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伊勢屋九兵衛-最後の博打-  作者: 一月三日 五郎


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第9話:宗谷を巡る火種

 宝暦十一年(一七六一年)仲冬 蝦夷地・松前


 松前、大店「伊勢屋」。


「……来たか」


 帳場で九兵衛は、手代の差し出した文の封を切った。


 宗谷からの返書――仲秋、徳蔵に託した文への返事であった。


 蟹の油煮。


 そして、蟹の殻の粉末。


 これまで大した値もつかなかった蟹から、二つもの新しい品を作り出した者。

 一体どんな男なのか。

 若い衆としか聞いていない。

 それ以外は何も分かっていない。


 その一方で、やったことから見えてくるものもあった。


 おそらく、捨てられていた蟹を見て、これを高く売れないかと考えたのだろう。

 それくらいなら、誰でも思いつく。

 だが、実際に手を動かす者は、それほど多くない。


 仮に試したとしても、すぐに壁にぶつかる。

 蟹は傷むのが早い。


 そこを乗り越えても、まだ問題がある。

 どこへ、どうやって売るかだ。


 いつ、どれだけ入るか分からぬ品では、商いを続けようという者も少ない。

 ならば日持ちし、同じものを繰り返し作れる形にしなくてはならない。


 そこまで考えれば、大半の者はもっと簡単に売れるものを探すだろう。

 その方がよほど手っ取り早い。


 昆布、ナマコ、干鮭――。


 他にいくらでも売れるものはある。

 無理に蟹にこだわる理由などない。


 少なくとも九兵衛は、蟹を油煮にして壺へ詰めるなどという話を聞いたことがなかった。


 出来ると知っていれば、試す者はいたかもしれない。

 だが、出来るかどうかも分からないところから、そこまで手間をかける。


 それが尋常ではなかった。


(まるで最初から、作り方も売り方も見当がついていたみたいじゃないか)


 松前の商人でも、ここまでやれる者はそう多くない。

 ましてや宗谷で、それをやっている。


 しかも、そんな変わったことをしていながら、周囲から爪弾きにされている様子もない。

 徳蔵に品を託し、得た銭を一文残らず次へ回し、五十壺まで増やしてみせた。


 蟹を獲る者、捌く者、煮る者、壺へ詰める者。

 これだけでも何人もの手が要る。


 それもまた、九兵衛には気になっていた。


 何の役目を持つかも分からない若い衆が、これだけの人間を動かしている。


 いったい、何者なのか。


 興味を抱かない方が無理というものだ。


 だからこそ、文のやり取りではなく、膝を突き合わせて話してみたかった。


 文面へ目を走らせる。


「……病か」


 思わず漏れた声に、少し離れた場所にいた番頭が顔を上げた。


「旦那様、いかがいたしました」


「すぐには来られんそうだ。病だそうだ」


「それは……残念でございましたな」


「ああ」


 九兵衛は素直に頷いた。

 来られない可能性も考えてはいた。

 それでも、楽しみにしていたのだ。


「春までお預けか」


「数月の辛抱でございますな」


「そうだな。何、これから忙しくなる。

 落ち着くころには会えるだろう」


 九兵衛は文を畳み、文机の脇へ置いた。


 伊勢屋へ奉公に来るというなら、腰を据えて話を聞く時間はいくらでもある。


「……ふぅ」


 胸に溜まったものを吐き出すように短く息をつく。


 そこへ、表から若い声がかかった。


「旦那様、そろそろお時間です」


「ああ、今行く」


 今日は松前の主立った商人が集まる寄合がある。

 年も暮れに近づき、来春の船や荷の手配について話すことも多い。


 九兵衛は羽織の形を整え、立ち上がった。


 *****


 寄合の座敷には、松前で名を知られた大店の主たちが顔をそろえていた。


 船の手配、来春の仕入れ、冬を越す荷――。

 いくつか議題が片付いたところで、ふと宗谷の名が上った。


「そういえば伊勢屋さん。宗谷の品を扱っておられるそうで」


 声をかけてきたのは、古くから付き合いのある商人だ。


「ああ、少しな」


「随分と珍しい品らしいじゃないですか。

 蟹の油煮に、今度は蟹の粉だとか」


「なに大した量じゃない。

 馴染みの店に少しずつ回すのがせいぜいだ」


「江戸へも回したと聞きましたぞ」


「耳が早いな」


「この狭い松前で、常と違うことがあればすぐに噂に上がりますよ。」


 周囲からどっと笑いが起こる。

 九兵衛も口元をゆるめた。

 隠すつもりなど最初からない。


 宗谷場所そのものを請け負ったわけではない。

 今まで商いになっていなかった品を買い上げ、松前や江戸へ運ぶ。

 そのことについて、役所へ話を通しておいただけだ。


 今扱っている程度の量なら、わざわざそこまでする必要もないだろうと九兵衛は見ていた。

 だが、後から難癖をつけられても面白くない。

 先に筋だけは通しておいた。


 それだけのことだった。


 もっとも――。


「ずいぶん勝手な真似をしてくれたものだな、伊勢屋さん」


 低い、地鳴りのような声が飛んできた。


(やはり来たか)


 九兵衛は驚かなかった。

 声の主へ視線を向ける。


 村山理兵衛。


 村山家は、松前でも古くから名の知られた大商家だ。

 初代伝兵衛は、宗谷をはじめ、いくつもの場所を請け負った大商人であり、村山家と宗谷の縁は古い。


 その隣には若い男――三代目村山伝兵衛が座っている。

 今の村山家の当主はこちらだ。


 しかし、理兵衛も長く家業に関わってきた人物であり、今なおその顔を立てる者もいる。

 この日も伝兵衛に伴って席についていた。


 何より、宗谷の話となれば黙っているはずがなかった。


「勝手な真似とは?」


 九兵衛が尋ねると、理兵衛の眉間に深い皺が寄った。


「とぼけるな。宗谷のことだ」


「とぼけてなどいない。ただ、生憎心当たりがないだけだ」


「宗谷は昔から村山が商ってきた場所だ。そこへ勝手に入り込まれては困る」


 一瞬で場が静まり返った。


 伊勢屋が宗谷へ手を伸ばせば、村山が何か言ってくることくらいは九兵衛も予想していた。


「今の宗谷は、村山の場所ではないでしょう」


「『今は』だ」


 理兵衛は即座に言い返した。


「いずれ村山が取り戻す」


「取り戻す?それで役所へ話は通しているのか?

 先日、俺が出向いた折には、そのような話は聞かなかったぞ」


「……こちらにも考えがある。お前が余計な真似をしなければ、いずれ話を通すつもりだった」


 九兵衛はわずかに目を細めた。


(……妙だな)


 普通なら、まず確かめることがある。

 何を扱っている。どれほどの量だ。役所とはどこまで話がついている。

 昆布やナマコにも手を出すつもりなのか。

 そして、それでどれほどの銭になる。


 だが、理兵衛は何一つ聞こうとしない。


 口から出るのは、ただ――


「宗谷は村山の場所だ」


 そればかりだった。


「お前のような成り上がりが軽々に手を出していい場所じゃないんだ!」


「……あんたにそんなことを決められる筋合いはないな。

 村山が請け負っていた頃ならともかく、今はお上が直に取り仕切っている」


 九兵衛は静かに肩をすくめた。


「俺はお上へ筋を通し、向こうで作られた新しい品を買っているだけだ。

 それに昆布やナマコに手を出したわけじゃない」


「屁理屈を!」


「屁理屈でも何でもない。俺は勝手にやっているわけじゃない。

 道理が通らんのは、あんたの言い分の方だ」


 九兵衛は声を一段低くした。


「今の宗谷は、お前さんの場所じゃないと言っている」


「九兵衛!」


「父上!」


 別の声が割って入った。

 それまで黙って聞いていた伝兵衛だった。


「もう、おやめください」


「お前は黙っていろ!」


「しかし――」


「黙れと言っている!」


 伝兵衛が悔しそうに口を閉ざす。

 九兵衛はその表情を見逃さなかった。

 怒りではなく、どこか恥じ入り、疲弊しきった顔だった。


(幸太郎と同じくらいの歳だったはずだが……ずいぶんくたびれて見えるな)


 気の毒ではある。

 だが、ここで九兵衛が口を挟めば、余計に話をこじらせかねない。


「……今日はこれ以上言わん」


 理兵衛は吐き捨てるように言った。


「だが覚えておけ、伊勢屋。宗谷は村山が取り戻す」


 それだけ言い残すと、理兵衛は席を立った。

 伝兵衛は一瞬、その背中と座敷に残る商人たちを見比べた。

 やがて周囲へ申し訳なさそうに頭を下げ、父の後を追っていく。


 一時、座敷がしんと静まり返った。


「……難儀ですな、伊勢屋さん」


 誰かが溜め息まじりに小声で囁く。


「まったくだ。船や荷の手配の話も途中だというのに帰ってしまうとは。

 こちらで決めて、後で文を出さなくてはならんな」


 九兵衛は苦笑いを返した。


 だが頭からは、理兵衛の言葉が離れなかった。


 ――宗谷は村山が取り戻す。


(取り戻して、一体どうしようというんだ)


 村山が宗谷を離れて、もう何年も経っている。

 その間には別の商人が入り、今ではお上が直に取り仕切っている。


 それを、なぜ今になって取り戻すと言うのか。


(考えがあると言っていたが……読めんな)


 最後まで、商人としての先が見えなかった。


 *****


 寄合が散会し、九兵衛が表へ出ようとしたところで声をかけられた。


「伊勢屋殿」


 振り返ると、伝兵衛が立っていた。


「先ほどは、父が大変失礼をいたしました」


 深々と頭を下げる。


「やめてくれ」


「しかし……」


「あんたが謝ることじゃない。理兵衛さんは今は隠居の身だ。

 村山の考えとは思っていない」


 伝兵衛はハッとしたように顔を上げ、何かを言いかけた。


「……ありがとうございます」


 もう一度頭を下げた。


 九兵衛もそれ以上は言わなかった。

 親子のことに他人が踏み込むものではない。


「旦那様」


 帰り道、冷え込む夕暮れの道を並んで歩く番頭が尋ねた。


「村山のこと……大丈夫でしょうか」


「何か言ってくるとは思っていた。だが、あれは読めんな」


「それはそうですが……理兵衛様のあのお様子は……」


 理兵衛は、まるで自分の懐に手を突っ込まれたような剣幕だった。

 番頭が違和感を抱くのも無理はない。


「まあ、向こうが動きを見せたらその時考える。しばらくは様子を見るしかない」


「相変わらずの余裕でございますな」


「考えても分からんものは考えるだけ損だ。

 俺には他にもやらねばならんことが山ほどある」


 九兵衛は白い息を吐き出した。


「それにしても、今日は散々だ」


「宗谷の件ですか」


「ああ。楽しみにしていた若い衆には春まで会えず、寄合では噛みつかれる」


 番頭が小さく笑う。


「災難続きでございますな」


「まったくだ」


 せめて家へ帰れば、暖かい飯くらいは静かに食えるだろう。

 そのくらいの期待は許されるはずだ――九兵衛はそう思っていた。


 *****


 その日の夜。

 九兵衛は重い気持ちを抱えたまま夕餉をとっていた。


「兄上の方が少し大きくないか」


「大した差じゃないだろ」


「でも大きい」


「お前は小太郎なんだから、魚も小さくてちょうどいいんだよ」


 夕餉の席では珍しくもない光景だ。

 外ではそれなりに取り澄ましている二人だが、家族だけになると昔と変わらない。


 九兵衛は黙って汁をすする。

 普段なら、お柳が一言釘を刺して終わる程度のことだった。


「……それなら兄上のは平べったくしてやる」


「やめろ、箸を伸ばすな!」


「干物みたいにペラペラにすれば食べやすいじゃないか」


「自分のでやれ!行儀が悪いぞ!」


「あなたたち、いい加減に――」


「いい加減にしろ!」


 いつもの夕餉の空気を切り裂くように、九兵衛の叱責が響いた。


 ピタリと部屋が静まり返る。

 小太郎は箸を止めたまま固まり、平助も口を開けたまま凍りついている。

 お節も驚いたように目を丸くしていた。


 ただ一人、向かいに座る妻のお柳だけが動じていなかった。


「あなたたち、ふざけすぎです。

 さっさと食べてしまいなさい。

 父上はお疲れです。わずらわせてはいけません」


「「……はい。すみません、父上」」


「……わかればいい。冷めないうちに食べろ」


 九兵衛がそう言うと、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。


 やがて三人は食事を終え、そそくさと部屋を出ていった。

 残ったのは九兵衛とお柳だけだ。


「珍しいですね」


「……何がだ」


「あなたが、あの程度のことで声を荒らげるなんて」


「あの程度って……お前な」


「いつものことでしょう」


 九兵衛は返す言葉を失った。


「……今日は、色々あったんだ」


 九兵衛は肩を落とし、疲れた息を吐いた。


「そうでございましたか」


 お柳はそれ以上追及せず、優しく微笑んだ。


 九兵衛は冷めかけた汁へ口をつけた。


 会うのが春まで延びた宗谷の若い衆。

 何を考えているのか今一つ読めない理兵衛。

 そして、子供のような諍いをしていた二人の息子。


「四十にして惑わず」と言うが。

 九兵衛は心の中で苦笑した。


(五十を目前にしても、惑うことばかりだな)


 冷えた汁の味が、やけに身にしみた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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