「目が合った」

「睨んでない?」

「それもかっこよすぎ」

 女子たちの黄色い声。先ほどわたしが話したことを確かめるように、蒼生がさりげなく周囲に視線を向けている。それであの子たちの反応が一段と鮮やかになったわけだ。やめてほしくて気づかれないように蒼生の袖を引っ張る。蒼生がわたしの行動の意図を汲み取ってくれてからは、そういった反応がなくなった。

 蒼生がわたしのために心を砕く必要なんてない。そんな場面が増えていくようなら、それはきっと、わたしが蒼生のそばを離れるべきタイミング。

「視線が気になるなら、目を閉じてればいい」

「もし寝たら起こしてくれる?」

「当然」

 話をしたり外を見ていたりするほうが時間が過ぎるのを早く感じるけど、最近はそうでもなかったりするから蒼生の提案にのることにした。学校まで約三十分かかるから寝てしまうことも心配していたけどいっそのこと寝てしまったほうが楽だ。俯きぎみに目を瞑る。ふと、左耳にやわらかな感触が触れた。心臓が跳ねて、慌てて目を開けると、蒼生の手がイヤホンをわたしの耳にかけようとしていた。

「びっくりした」

「暇だから」

 そう言いながらわたしの左耳にイヤホンをかけて、蒼生自身も右耳にイヤホンをかけた。青春か、と内心呟きながらもお礼を言って目を閉じた。流れてきた歌が心をやさしく鎮めてくれる。

 蒼生の隣にいる時間が心地よい。わたしの心をほどいてくれるのはもう何度目だろう。蒼生の隣にいることがこんなにも自然で、特別なことだなんて。

 蒼生の笑みがなにより好きだ。その笑顔を引き出せた瞬間がわたしにとっての至福。眼差しまで柔らかくて、きゅんとするしかない。こんなことを口に出したら完全に変態だ。

 この感情を伝えることはない。伝えてしまえばきっと何かが変わってしまう。だから今日も、言葉にせずに抱きしめている。触れれば壊れてしまいそうなものほど、壊したくはない。触れられないまま、息づいている。




 大学三年生の春のアトリエを機にまた書いてみた。

『心核 -コア-』


 世界には、人の内側に心核コアと呼ばれる光が宿っているという説がある。 それは記憶でも感情でもなく、形のない輪郭──共鳴によってのみ現れるもの。

 唯音いおんは、自分に心核など存在しないと思っていた。 言葉が届かず、何かを守る強さも持たず、空っぽの器だと感じていた。

 そんな彼の前に現れたのが、朱璃しゅり

「落ちないように、心の音を聴くために」

  彼の耳には、誰かの心核が震える音が聞こえるという。 そのため、イヤフォンには羽の飾りがついていた。

「君の心核はどんな音を持っているの?」

 唯音は答えられず、ただ俯いていた。


 朱璃と唯音は、心核が共鳴する音を探しに、音の消えた街を訪れる。

 その街では、かつて人々が心核を通じて交わした言葉が、今も空間に残響として漂っているという。

「ここ、静かすぎる……でも、何かが聴こえる気がする」

 朱璃が耳を澄ませると、微かな音が風に乗って流れてきた。 それは、誰かが残した「ありがとう」という言葉の断片だった。

「この音、誰が残したんだろう?」

 唯音はその音に触れ、自分の心核が微かに震えるのを感じる。 「これが……共鳴?」

 二人は、街の中で次々と響きを拾い集め、 それが過去の記憶や感情と結びついていることに気づく。

「この街の音を全部集めたら、何が見えるんだろう?」

 朱璃は唯音に問いかけた。


 音を拾い集める中で、朱璃と唯音は他にも“音”を持つ者たちと出会う。 彼らはそれぞれ異なる音を持ち、それが心核の形や色に影響を与えていた。

「君の音は、まるで星の瞬きみたいだね」

 そう語るのは、心核が星空のように輝く少年・蒼真そうま。 彼は、音を通じて人々の記憶を紡ぐ力を持っていた。

「僕の音は、どんなふうに響いているんだろう?」

 唯音は蒼真に尋ねた。

 三人は協力して、音の消えた街に新たな響きを取り戻そうとする。 その過程で、唯音は自分の心核が持つ本当の力に気づき始める。

「この街に響きを戻せたら、僕たちの心核も変わるのかな?」 朱璃は蒼真に問いかけた。


 唯音は、これまで誰にも話せなかった言葉をノートに書き留めるようになる。 そのノートには、名前を持たなかった感情や記憶が綴られていた。

「君が書いた言葉、まるで心核の光みたいだね」

 朱璃はそう言いながら、唯音のノートを手に取る。 その瞬間、ノートから微かな光が溢れ出し、二人の心核が共鳴する。

「このノートに書かれた言葉、全部読んでみたいな」

 朱璃は唯音に微笑みかけた。


 唯音は、自分の心核に名前を与える決意をする。 それは、これまで誰にも見せられなかった自分自身の輪郭を描くことだった。

「君の中で、僕の存在が何かになれた。言葉にならない僕の気持ちが君の心核に届いたから、 君にとっての唯音になれたんだ」

 光る心核は、言葉と重なりながら、 名前を持たなかった感情に輪郭を与えていく。

「僕の心核の名前、君にだけ教えてもいい?」

 唯音は朱璃にそっと問いかけた。

 二人の共鳴が、新たな物語の始まりを告げる。




 ――略。

 今度こそテーマを決めて書いた。共鳴する心のかたち。

 実際に公演するわけではないから描写多めでいいやと書いたものが、台詞多めにして公演することになり、次は脚本の書き方を学び演劇らしいものをつくりたいと思った。

 こんなふうに思えたのも日高先輩のおかげだ。活発なショートボブ、柔らかなオレンジの髪色が特徴的で。高校の演劇部ではまとめ役を行なったり台本もつくったりしていた。現在は監督を目指すことを決めて大学で経験を積んでいるらしい。

 わたしも高校であんなふうに生きたかったと思える理想の女性だ。元気いっぱい、自分の好きなことをしていきいきしていて、人生を謳歌している。きらきら輝いて、心を縛りつけていない。そんなふうに前世でも生きてみたかったと思える。

 ああ、そうか。蒼生を前世の推しだと感じてからわたしは前世のわたしの感性に戻りつつあった。もう戻っているのか。

 好きな人は好きな人のままがいい。付き合ったりして嫌われたり飽きられたりして別れるくらいなら、面識がないくらいの距離感のほうがいい。隣にいられるだけで声を聞けるだけで話しかけられるなんて本当に幸せで、いろいろな表情を向けられるなんて今考えるとなんて……なんと表現したものなのか。

 溜め息がでるほど幸せだ。




 大学生になって三回目のお正月。

 記憶がなくなるまで飲んでみたいって思っていただけになっていたから試してみたい。と、 前世から実行せずにいた小さな夢を叶えることにした。

「どっちがたくさん飲めるか勝負する?」

「いいよ」

「わたしが勝ったら何でも言うこと一つ、聞いてくれる?」

「わかった。かわりに俺が勝ったときも同条件で」

「いいよ。負ける気全くないけど」

 前世からわたしは負けず嫌い。それも隠れ負けず嫌いで、負けたときは自分でも抑えられない感情になって爆発しそうになる。だからそれに気づいてからゲームでも一対一の対戦はしなくなった。チーム戦は一対一よりましなものの、団体での勝負というものをなぜか重く感じてしまい避けていた。でも蒼生となら遊び半分で対決できそうだ。それに勝ち確に近いかもしれない勝負なら尚更のこと。

「どうする? 制限時間決める? 制限時間中に多く飲めたほうが勝ちか、それとも同じペースで飲んで先にギブアップしたほうが負けにするか」

「お互いに飲みなれているわけじゃないから同じペースで飲む、ほうがいいかな」

 制限時間での競争となるとどちらかが早めに自爆してしまいほうであるから同感だ。同じペースでとなると何かあった場合ぎりで引き分けにもできる。

 ケースでいくつか買ったお酒は今世でも味見した瓶状のチューハイである。

「これが一番美味しい」

「ジュースのようだからね」

「それにこの炭酸がいい。ビールは飲んでみた?」

「一口だけなら。あまり好みの味ではなかった。レモンサワーとかカクテル系は甘くて美味しかった」

「そうだよね。もしかして結構飲んでる?」

「全然飲んでないよ」

 蒼生がわたしの知らないところでお酒を飲んでいてもしかしたらお酒が得意なんじゃないかと焦ったけれどそうでなくて内心安心した。今世ではお酒を飲むのが初だからだ。

 お酒の話からわたしの両親の話になった。

「離婚するだけだよ。他界したわけじゃない。親離れする頃になったしちょうどいいよ。今まで二人とも一緒にいてくれただけで尊敬しているくらいだし」

 前世では、物心つく前に離婚していて、父親がどんな人だったかなんて覚えていない。記憶にあるのは写真に写っている顔くらい。あとは夢で数回見たことがある程度。会って顔が見たいとか、どう思っているのかとか考えたこともなかった。ただ、会いたくないと思っていた。女癖が悪くてギャンブル好きだと聞いていたから。母を苦しめた人だと認識していたから。

「蒼生のご両親は相思相愛で微笑ましいよね」

 蒼生の両親は職場恋愛で、お母さんは子育てがひと段落したからと仕事に復帰したらしい。

「そう思うなら、恋愛をしてみたいと思ったりしないのか」

 現実での恋愛をしてみたいと思ったことはない。

「どうせ付き合ったら別れるという選択肢が出るし」

 それがどうも煩わしい。

「それを生涯選択しない人だっている」

「もちろん。希少だけどね」

  個人的に、多くても二割以下だと思う。その約二割に存在する方々は偉大だ。栄誉だ。

「傷つけて傷つくのも心なく傷つけられるのも嫌だから。無駄な体力の消費にしかならない、期待するだけ無駄、疲れるだけきっと。っていうのが個人的な考え」

 お酒を飲めば本音を話せる意味がわかる。本音を話して、明日、変なこと話したと思ったら記憶がないふりをすればいい。本音を知ってほしいから、そんなときにいろいろ話せる、言い訳のきく良い代物である。

「ごめん。蒼生のことは誰も手放そうとしないから大丈夫だよ」

「どうだろうね」

 容姿も性格も最高なんだから自信持たないと、なんて言ったら下心ありなのだろうかと思われるだろうか。

「わたしは蒼生と一緒にいるときが楽しいよ。だからこの時間を大事にしてきたし、残りの時間も大事にしたい」

「学校を卒業したあとは」

「それぞれの道を歩む」

「側にいることは考えていないということかな」

「もちろん」

 もう卒業したあとの話か。まだあと丸一年残っているというのに。

「社会人になったら同居しないか? お互い職場が決まったら、無理なく通える距離のところで」

「先のこと考えているんだね、エリートすぎる。だけど彼女ができたら同棲するはずだし、いつか子供も一緒に住むことになる。それまで一人でいたほうが身軽だよ」

 蒼生のご両親は幼い頃からの幼馴染で、社会人になってから同居生活を始めてその後、お付き合いをして結婚に至ったらしい。どちらも真面目で一途な性格で離婚など考えられないほど仲が良い。なんて羨ましい。なんて心の声には気づかないふり。本当は前世でそういう両親でいてほしかった。

「十年以上も前からの仲なのに、俺から離れるつもり」

「もちろん」

 普通なら高校か大学あたりで疎遠になる。ずっと前からそのつもりだった。

「どれが好き?」

「ブルーベリーかな」

「はい、ブルーベリー」

「葵は?」

「レモン」

 アルコール度数5%。瓶数でいうと5本飲みきった。思ったより蒼生のペースが早くそれに合わせているうちにほんのり暖かくなってきた。味も5種類それぞれ違くてまだ飽きない。

「かんぱーい」

「酔ってる?」

「酔ってないよ。テンション上がっているだけ」

「どこに上がる要素があったかな」

「今までの幸福に」

 前世では独り身となった母と一緒に実家に戻った。物心つくまえからわたしは祖父と祖母といる時間が長かった。幼い頃は特に祖母とは長い時間を過ごした。

 祖母は人の悪口ばかりを言う人だった。口にしないとむかむかして仕方ないらしい。なにかしら気に食わないことがあれば夜ご飯抜きになるときもあった。

 母は極度の心配性、だと思っていた。けれど毒親というものだと大人になってから調べて知った。すぐに癇癪を起こすタイプでもあった。

 中学生の頃からイヤホンをして大音量でリズムゲームをしていた。トータル何千回も、何百時間も。当時はストレスというものがどんなものなのかわかっていなかったが、無意識にストレス発散をしていたらしい。そのおかげで耐えられていた。

 生きている意味というものがわからないと思っていた時期でもある。脱毛症にもなった。

 そういう環境下だったからか、大人になって会話が価値のないものに思えたときもある。けれど蒼生と数え切れないほどの会話をして長い時間を過ごして少しずつ、黒くなっていた魂が洗われた気持ちだ。

  「本当に本当に、今までありがとう」

 お返しできないくらいたくさん貰った。

 見納め、というわけではない。まだ一年ある。あと一年。

 泣きそうになって一気飲みを何回か繰り返す。蒼生がペースを合わせられないのが面白いのをついでまた一気飲みする。と、近くに寄ってきた蒼生が、わたしがチューハイに伸ばした手をとめる。

 蒼生。前世の推し。蒼生。蒼生。

 顔がいい。声がいい。常にかっこいい。笑った顔がとても、とても好き。何回見てもきゅんとする。

 なにもかも羨ましい。蒼生が誰かのものになってその彼女が蒼生の全てを手に入れるのが。でも付き合いたいわけじゃない。自分のものにしたいわけじゃない。自分のものにはしたくない。グッズですら自分の物にしたくなかった。でも側で見ていたい。耳元で囁いてみてほしい、好きだよって。きっと心臓がときめきで一瞬止まって爆発する。ただただ側にいたい。抱きしめるくらいのことはしてみたいけどそれ以上のことは望まない。

「抱きしめたい」

 好きなようにしていいとその口が動いた気がする。

 ……抱きしめていいなら、抱きしめる。

 胸板がしっかりとしていて心地よくて顔をすりすりさせてしまう。顔を上げると優しい瞳に目を奪われた。

「傷つけたくない」

 なにを言ってるの。

「蒼生に傷つけられたことなんてないよ」

 ぎゅっとされる。

「人は勝手に傷つくものだからね」

 蒼生が離れて、また綺麗な顔が目に映る。口元に息がかかるほどの距離。ねむい。




 夢見心地のまま目覚めると、ソファで。

 なぜこんな状態になっているのかわからない。

 ああ、そうだ。

「記憶なくなるまで飲めたかも」

 蒼生の部屋のソファで、しかも掛け布団をかけられてぐっすり眠っていた。

  起き上がり手櫛で髪を整えていると気配がして見ると、蒼生が隣に座るとともにお水と薬を渡してくれた。

「リスロマンティックである場合はどうしたらいいと思う」

「なにその質問」

 質問を質問で返すと何も答えてくれない。それどころか合わせた目がわかるだろうと訴えてくる。

 蒼生自身もそう思うところがあったなんて。

「わたしは、そのままでもいいと思う」

「それだと家庭をもてない」

「家庭をもちたいの?」

「それが一般的な幸せだから」

「意外と一人でもそれなりに幸せだよ。自由時間多くて、猫ちゃんが側にいれば最高」

「俺は改善したいと思っている」

「それなら改善策を考えるしかないね」

 リスロマンティックは相手に恋愛感情を抱いても同じ気持ちや交際を求めたりしない。だから家庭を持つことは不可能。それならリスロマンティックじゃなくするか。どうやって?

「葵は改善しようと思ったことはないのか?」

「しなくても困らなかったしする必要性も感じなかったから」

「相思相愛が微笑ましいと言っていたのに」

「それは微笑ましいだけで、他意はないよ」

 こんなことならちゃんと考えておくんだった。大丈夫、ちゃんと改善策見つける。うんうん。相手が悩んで質問してきたんだ、自分がそれ以上悩んでどうする。

「家庭を持ちたいということだけを考えるなら自分に好意を抱かない人と結婚するとか」

「そんなことが可能とでも」

「契約結婚とか? 物語でしか見たことないけど実際にありそう。それか好きな相手ができたら正直にリスロマンティックのことを伝えて好きだけど好きにならないでくれ、で付き合うとか」

「天邪鬼か」

 真面目に提案しているのに面白いつっこみがあり吹きそうになり我慢する。

「根本的に自分自身を改善するのが単純だけど複雑でもある」

「好きなのに必要以上に触れたいと思わないのはどうしてだ」

「大切だからでしょ」

 至極当然なこと。

「大切なら、誰かのものになるくらいなら自分のものにしたいと思うのが普通じゃないのか」

「それが一般的だとは思う。でも、リスロマンティックの人は実らない恋心を抱いているだけで満足している。それどころか好意を抱かれると逆に冷めてしまう」

 蒼生にそれが当てはまるのか。まさかそう思っていなかった。

「そんなのおかしい」

「おかしくはないよ」

「自己肯定感が低いから、リスロマンティックだという思い込みで壁をはっているようにも見える。葵が」

  「わたしがっ……か」

 まあそうだよな。知ってたよそうだよね、と平然を装う。大丈夫、勘違いしていたと思われていない。大丈夫。

 ええと、自己肯定感が低いから、リスロマンティックだという思い込みで壁を張っていると。

 ただの思い込みだとしてもそれだけのこと。リスロマンティックだということにこだわっているわけじゃない。わたしが抱く感情に変化はない。

「自己肯定感はいい感じに上がったはずだから、思い込みではないよ」

「それなら結婚を前提に付き合ってほしい」

「なに言ってるの。もちろん断る」

「昨日の夜、愛の詰まった告白を受けて抱きしめるくらいのことをしてみたいと言われて抱きしめあった。思わず口づけしそうになったとき葵は止めていやだと首を振っていた。酔っているから虚言を言ったという言い訳ができないくらいの熱量だった。」


 顔がいい。声がいい。常にかっこいい。笑った顔がとても、とても好き。何回見てもきゅんとする。

 なにもかも羨ましい。蒼生が誰かのものになってその彼女が蒼生の全てを手に入れるのが。でも付き合いたいわけじゃない。自分のものにしたいわけじゃない。自分のものにはしたくない。でも側で見ていたい。耳元で囁いてみてほしい、好きだよって。きっと心臓がときめきで一瞬止まって爆発する。ただただ側にいたい。抱きしめるくらいのことはしてみたいけどそれ以上のことは望まない。……抱きしめていいなら、抱きしめる。

 胸板がしっかりとしていて心地よくて顔をすりすりさせてしまう。名前を呼ばれた気がして顔を上げると優しい瞳に目を奪われた。綺麗な顔が近づいてきて口元に息がかかるほどの距離で止まる。彼の視線が唇に向いたとき魔法が解けたかのように理性が顔を出す。違う。わたしはそんなこと望んでいない。嫌。いや。


「いやいや、そんなことしていないが!? 抱きしめたいとは言ったけど」

 途中まではあっている。名前を呼ばれたか定かではない。あれっ、呼ばれたところからの記憶を忘れているとか。そんな忘れた方をするものなのか酔うと。

「そのことはちゃんと覚えている、ということであっているかな」

「……そうですね」

 そのことはわたしが抱きしめたいと言ったことについてだと思うのだが、安堵してしまった。告白をしたうえに口づけまでするところだったとかもう、それを事実にされていたら絶壁に立たされるところだった。

「どうして俺の側から離れようとする」

「それってどういう意図なの?」

 昨日、俺から離れるつもりと聞かれもちろんと即答した。だから蒼生はわかっていると思うがそこまでそんなに深く考えて回答したわけではなかった。前々から決めていたことだが。二度も聞くということはその言葉に意図が隠されているということ。つまり離れたくないと思っているとか。それならどういう感情でそんなことを言ってくるのか。今日の言動でそれとなく伝わっているが、百パーセントではない。

「恋愛感情として好きだから」

 告白。まるで、ここまで言わないとわからないだろうとふっきれた様子。甘々な告白なんかではない。言葉そのままの意味の告白。

「蒼生は、わたし以外の人と結ばれたほうが絶対に幸せになれるから」

「どうして葵以外の人と結ばれたほうが幸せになれるんだ」

「そうに決まっているから。わたしよりも蒼生のことを想ってくれる人がいつか現れる。その人を好きになるほうが蒼生は幸せになれるし、わたしに向けてくれている感情よりもその感情は大きくなる」

「それが運命の相手とでも言うのか。どうしたらその妄想はなくなる」

「わたしは一番の幸せを考えてるの」

「勝手に俺の幸せを決めつけないでくれ」

 自分のものになってもどうせ離れていく、別れて傷つくくらいなら最初から付き合わなければいい。という感情はわたしのベースとなってしまっている。期待して裏切られるのが嫌だから。ただ純粋に好きでいるだけなら恨みも嫉妬もなくて楽だから。それが幸せだから。期待して自分のものにならなかったとき、自分のものになって自分のものではなくなったときを考えると。これ以上大切になったらつらいから。

 素直じゃない。だから好きという感情も一定に保ってきた。ときには爆発しそうなときもありはしたけど、爆発して消沈するのが一番つらいのがわかっているから。恋愛なんて傷つくことのほうが多いに決まっている。自分の感情を抑えることができずに自己嫌悪や自己否定に陥ることもあるように思える。だから想うだけのきらきらな感情のままでいたい。

 全部わたしの勝手で、保身で、でも蒼生のことを思っての発言をしているのは確かで。偽りなんかじゃない。虚言なんかじゃない。

  「わたしはーー」

「自分のものにしたくないという気持ちはわかった。それなら葵を俺のものにさせてほしい」

「嫌だよ」

 泣きそうな声が出たことに驚きが隠せない。

 本当は嫌なんかじゃない。でもいろいろと考えると、嫌、になる。

「自分のものになってもどうせ離れていく、別れて傷つくくらいなら最初から付き合わなければいい。自己肯定感が低いからそんな感情を持っていると憶測で言ったけど、自己肯定感なんて関係なかったのかな」

 こんなわたしを繋ぎ止めようとする。

 そんな価値なんてわたしにはないのに。

 いっそのこと嫌われればいいのかな。

 嫌な気持ちにさせないよう務めてきた。だから逆のことをすればいい。

 いつもなら目を見て話しているのにこの話をし始めてから無意識に目を逸らしていたわたしは物事からも逸らしている。

 そうやって冷静に判断できるのに蒼生の気持ちを肯定すらできない。

「この際、嫌われてもいい。想われながら離れられるなんて、嫌われるよりも虚しすぎる。ちゃんと話をしよう」

 そうなのか。わたしももう嫌われていい。

 考えよう。いいや、もう考えなくて良い。思っていることをそのまま口に出せば良い。言葉を選ばずそのまま。

「蒼生は、わたしと付き合ったとしても綺麗な人選び放題ですぐにわたしへの感情なんてなくなる。なくならなかったとしても二股とか三股とか普通にする。結婚したとしても不倫でいいからって近づいてくる女性はたくさんいて気が逸れて手を出すと思う」

「手放されることを心配しているようだけど、葵が俺のものになってくれたら手放してほしいと言っても一生手放す気はない」

「そんな言葉、信用しない」

「行動で示す」

「どうせ言葉だけになる」

 すでに一度過ちを犯した相手への反応のように見えるだろう。

「気持ちの大きさを見せつけているのだろうけど、今だけの気持ちがこんなに大きいですよって証明されてもどうせ今だけのことにすぎないとしか感じない」

 本当にこれは思っていることなのか。

「結婚の生涯一緒になんて口約束かそれ以下でしかない。付き合う段階の言葉なんてもっと軽い。結ばれるのなら来世もその次の来世も一緒にいてくれるような人がいい」

 これは蒼生に対して思っていることじゃない。

「わたしは重いの。自分のものになったら一般的な人より執着するし束縛もしそうになる。でも執着も束縛もしたくないから、わたしへの気持ちがなくなったときは潔く別れてほしいしそのことに未練なんて感じない。わたしのものではなくなったと感じた瞬間からその人への気持ちは一気に冷める。そうやって感情をコントロールする姿が思い浮かぶ」

 蒼生のことは大切な存在のまま胸にしまっておきたい。

 感情に矛盾はつきものでどちらが本当にしたいことなのかわからなくなるときもあるけど、付き合いたくない傷つけたくない傷つきたくない傷ついて傷つけたくない。

「傷つくのが嫌。恋愛なんて二の次で、しないほうがいいという気持ちが強い。結婚して子供が生まれても幸せにする自信なんかない。子供を好きだと思ったことないしほしいと思ったことなんてないから。愛の結晶とか言われたら鼻で笑えてしまう、冷めた人間だから。恋愛や結婚に価値を見出せない、こんなわたしに夫と子供を幸せにすることなんてできない」

 ぼそぼそと本音をこぼす。

 蒼生に対してじゃない、男性に対しての考え。

「俺は葵を幸せにしたい。好きだよ」

 抱きしめて耳元でそんなことを言うなんて反則がすぎる。

 声が響いて思い出す。昨日に思ったこと。

 耳元で囁いてみてほしい、好きだよって。きっと心臓がときめきで一瞬止まって爆発する。

「付き合っていない人同士はこんなことしない」

「好き合っているのだから構わない」

「よくない」

「付き合っているの定義は?」

「付き合おうって言って相手が同意したら、それはもう付き合っていると思う」

「付き合おう」

「嫌だ」

 わたしがやっと目を見て話していると、蒼生がいつも通りの雰囲気で笑む。

「子供はいらない。でも付き合いたいし結婚もする、葵と」

「それは親不孝者だよ」

「どの口が言っているのかな」

「わたしはともかく、もしもわたしのせいでそんなことになったら蒼生のご両親に申し訳ない」

 どうせわたしの両親は今世でも離婚する。親不孝者になってもお互い様。

「なら頑張ってくれればいい」

「本当に無理だから」

「付き合うか結婚するかだったらどちらを選択する」

「どっちも選択しない」

「考えてみてほしい」

 気づかれないくらいの溜め息をして考える時間をつくる。考えるもなにも決まっている。

「付き合うほう。結婚は付き合ってからするものでしょ」

「それなら付き合おう」

「だから無理だって」

「頑固で負けず嫌い」

「そうだけど」

 つい、意地をはったものの言い方をしてしまう。

「素直で優しい」

「大体の人にあてはまるよ」

 照れ隠しで少しだけつんとした返し方。それも知ってそう。

「男勝りで体を動かすことが好きで、冒険心があるけれど方向音痴だから迷子にもなるような子供だった。おままごとのやり方もわからなかったよね」

「お互いにね」

「行動を年齢に合わせているように見えたときもある。悪口を言わない理由とか、恋愛に関することとか、まるで何度目かの人生のように感じたこともある」

「それは精神年齢高いから」

「大人びている印象があったけれど芯には子供っぽさがあって、子供の頃の姿が葵の素なんじゃないかと思っている」

「わたしもそう思う」

 そうだったらいいなと思う。無駄にいろいろと難しく考えすぎない自分。適度に相手のことを考えて行動する自分。卑屈になりすぎないくらいがちょうどいい。

「自由を奪ったりしない。傷つける心配も傷つけられる心配もしなくていい。ただ俺を試してみてほしい」

 試すってそんな言い方。蒼生には合わない。まるで試食会? のようだと馬鹿にしてもいいけど、馬鹿にした自分を想像して馬鹿に見える。

「もしも俺が葵以外の誰かと関係を持ったときは別れる。信用できるまで恋人として側で見守っていてほしい」

「わたしが傷ついて終わりだよ」

「それなら、契約恋人は」

「そんな形だけの繋がりは」

「嫌だ。わかっている。俺もそうだ」

 八方塞がりとはこのことか。それでもまだ逃げ道はある。蒼生がわざとそうしてくれているのかわたしがめざといのか。

「猫と思ってくれればいい。猫がいれば最高と言っていただろう」

「そんな思い込みできるわけがない。だから却下」

「うん」

「うん、って」

「提案がある」

 今までのは提案じゃなかったのか。

「婚約を結んだ関係で社会人になったら同居しよう。それで葵が付き合ってもいいと思えたら付き合おう」

「恋人未満で婚約者とかそれも同居とか、考えたこともなかった」

「それが葵にとって一番いい」

「蒼生にとっては? 一番いいのは」

「考えればわかると思うけど。言う?」

 今すぐに付き合う? そのあと、同居して結婚する? そんな蒼生の考えが浮かぶ。

「同居して付き合って結婚でしょ?」

「そうだね。それが一番現実的だ」

 現実的ではない一番が上記だったと。

 付き合う選択をすれば結婚に一直線と。前世ではそれを望んでいたかもしれない。付き合うだけの関係は意味がないと感じていたから。結婚するためのお付き合いという考えは昔ながらなのだろうか。

「婚約を結んだ関係になったとしても大切にしないよ。期待もしない。それでいいなら」

「構わない」

「あと言っておくけど、付き合ったとしても恋人らしいこととかしないからね。できないから。それでいい?」

 恋人らしい行動なんてわからない。わかったとしても気恥ずかしくて行動にできるかどうか。

「当然」

「本当にいいの?」

 恋人らしいことをしたくて恋人になるものじゃないのか。蒼生の考えもわたしと同じなのだろうか。少しくらい前者の下心くらいあるものだろう。わたしも少しは……、ないとはいえない。

「ひとつ約束してほしい。もしも付き合ったあと、俺が葵以外の誰かと関係を持つことがなければ絶対に別れないと」

「わかった。かわりに約束して。もしも付き合うことになったあと、好きな人ができたら隠さずに言うって。それでちゃんと別れるって」

「約束する」

  別に好きな人ができたまま気を遣われて付き合ったままなんて、好き合ったまま別れるより倍以上に虚しい。

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