【思ひ染む 逆さ芙蓉の 鬼子母神】13
簡単あらすじ
狐輪教の本拠地である資料庫で目覚めた八雲は、そこで懐かしい名前を見つける。それは、自分や兄弟たち、尾崎家を狂わせた祖母の存在。そして、狐輪教の主が彼の前に姿を現した。
刹那、けたたましい銃声が響いた。それは一切の躊躇いもない、無慈悲な音。弾丸は、少年の顔の横を通り抜け、壁にめり込んでいる。
それでも、少年は怯む様子などなく──口元に笑みを浮かべていた。慈愛に満ちた、全てを包み込むような眼差しで。
「キイチの元に連れて行け。今すぐに」
何かを言おうとした少年に、八雲はすぐさま言葉を被せる。元より、話を聞く気などない。
「ずいぶん忙しいのですね。まだ自己紹介もしていないのに……」
あどけない顔をした少年は、相変わらず微笑んでいる。その笑顔と耳障りの良い声で、信者に薄っぺらい言葉を吐いているのだろうと八雲は思った。
「俺は気が短い」
冷静なようでいて、確実に正気を失った琥珀色の瞳が、少年とぶつかる。怒りと敵意を隠そうともしない八雲に対し、少年の顔は依然穏やかなまま。
「そのようですね」
やがて、瞼を伏せて笑った少年は、本棚に白い指を滑らせる。背表紙を撫でる手が、ひとつの本の背を奥へ押し込むと──本棚で出来た巨大な扉が開いた。
部屋の先は、白い廊下が続いている。この部屋には、出入口らしい扉がない。そして──この少年も、扉がないはずの場所から姿を見せた。
恐らく、この部屋はショートカットをするための通路なのだろう。
「……この廊下は長いですから──少し話しませんか? あなたとは、ずっと話したくて仕方がなかったのです」
八雲は返事をせず、ただ黙って少年の後頭部に銃口を押し付けた。この場で彼を殺してもよかったが、教祖を失った信者が暴動を起こすようなことがあれば、キイチに危険が及ぶ恐れがある。
彼を殺すのは、キイチの安否を確認してからでも遅くない。
「まずは──自己紹介からですね。私は、尾崎狐白と言います。那由多おばあさまの孫です」
少年は、それを肯定と捉えたのだろう。
実際、彼は振り返って自己紹介をするほど無防備な姿を見せた。
「……」
那由多の名前を聞いても、八雲は反応を示さない。警戒を解くことなく、狐白に銃口を向けている。
先程、既に資料庫で彼女の名前を見た。狐輪教に尾崎家が関わっているならば、それは組織のトップだろうと推測がつく。
狐白は、八雲が黙っているのを良いことに話を続ける。
「あの子──キイチのことですが……」
むしろ彼の気を引くように、狐白の歩く速度が、あからさまに落ちた。八雲は、強く銃口を押し付けて先を急がせる。それ以上の会話を拒むように。
「あの子とは──ふふ。私の方が、あなたよりも先に出会っていたのですよ?」
足音だけが、白く長い廊下に響く。
壁も床も天井も、全てが純白の世界。
ふたり分の足音だけが反響して、そこに他の人間の気配はない。
まるで、どこまでも続く雪原だ。
「あなたは、気になり始めています。そして、知りたがっている……。キイチと私のこと。古御門家と尾崎家の関係──自分が養子として差し出された、本当の理由について」
狐白の言葉は、不愉快なほど優しく、耳障りが良い。
しかし──八雲にとっては、振り払ってもまとわりつく蜘蛛の糸のようで、不快でしかなかった。
(……卯月)
八雲に呼応するように、足元に出現した白兎たちが結界を張る。
他人の心に入り込んで掌握する。それが狐白の能力なのだろう。
しかし、十二神晶屍鬼を持つ八雲には通用しない。
「……おや」
大して驚いた様子もなく、狐白が目を見張った。こちらを見つめる琥珀色の瞳は、憎らしいほど自分に似ていて、それ以上に兄と似ていた。
『少し、痩せた?』
狐白の口から、十六夜の声が聞こえる。生前のままの姿で、彼は困ったように優しく微笑んでいた。
『限界以上に頑張りすぎるとこ、変わってないんだな。誰かに頼ることも覚えないと……』
十六夜が、はにかむように笑った刹那、八雲は反射的にその額へ銃口を向けていた。
目の前にいるのは、間違いなく芥十六夜だ。狐白の体から感じるのは、十六夜の気配だけではない。
やがて、その姿は泣き腫らした顔の女性へと変わった。
小森病院の元院長にして、姉だった人。
『幸せに、なりたかったの……お母さんよりも』
肩を震わせて嗚咽する姉の姿を、八雲は呆然と見つめることしか出来なかった。琥珀色の瞳から、とめどなく涙が流れてくる。
『あんたが死ねば良かったなんて……一番、言っちゃいけない台詞だったのにね……』
両手で顔を押さえた彼女は、すすり泣きながら自嘲気味に笑う。
死んでもなお、彼女は後悔していた。
実の兄と結ばれたことを。子供を遺してしまったことを。
『後悔?』
顔を押さえたまま、彼女は低く、くぐもった声で言った。それは女性の声ではない。若く、軽薄な男の声だった。
『するわけがない。キミがオレの立場でも同じでしょ?』
蜂蜜色の髪をした弟がニヤリと笑う。自分に向けられた銃身を難なく払い、八雲の腰に腕を回す。それは、とても自然な動作だった。
「──ッ」
女が好む甘ったるい香水の匂いが、次第に苦く切ない匂いに変わる。
今となってはひどく懐かしい、芥十六夜の匂いへと。
『ノインは嘘つきだよなぁ……死ぬほど後悔してるっつーのに』
冗談っぽく茶化したその声が、少し寂しげに聞こえる。
これは狐白の術や、八雲の願望でもない。
「く……」
思い出したくない感情が、強烈な後悔が、呪いとなって口から溢れ出しそうになる。一度でもその名を呼んでしまえば、十六夜の存在を認めたことになってしまう。
「大丈夫ですか?」
十六夜の匂いは、まだ残っている。それなのに──。
目の前にいる男は、白い服に身を包んだ尾崎狐白に戻っていた。
もうこれ以上、この男と会話をしたくない。
何も知りたくなかった。認めたくなかった。彼の中に感じる、兄弟たちの存在を。
「もうじき到着します。ですので、最後にもうひとつ……」
狐白は、具合の悪そうな八雲を気遣うように見つめていたが、やがてうっすらと口元を綻ばせた。
「八津咲毘売神について、お話しましょう」
狐白はにっこり微笑むと、再び長い廊下を進んでいく。景色が変わったようには思えなかったが、人の話し声が遠くから聞こえた。それは何かを讃え、大きな歓声になっている。
「八津咲毘売神とは──この世界と常夜をお創りになった慈悲深いお方。我々のお母様です」
狐白が壁に手を触れると、重厚な白い壁がゆっくりと左右に開いた。
刹那、歓声と拍手が彼らを迎え入れる。狐輪教に身を寄せる信者たちだ。
「ようこそ、狐輪教へ」
狐白が微笑んだ。そこは白く、広い部屋。円形のホールになっており、地面には彫刻が掘られている。
長い上り階段の先には巨大な鳥かごが天井から吊るされ、その下で青い炎が揺れていた。
「案内ご苦労。死ね」
八雲は、狐白に向けたままの拳銃を躊躇わずに発砲する。
どのみち生かしておくつもりはなかった。キイチの誕生すら、くだらない計画に利用した人間など。
「ふふ、危ない──」
しかし、狐白は生きている。彼を守るように銃弾を溶かした青い炎が、カーテンのように揺れた。
炎の上で、鳥かごが揺れている。その扉は開け放たれ、ギィギィと不快な音を立てていた。
「助かりましたよ、キイチ」
細身の少年が、炎の中からゆらりと姿を見せる。八雲に向けた虚ろな瞳は、炎と同じ色をしていた。




