【思ひ染む 逆さ芙蓉の 鬼子母神】16
簡単あらすじ
キイチは、圧倒的な力で八雲を追い詰める。
十二神晶を次々奪われ、キイチに致命的な一撃を喰らった八雲は、とうとう意識を手放してしまい……?
堕ちていく。穏やかに、深い闇へと。
これは、夢か走馬灯か。それすら、もう分からない。
闇の中で、懐かしいものを見た。
己の罪を悲観して首を吊った兄。幸せになりたくて泣いている姉。壊れていた弟。人の良さそうな兄。
それらをぼんやりと眺めながら、八雲はさらに深いところまで堕ちていく。
ただ、この何とも言えない微睡みが心地よかった。
果てしない闇の底で、体も心も溶けてしまいたくなるほど。
彼はまだ、堕ちていく。穏やかに、深い闇へと。
どこまでも堕ちていく彼の視界に、白いものが見えた。
それは、こちらに背中を向けて、小さくすすり泣く白い髪の少年。
「キイ、チ……?」
うわ言のように、八雲が呟く。それは現実の声なのか、頭の中で発した声なのか、判断がつかなかったけれど。
闇の中で、ゆっくりと伸ばした手は、ただ空を切った。
まるで、エレベーターが急降下したかのようにその景色は流れ、彼は再び堕ちていく。
また、闇の中にすすり泣く子供の背中が見えた。長く白い髪が、しゃくりあげる動きと共に震えている。
何をそんなに泣くことがあるのだろう。八雲は、その子供へ手を伸ばした。
『たす、けて……八雲……』
か細い声が耳に届いた時、がくんと景色が急降下して──。キイチの姿は、視界に映し出された。
キイチは、正座をしたまま両目を手で覆って、体を丸めている。それを囲むように立っているのは、キイチ自身だ。それぞれ、八雲の知るキイチとは雰囲気が違っているように見える。
『何で、ボクは兄さんとそっくりな顔で生まれてきたの?』
自分自身を見下ろしたキイチが問いかけた。まるで、彼の母のように冷たい口振り。
そんな彼を守るように屈んだのは、慈愛に満ちた表情を浮かべたキイチだ。
『ボクのお父さまは、ボクを知らないんだって。兄さんも、ボクを覚えてなかったね』
そう言いながら、優しく頭を撫でている。彼らの中心ですすり泣いているキイチが、声を震わせて尋ねた。
『ボクは、生まれてこなければよかったの?』
『そうだよ』
キイチたちが、それぞれの声色で同意する。彼らを拒絶するように、キイチは両手で耳を塞いだ。
『八雲も、そう思ってる』
冷たい声が言った。耳を塞ぐ手を取って、彼の顔を覗き込むように。
『八雲が助けてくれると思ってる?』
『八雲は助けてくれないよ』
彼らは口々に言った。
それまで、ずっと顔を伏せていたキイチが顔を上げる。涙の筋が頬を伝い、痛々しい。見慣れた赤い瞳が、青い瞳へと切り替わり、青から赤へ、赤から青へと点滅していく。
『十六夜の代わりに、ボクが死ねば良かったのにね』
闇の中に亀裂が走った。八雲とキイチ、それぞれの空間を切り裂くように。
八雲はキイチを呼んだ。叫んだ。
それらも全て闇の中に吸い込まれ、キイチには届かない。
景色が流れ、キイチの姿が見えなくなる。堕ちているのか、同じ場所を漂っているのか、それすらも分からなくなっていた。
『八雲は、いつもボクのそばにいた。ボクの世話をするのが仕事なんだって』
『仕事だからボクを守ってくれるの?』
『八雲、ボクのこと好き?』
キイチの声が、闇の中に反響していく。それも本物のキイチの声だ。聞き間違えるはずがない。
愛を知らない自分が、キイチの世話係を続けていてもいいのかと──かつて、泰親に問いかけたことがある。愛とは無縁の生き方をしてきた自分が、他人に愛を与えられるはずなどない。応えられるはずがないからだ。
今ではもう、この気持ちが何なのかさえ、分からなくなっている。
生まれた時から、自分に祝福などなくて。知っていたのは壊すことだけだ。
自分がいなければ何も出来ない。料理も着替えも、感情の表し方すらも、自分がいなければ何も出来ない。
ならば、そんな彼を守れるのは──。
「ぐッ……」
八雲の足が、床を踏みしめる。その場に倒れることなく立っている八雲を見て、狐白が憐れむように目を細めた。
「あなたはもう、限界のはずですが」
狐白が穏やかな声色で言った。その声色に、微かな苛立ちが混じる。
八雲は、額から垂れる鮮血を拭って笑った。
「弟が……俺の助けを待ってるからな」
傷口からはとめどなく血が流れ、焼けるような痛みが全身を襲う。いつ失血死してもおかしくない状態。
それでも、彼は立っていた。
「そうだろう? キイチ」
ぴく、とキイチの肩が震える。深手を負ってもなお、倒れない八雲を見て、青い瞳が不安定に揺れた。
それに気づいたのは狐白だ。
「悪魔の言葉です。耳を傾けてはいけません」
「ああそうだ」
八雲は臆することもなく続けて、一歩踏み出した。キイチの傍に佇んだ氷狼が、指示を待つようにキイチの顔を見上げている。
「俺は、いつだって、お前の世話を焼いて堕落させ、俺なしじゃいられなくしてやろうと思ってる」
どこか吹っ切れたように語る八雲の様子は、先程と少し違う。キイチの目は、どこか戸惑ったように揺れていた。
「嫌な悪魔だろう?」
キイチは、ふるふるとかぶりを振った。それを合図とするように、氷狼がそっと身を引く。葉月や文月、キイチが奪った十二神晶たちは八雲を認め、キイチへの謁見を許した。
八雲が一歩、また一歩とキイチへ近づいていく。
「俺は……お前の母親になるつもりはない。だから、どうしたいのかお前が選べ」
足元に鮮血が滴り、靴がそれを引きずった。床に血の道を作りながら、八雲はキイチの元へと向かう。
「ボクのこと、嫌いになったんじゃないの?」
キイチが、ぽつりと呟いた。俯きがちの青い瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「ボクが傍にいたら、きっと八雲を困らせちゃうのに。八雲がいなきゃ、何も出来ない……」
白い指が顔を覆った。声を震わせながら嗚咽するキイチの頭を、八雲がそっと撫でた。
「上等だ」
びく、とキイチの肩が震える。指の隙間から八雲の表情を窺う目は、不安そうな色をしていた。嫌われたくない。見捨てられたくない。それなのに、愛され方が分からない。
八雲も同じだ。
「だが、まだ足りないな。もっと困らせてみろ」
狐白のため息が聞こえた。彼の言いたいことなど、とっくに分かっている。
これは、愛ではなく毒だ。
欲張りで、独りよがりな毒。
彼はこの愛し方しか知らない。
そして、キイチ自身もまた……。
「ですが、それももうおしまいです」
狐白がそう言って彼らに背を向けた。
糸が切れたように、八雲の体はキイチに寄りかかるようにして崩れ落ちる。その体は、氷のように冷えきっていた。




