第6話:答えの出ない問い
宝暦十一年(一七六一年)晩秋 蝦夷地・松前
松前、大店「伊勢屋」。
小太郎に「値の落ちた乾物を使ってもいい」と告げてから、五日が過ぎた。
その間、九兵衛は一度も様子を見に行かなかった。
気にならなかったわけではない。
むしろ、嫌でも様子は伝わってきた。
昆布を細かくしようと包丁を持ち出したはいいが、危うく手を切りそうになり、
料理人から「危なっかしくて見ていられません」と訴えられた。
作業を終えてそのまま夕餉に来たのか、体中から磯臭い匂いをぷんぷんさせ、お節に嫌がられていた。
だが平助は、そんな小太郎をからかうでもなく、どこか微笑ましそうに眺めていた。
(……平助も少し変わったか)
九兵衛は、そんなことを思った。
さらにその数日後。
蔵へ足を運んだ九兵衛は、平助が乾物の箱を一つ一つ開けているところに出くわした。
「何をしている」
「父上」
平助はすぐに姿勢を正した。
「小太郎に渡せそうな品を探しております」
「まだやっているのか」
「はい。昨日渡した昆布では、うまく粉にならなかったそうで……別の物を使いたいと」
「そうか」
それだけ言って、九兵衛は蔵を出た。
どれを使えばいい。
何と混ぜればいい。
新しいものを作ろうというなら、まずは自分で考え、試してみるしかない。
それに、やってみろと言ったのは自分だ。
そこで横から口を挟んでは、任せたことにならない。
しばらくして帳場へ戻った九兵衛は、帳面をめくりながらふと思った。
(それにしても、これだけ日をかけてまだ試している。
小太郎が凝り性なのか、それとも上手くいっていないだけなのか)
わずかに口元が緩む。
別に呆れているわけではない。
むしろ、そんなものだろうと思う。
だが、小太郎は何もないところから始めたわけではない。
夕餉でみそ汁に使った蟹の粉がある。
捨て値のものでも、手を加えれば別の品にできる。
形の悪い乾物でも、粉にしてしまえば見た目は関係なくなる。
そこまで分かっていても、いざ自分でやろうとすれば簡単にはいかないらしい。
昆布を挽けば昆布の粉になる。
干し魚を挽けば魚の粉になる。
だが、それだけでは売り物にならない。
どれを使う。
どのくらい混ぜる。
炙るのか、そのまま使うのか。
味だけでなく、匂いもある。
小太郎なりに何度も試しているようだった。
(……試して、駄目ならどう変えるか)
そこで九兵衛の指が止まった。
ふと、宗谷の若い衆のことが頭に浮かんだ。
蟹の殻と昆布を合わせた粉。
当たり前のように目の前にあるが、あれとて最初からあの味だったはずがない。
殻をそのまま挽いてみたのかもしれない。
生臭くて捨てたかもしれない。
焼きすぎて苦くなったこともあったかもしれない。
昆布との割合を幾度も変えたのだろう。
何度試したのか、九兵衛には分からない。
だが――。
(小太郎には、あれという手本がある)
目の前に答えが一つあるのだ。
それでも、いまだに試している。
では、宗谷の若い衆には何があった?
誰かが先に蟹の殻を粉にして見せたのか。
誰かが蟹を油で煮て、壺へ詰めたものを見せたのか。
そんな話は徳蔵から一度も聞いていない。
むしろ、あの男の口ぶりでは――。
『……宗谷の、若い衆の思いつきでございます』
これは誰の知恵だと尋ねた時、徳蔵はそう答えた。
(……若い衆、か。小太郎より上なのか下なのか。それすら分からんな)
九兵衛は腕を組んだ。
蟹の油煮もそうだ。
最初の五壺は荒削りで、直すところはいくらでもあった。
それでも、すでに「売れる品」にはなっていた。
小太郎には、蟹の粉という手本がある。
蔵には材料がある。
料理人も、平助もいる。
それでも、形にするまでこれだけの日数がかかった。
では、宗谷の若い衆は何を手本にした?
(……分からんな)
これまで自分は、出来上がった品ばかりを見ていたのかもしれない。
美味い。
売れる。
同じ物を作れる。
次の品も生み出した。
銭の使い方も知っている。
商人として見るなら、それだけでも十分すぎるほど面白い相手だった。
だが――それ以前の話だ。
宗谷には、あんな品を一から考え、形にできる者がいる。
(……俺は、いちばん妙なところを見落としていたのかもしれんな)
九兵衛は帳面へ目を戻した。
宗谷へ送った文への返事は、まだ来ない。
当然だ。
徳蔵が宗谷へ着くにも時間がかかる。
まして返事が松前へ戻るのは、まだずっと先になるだろう。
それなのに、九兵衛は以前にも増して、その返事を待ち遠しく感じていた。
*****
数日後。
その日の夕餉で、九兵衛の前に小さな紙包みが置かれた。
置いたのは小太郎だった。
「父上、できたよ」
声には、隠しきれない得意げな響きがある。
九兵衛は箸を止め、紙包みへ目を落とした。
「ずいぶんかかったな」
「仕方ないだろ。何度も失敗したんだから」
「ほう」
九兵衛は包みをそっと開いた。
中に入っていたのは、薄茶色の粉だった。
蟹の粉よりも幾分色が濃い。
鼻を近づければ、昆布の豊かな香りに混じって、干し魚の濃い香りが漂う。
「何を使った」
「昆布と干し魚。それに、少しだけ塩」
「平助」
今度は次男に視線を向ける。
「使わせた品は?」
「昆布は端の欠けたもの、干し魚は形の崩れた品です。
どちらも味に問題がないことは確かめました」
「そうか」
平助はきちんと己の役目を果たしたらしい。
九兵衛は指先に少量を取り、舐めた。
「…………」
「どう?」
小太郎がたまらず身を乗り出す。
昆布の旨みが先に来る。
そのすぐ後から、干し魚の濃い旨みが重なった。
蟹の粉ほど強烈な味ではない。
口へ入れた瞬間に目を剥くようなものでもなかった。
だが、悪くない。
少なくとも、売り物にならないというほどではない。
「汁にも入れてありますよ」
お柳が、九兵衛の前の椀をそっと指した。
「小太郎がどうしても、あなたに食べてもらいたいと言うものですから」
「母上、それは言わなくていいよ!」
「この数日、我が家はそればかりでしたものねぇ」
お節がくすりと笑う。
「姉上まで……!」
九兵衛は何も言わず、汁を一口啜った。
――粉のまま舐めるよりも、こちらの方がいい。
いつもの汁よりも魚の旨味を強く感じる。
蟹の粉とはまた違う癖のある味だ。
「父上?」
「悪くない」
小太郎の顔が引きつった。
「それだけ……?」
「売り物にならなくはない」
「もっと何かあるだろ!」
九兵衛は思わず笑いそうになるのを耐えた。
手放しで褒めてもらえると信じきっていたのが丸分かりだ。
父親としてなら、よくやったと褒めてやってもいい。
だが、商人として見るならまだ早い。
旨いだけでは商いにはならない。
(……やはり、まだ子供だな)
だが――。
途中で飽きて投げ出すかもしれない、とも思っていた。
実際には何度も失敗を重ねながら諦めず、こうして売り物になりそうなところまで仕上げてみせた。
そこは認めてやってもいい、と九兵衛は心の中で頷いた。
もっとも――。
品ができたからといって、終わったわけではない。
むしろ、ここからが商いの始まりだった。
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