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伊勢屋九兵衛―やがて蝦夷一の廻船問屋となる男の最後の博打―  作者: 一月三日 五郎


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第5話:我が子への期待

 宝暦十一年(一七六一年)仲秋 松前


 松前、大店「伊勢屋」。


 徳蔵に証文と一通の文を託した翌日。


 宗谷からの返事を待ち遠しく思いながらも、九兵衛の一日はいつも通り始まった。


 朝、表へ顔を出すと、まずは番頭から前日の商いについての報告を聞いた。


 どの荷が入ったか。


 何が売れたか。


 どこから便りが届き、誰が支払いの猶予を求めてきているか。


 細かな銭の出入りまで、主である九兵衛が一つ一つ改めることはない。


 そんなことをしていては、時間がいくらあっても足りない。


 大枠は番頭や手代に任せ、九兵衛が見るのは大きな銭が動く商いと、いつもと違う変事だけだ。


 必要とあらば蔵へ足を運んで直に荷を検め、船が入れば港へ顔を出す。

 江戸から便りが届けば、それにも目を通す。


 この日も、江戸店を任せている長男の幸太郎から文が届いていた。

 先に送った蟹の油煮を口にした料理屋から、また手に入らないかと求めてきたという。


「……上々だな」


 文を折りたたみ、九兵衛はふっと口元を緩めた。


 まだ五壺しか送っていない。

 売り込んだわけでもない。


 にもかかわらず、向こうから「また欲しい」と言ってきたのだ。

 商いとしては悪くない滑り出しだ。

 問題は、残りだった。


 油に浸けてあるとはいえ、いつまでも持つ品ではない。

 初秋に届いてから、もうかなり日が経っている。


 出し惜しみして腐らせては元も子もない。


「……そろそろ捌くか」


 九兵衛は、もう一度幸太郎の文へ目を落とした。


 欲しがる者がいるのなら、今が頃合いだ。


 先に送った五壺が無事に江戸まで届いたことも分かった。

 残りのうち二十壺ほどは江戸へ廻し、今度は幸太郎に差配させてみるのもいい。


 跡目のこともある。


 いつもの品なら、幸太郎もすでに一人で商える。

 だが、蟹の油煮には参考にできる相場がない。


 誰に売るか。

 いくらで売るか。


 それを自分で考えさせるには、ちょうどいい試金石だった。


 結果次第では、教え方も考え直さねばならない。


 そう思うと、少しだけ億劫な気持ちになった。


 自分が口を出した方が早い。

 それは分かっている。


 だが、後継も育てなければならない。


 いつまでも自分が店を切り盛りできるわけではない。


 番頭や手代たちの前では口にしないが、九兵衛にも悩みの種はあった。


 そうこうするうちに日は傾き、九兵衛が店の奥へ引っ込むころには、

 焼き魚の香ばしい匂いとともに夕餉の支度が整っていた。


 飯に汁、漬物と焼き魚。


 特別なご馳走ではない。

 九兵衛たちが普段口にしている、いつもの夕餉だった。


 妻のお柳、長女のお節、次男の平助、そして三男の小太郎も、それぞれ膳を前にしていた。

 長男の幸太郎が江戸へ出てからは、この五人で夕餉を取ることが増えていた。


「……ん?」


 汁を一口啜った平助が、首を傾げて椀の中を覗き込んだ。


「なあ、最近この汁、味が変わったか?」


「あら、ようやく気づいたのね。もう何度か出しているのに」


 お柳がほほ笑む。


「平助は味に頓着しない方なのかしらね」


「いや、変わったとは思ってたんだ。今日ははっきり分かるぞ」


 平助はもう一口、汁を啜った。


「前よりずっと旨い。なんというか……味が濃くなったというか」


「蟹の粉をほんの少し足しているんですよ」


「蟹?」


 焼き魚の骨と格闘していた小太郎がひょいと顔を上げた。

 九兵衛にも思い当たる節があった。


「あの粉か」


「ええ。あなたが文机に置きっぱなしにしていた品ですよ」


 蟹の殻を香ばしく焼き、昆布と合わせて粉末にしたもの。

 徳蔵が持ち込んできた、まだ売り物として出回ってもいない品だ。


「勝手なことを……」


「食べるものを置きっぱなしにしておきながら、何をおっしゃいますか。

 虫が湧いたら大切なお取引の書付が台無しになりますよ」


「それはそうだが……。

 ……せめて断りを入れなさい」


 九兵衛はばつが悪いのをごまかすように、改めて汁を口に含んだ。


 確かに、いつもの味噌汁より味が深い。


 蟹の味が前へ出てくるわけではない。

 それなのに、いつもの出汁にもう一つ何かが加わったような、しっかりとした味が残る。


「俺はこっちの方が好きだな。

 蟹の身は入っていないのに蟹の味がするのが面白い!」


「毎日だと少しくどいかもしれませんね。

 私はお母様のいつもの味が好きです」


「でも、ほんの一匙でこれだけ味が変わるのは面白いね。

 見た目はいつもと変わらないのに……」


 小太郎はもう一度、椀の中を覗き込んだ。


「こしらえる方も重宝しますよ。

 ただ、サッと入れるだけですから。

 お節にもあとで作るところを見せてあげましょう」


「嬉しい。あとで見せてくださいね」


「ふうん……」


 その後も小太郎だけは、椀の底にわずかに沈んだ粉をじっと見つめていた。

 その熱心な視線に気づき、九兵衛が声をかける。


「どうした、小太郎」


「父上。これ、本当に蟹の殻なんですよね?」


「ああ。徳蔵はそう言っていた。

 作るところを見たわけじゃないが、あいつは嘘をつく男じゃない。

 信じていいだろう」


「蟹の殻っていつも捨ててるやつだよね?」


「そうだな。

 お前も知ってる通り、蟹は身は食えるが殻は食えん。

 それに身の少ない奴は、剥く手間の方が惜しいと丸ごと捨てられることもある。

 まずくはないが、商いにするには難がある」


 小太郎は箸を置き、しばらく考え込んでいたが、やがて目を輝かせた。


「じゃあ、他のものでも同じことができるんじゃない?」


「他のもの?」


「昆布とかさ」


 九兵衛は眉を少し跳ね上げた。


「昆布は端切れでも売れるぞ。

 蟹の殻みたいな捨て物とはわけが違う」


「でも、端切れは上物より安いんでしょう?」


「だから、なるべくいい昆布を仕入れられるかで商人の力量がわかる。

 端切ればかりつかまされるようじゃ、仕入れは任せられん」


 小太郎はどこかもどかしい様子だった。


「いい昆布ってどんなの?」


「形がよくて、肉厚なしっかりしたやつだな。

 まあ、形が悪ければ値は落ちる。

 味まで悪いとは限らんが、品物は見た目も値のうちだ」


 九兵衛の言葉に、小太郎はそれを待っていたかのように目を輝かせた。


「だったら粉にしちゃえば、形なんて関係なくなるんじゃない?」


 小太郎は身を乗り出した。


「……なるほど」


 九兵衛はようやく小太郎の言いたいことを理解した。


 先ほどから妙に言葉を選び、自分から何かを言わせようとしているとは思っていた。

 まさか、昆布を粉にして形の悪さそのものを消そうとしていたとは。


 乾物を挽いて粉にすること自体は珍しくもない。


 だが――形が崩れているというだけで値の落ちる品なら、伊勢屋の蔵にもいくらかある。

 見栄えこそ悪いが、味まで落ちているわけではない。


 それを粉にしてしまえば、客には元の形など分からない。


(……なるほど。

 安くしか売れん品に、別の値を付けようってわけか。


 しかも、新しく何かを仕入れる必要もない。

 蔵にある値の落ちた品を使えばいい。


 小太郎がそこまで考えているかは分からんが――

 面白い)


「昆布だけじゃなくて、干した魚の頭とか端切れでもできるんじゃないかな」


「おいおい。何でも挽いて粉にすりゃ売れるってもんじゃねえぞ。小太」


「分かってるよ、僕だってちゃんと考えてるんだ。

 兄上は黙っててくれ」


「はっ、小太も言うようになったじゃないか。

 商人じゃなくて料理人にでもなる気か?」


「小太っていうな!

 僕は小太郎だ!

 兄上だって、まだ一人じゃ何も任せてもらえてないじゃないか!」


「言ったな、この野郎」


 平助がむっとして、小太郎の胸倉へ手を伸ばした。


「二人とも、食事中ですよ!

 わきまえなさい!」


「「……はい」」


 その様子を黙って見つめていた九兵衛は、やがて静かに口を開いた。


「小太郎、やってみろ」


「え?」


「まともな値の付かん乾物なら、好きに使っていい」


 一瞬、座が静まり返った。

 小太郎だけでなく、家族全員の視線が九兵衛に集まる。


「本当に……?」


「ああ。ただし、店に出せる上物は駄目だ。

 端が欠けたもの、割れたもの、安値でしか捌けん品だけだ」


「やった!頑張るよ」


 小太郎の顔がぱっと明るくなった。


 九兵衛は今度は平助を見る。


「平助。どれを使わせるかは、お前に任せる」


「俺が、ですか?」


「お前が使わせてもいいと思ったものだけ、小太郎に渡せ」


「……分かりました、父上」


 先ほどまでの軽い調子は消え、平助も真顔で頷いた。


「それと、いくら試しだからって、食えんようなものは作るな。

 下手なものを作れば、小遣いは当分なしだからな」


「分かってるって!」


 さっきまでの不機嫌が嘘のように明るくなった小太郎を見て、九兵衛は冷めかけた汁を再び啜った。


 平助も、いつの間にか機嫌を直している。


(……現金なものだ。

 商人がそんなにわかりやすくてどうする。

 まだまだ子供だな)


 別に、大層な期待をしているわけではない。


 所詮は子供の思いつきだ。

 数日いじくり回して、満足すれば飽きるかもしれない。


 それならそれで構わなかった。


 だが、自分から何かをやりたいと言い出した小太郎も、役目を与えられた途端に真顔になった平助も、

 少し意外ではあった。


 幸太郎には、江戸で蟹の油煮を任せる。

 平助には、使わせる品を選ばせる。

 小太郎には、自分で言い出したことをやらせてみる。


 同じ息子でも、見せる顔はそれぞれ違う。


(……さて、どこまでやれるか)


 九兵衛は冷めかけた汁をもう一口啜った。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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