第8話:商人として、父として
宝暦十一年(一七六一年)初冬 蝦夷地・松前
松前、大店「伊勢屋」。
小太郎と平助に新しい品を任せてから、十日ほどが過ぎた。
帳場の隅では、朝から二人が言い争っていた。
「だから高いんだよ、兄上」
「馬鹿言え。これ以上安くしたら、ほとんど残らんだろうが」
「でも売れてないじゃないか!」
「それはお前の作った物が大したことないからだろ!」
「なんだよ、それ!」
九兵衛は帳面から顔を上げた。
また始まったか。
このところ、似たような言い争いを何度聞いたか分からない。
二人が売り始めたのは、昆布と干魚を細かく砕き、塩を混ぜたものだった。
汁物に少し入れれば、それだけで味が整う。
品そのものは悪くない。
小太郎が何度も割合を変え、料理人にも味を見てもらって作っただけあって、少なくとも売り物にはなる。
平助の付けた値もおかしくはなかった。
高すぎるわけでも、安すぎるわけでもない。
伊勢屋のほかの品と比べても、おかしな値ではない。
それなのに、ほとんど売れていない。
物珍しさから一つ二つ買っていく客はまれにいる。
だが、それだけだ。
これではわざわざ手を加えて形を変えた甲斐がない。
「平助」
「はい」
「どこへ持っていった」
突然声を掛けられ、平助がこちらを向いた。
「店の馴染み客と、料理屋、それから船宿にも」
「船宿の反応は?」
「駄目でした」
平助が不満そうに答える。
「昆布と干魚なら今までので間に合っているから、わざわざこんな物を買う必要はないと」
「なるほどな」
九兵衛は頷いた。
もっともな話だった。
今までのやり方で困っていない者に、昆布と干魚を粉にしただけだと説明したところで、
わざわざ銭を出して試してみようとは思わない。
「なんといって売り込んだんだ」
「え、昆布と干魚を粉にして塩を混ぜたもので汁に入れたり、飯にかけて食うと美味いと……」
「……それだけか?」
「はい?」
九兵衛はため息をつきそうになるのを堪え、平助を見る。
「……それで、一包みくらい置いてこなかったのか」
「置いてくる?」
「一度、汁にでも使ってみてくれとな」
平助が目を丸くした。
「ただで渡すんですか?」
その言葉に、九兵衛は眉を寄せた。
「お前。一包み二包みを惜しんで、何十包みも買うかもしれん客を逃してどうする」
「ですが、ただで渡したらその分は損じゃないですか」
「だから誰にでも配れと言っているわけじゃない」
九兵衛はため息をついた。
「買いそうな相手を選べ。一度使う分だけ置いてこい。
それで次の日にもう一度行け」
「次の日に?」
「使ってどうだったか聞くんだ。味はどうだったか。
手間は減ったか。何か使いにくいところはなかったか。
それを聞かなきゃ次にもつながらん」
平助は黙り込んだ。
その横で小太郎まで神妙な顔をしている。
「でも父上」
小太郎が口を開いた。
「味なら食べてもらわなくても説明できるよ。昆布と魚の粉だって言えば――」
「お前は思い違いをしている。
これはそもそもうまいまずいというところで勝負するものじゃない」
「え?」
九兵衛は紙包みを一つ手に取った。
「昆布と魚だ。味だけなら食う前からだいたい想像がつく。
だったら別の値打ちを見せろ」
「別の値打ち?」
「船宿なら、朝から何人分も汁を用意するところもあるだろう。
それを一から拵える手間が、これ一つで減る。
そこに銭を払う者もいる」
平助が紙包みを見る。
「……手間が省けることを売るんですか」
「そういう相手にはな」
そこで九兵衛はふと口を閉じた。
紙包みを見ているうちに、別の品が頭に浮かんだからだ。
宗谷から最初に届いた、五つの壺。
蟹の油煮。
あの時、徳蔵はいくらで買ってほしいとも言わなかった。
一壺いくらとも、五壺まとめていくらとも言わない。
ただ――味を見てくれと持ってきた。
九兵衛は食った。
そして、自分から値をつけた。
一壺一分。
わかっていたのかもしれない。
味だけでも勝負ができると。
妙な話だ。
宗谷の寒村にいる若い衆が、どうして松前でも通じるほどの味だと確信できたのか。
(あるいは、自信がなかったから俺のところへ持ってきたのか?)
値がつけば上々、つかなければそれが答えだと割り切るつもりだったか。
味を見せるだけなら、一壺あれば足りる。
それを五壺も持ってきた。
確信か博打か。
まだ分からない。
だが――。
もし確信があってやったのだとしたら。
(ますます、面白いな)
「父上?」
小太郎の声で我に返る。
「何でもない」
紙包みを平助へ放る。
「明日、もう一度行ってこい」
「はい」
「ただし、渡して終わりにするなよ。
それこそ本当に損するだけだ」
「分かりました」
九兵衛は満足げに頷いた。
言われたことを素直に受け入れるのは、平助の長所だった。
だが、それだけでは足りない。
人に言われる前に、自分で考えて動けるようにならなければ、一つの店は任せられない。
(これを機に、一皮むけてくれるといいんだがな)
*****
それから数日。
二人の商いは、ほんの少しだけ動き始めていた。
最初に品を置いてきた船宿では、
朝の汁の支度がずいぶん楽になったと喜ばれ、いくつかまとまって売れた。
評判を聞いた別の船宿に試してもらうと、そこからもポツポツと注文が入った。
さらに一軒の料理屋でも、仕込みが足りなくなった時に使えると買い取っていった。
売れる数そのものは、まだたかが知れている。
それでも、以前とはまるで違っていた。
一つ売れては小躍りし、二つ売れては二人で肩を叩き合う。
小太郎と平助は、毎日のように帳場の傍らで帳面を覗き込み、売れた数を確かめていた。
そんな日がしばらく続いた、ある晩のこと。
夕餉を終えたあとの畳の上で、小太郎と平助が帳面を広げていた。
九兵衛もその向かいに腰を下ろしている。
「……これだけ?」
小太郎が、ぽつりと呟いた。
「もっと、儲かったと思ってたのにな」
平助も腕を組み、首をひねっている。
確かに少しずつ売れてはいた。
だが、売れた分の銭を足してみると、二人が期待していたほどの額ではなかった。
九兵衛は二人の渋面を交互に見やると、静かに言った。
「なら――そのまま売っていた時と比べてみろ」
「そのまま?」
「お前たちが使った昆布と魚だ。あれに手を加えず、そのまま売っていたら、いくらになった」
平助が慌てて帳面をめくり直す。
小太郎も横から身を乗り出すようにして覗き込んだ。
「ええと、そのまま売った時の値がこれで……」
しばらくして、二人は顔を見合わせた。
「あれ?こっちの方が高い?」
「……そのまま売るよりは、ずいぶんましだな」
元々使ったのは、形が崩れていたり傷がついたりして、値の落ちた品ばかりだった。
そのままでは、二束三文にしかならない代物だ。
それを粉にして包み、手軽に味が決まるという新しい売りをつけたことで、思いのほか良い値に化けていた。
「兄上、これ……結構すごくない?」
「……悪くない。
骨を折った甲斐はあったってことか」
途端にパッと顔を輝かせる二人。
「やっぱり、僕の作った粉が良かったんだよ!」
「待て」
九兵衛の低い声が差し挟まれた。
二人の動きがピタリと止まる。
「お前たち、何か大事なものを忘れていないか?」
「何を?」
「包んだ紙は、ただで手に入ったのか?」
「……あ」
「塩も使った。試しにただで置いてきた分もあるな」
「……はい」
九兵衛は二人の顔を順にみた後、さらに畳みかけた。
「それに、お前たちは何日これに手を取られた?」
二人が言葉を詰まらせた。
「作って、包んで、重い荷を担いで歩いて、頭を下げて断られて、また持って歩いた。
その手間まで勘定に入れたのか?」
「「……」 」
さっきまでの浮き立った空気が嘘のように消え去り、二人の顔が固まった。
その様子を少し離れたところで見ていたお柳が、
「あなた」
「なんだ」
「少し意地が悪いのではありませんか?」
「何がだ」
「せっかく二人とも、あんなに喜んでいたのに」
「当たり前のことを教えただけだ」
九兵衛は膝を叩いて立ち上がった。
売れたからといって終わりではない。
銭が入ったからといって、そのまま儲けになるわけでもない。
それを勘違いして手元の銭だけを数えているようでは話にならない。
だから調子に乗る前にくぎを刺しておかなくてはいけない。
自分の息子だからこそ容赦する気はなかった。
部屋を出ようとして、九兵衛はふと足を止めた。
振り返ることはせず、背中のままで言った。
「まあ――初めてにしては、上出来だ」
それだけを言い残すと、九兵衛は部屋をあとにした。
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