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伊勢屋九兵衛-最後の博打-  作者: 一月三日 五郎


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第4話:最初の挨拶

 宝暦十一年(一七六一年)仲秋 蝦夷地・松前


 松前、大店「伊勢屋」。


 九兵衛の前には、一通の証文が置かれていた。


『カニ粉末、全量を一斤につき銀三匁にて買い受ける。他所への売却は一切禁ず』


 先日、番頭に命じて書かせたものだ。


 宗谷側が作った分は、伊勢屋が残らず買い取る。

 その代わり、他の商家には一切売らせない。

 向こうには十分な利を与え、そのうえで、この品が他所へ流れる道を塞ぐ。


 九兵衛は証文をもう一度読み返し、満足そうに畳んだ。


「これでいい」


「旦那」


 正面に控えていた番頭が、わずかに身を乗り出した。


「本当に、銀三匁で出されるので?」


「まだ言うか」


「いえ。旦那がお決めになったことに異を唱えるつもりはございません。ただ……」


 番頭は証文へ視線を落とした。


「ここまでの値を出せば、向こうも驚くでしょうな」


「驚かせるためにつけた値だ」


 九兵衛は平然と言い切った。


「一匁なら喜ぶ。二匁なら飛びつく。三匁なら——考える」


「考える?」


「ああ」


 九兵衛は湯呑みに口をつけた。


「『なぜ、これほど高い』と。少しでも頭の回る奴なら、そう考えるはずだ」


 喜んで受け取るか。 裏があると警戒するか。


 さらに良い条件を引き出そうとしてくるか。


 あるいは——。


(例の若い衆なら、こっちの腹まで読んでくるかもしれんな)


 それなら、それで面白い。


 九兵衛はコトンと湯呑みを置いた。


「徳蔵は、まだ松前にいるのか」


「はい。明日の朝一番で宗谷へ向けて発つそうでございます」


「そうか。なら、ちょうどいい」


 証文を持たせればいい。


 番頭が納得し、証文を懐へ収めようとした、その時だった。


「待て」


「はい?」


「もう一枚、紙を用意しろ」


 番頭が怪訝な顔をする。


「証文に不足でも?」


「そっちじゃない。文を書く」


「どちらへ?」


「宗谷の若い衆だ」


 番頭の手が止まった。


「……徳蔵ではなく?」


「ああ」


 九兵衛は文机を引き寄せた。

 筆先に墨を含ませる。


 名前は知らない。


 年も知らない。


 徳蔵はただ「若い衆」と呼んでいた。

 分かっているのは、宗谷にいる若者だということ。


 蟹の油煮を考えた。

 捨てていた殻から粉を作った。

 そして手にした三両一分を、一文残らず次の商いへ回した。


 それだけだ。


 だが、それだけで十分だった。


(これ以上、徳蔵越しに聞いていても埒が明かんな)


 徳蔵を疑っているわけではない。


 むしろ逆だ。


 あの男は二十年見てきたが、絶対に嘘をつかない。

 知っていることはそのまま話し、知らないことは知らないと言う。


 だから信用できる。


 だが当然、徳蔵自身が知らないことまでは聞き出せないのだ。


 九兵衛が知りたいのは、その先だった。


 なぜ蟹を油で煮ようと思った。

 なぜ捨てていた殻まで使った。

 なぜ三両一分もの銭を、一文残らず次へ回せた。


 次に何を考えている。

 宗谷で何をしようとしている。

 そして何より――どこまで先を見ている。


 九兵衛は一代で、伊勢屋をここまで大きくした。


 このままでも、まだ店は大きくできる。

 松前一を争うところまでは行けるだろう。


 だが、その先はどうだ。


 今までと同じ商いを続けているだけで、江戸の大店どもと肩を並べるところまで行けるのか。


 ……難しいだろうな。


 だが、この宗谷の若い衆と組めば。


 自分では思いつかなかった道が、開けるかもしれない。


 そう考えると、胸の奥に灯った火がまた少し大きくなる。


「……一度、顔を見てみたいものだ」


 思わず声が漏れた。


 番頭は何も言わず、ただ九兵衛の後ろで静かに控えている。


 九兵衛は紙へ筆を走らせた。


『宗谷にて面白き知恵を持つ若者ありと聞き及ぶ』


 そこで一度、筆を止めた。

 褒めすぎる必要はない。

 こちらがどれほど興味を持っているかまで、わざわざ教えてやることもない。


 再び筆先を紙へ落とす。


『一度、松前伊勢屋へ来られたし。話を聞いてみたい』


 そこまで書き、九兵衛はしばし思案した。

 雪解けを待てば、まだ先になる。

 宗谷の冬がどれほど厳しいか、九兵衛もよく知っていた。


 だが——。


(さて、どうする)


 呼ばれたからと、無理を承知で来るのか。

 危険だと判断して断るのか。

 代わりの者を寄こすのか。

 理由を書いて返してくるのか。


 それもまた、相手を見る材料になる。


 九兵衛はしばらく書きかけの文を見つめた。


 やがて、その紙を脇へ退け、新しい紙を一枚引き寄せる。


 今度は、先ほどの文の頭に一言を加えた。


『雪解けを待たず、一度、松前伊勢屋へ来られたし。話を聞いてみたい』


 筆を置く。


 墨が乾くのを待ち、文を丁寧に折り畳んで番頭へ差し出した。


「これも徳蔵に持たせろ。雪解けを待たず、松前へ来るよう書いてある」


 番頭がわずかに眉を上げた。


「冬のうちに、でございますか」


「ああ」


「宗谷から松前となれば、冬の道中は容易ではありませんぞ」


「分かっている」


「それでも呼ばれるので?」


 九兵衛は湯呑みを手に取った。


「少々無理な話を振られた時、どうする奴なのか見てみたい」


「……試すおつもりで?」


「試すというほど大層なものじゃない」


 九兵衛は茶を一口すする。


「無理だと思えば断ればいい。その時に、どう断るかを見たいだけだ」


 もっとも――返書そのものが届かないこともある。


 宗谷の冬だ。

 人ひとり、文一通運べなくなることもある。


 返事が来ないことと、返事をしないことは違う。


 その程度のことを取り違えるほど、九兵衛は商いを知らぬ男ではなかった。


「これから先も大きな商いをするなら、相手がどんな人間かくらい知っておきたいだろう」


「なるほど……」


 番頭は手中の書状を見つめた。


「私なら、丁重にお断りするでしょうな」


「ほう」


「這ってでも参る、と申し上げたいところですが……命あっての物種でございます。

 旦那のご機嫌を損ねぬよう、言葉を選んで返書をしたためるのが精いっぱいでしょう」


「そうか」


 九兵衛は小さく笑った。


「さて、あの若い衆はどうするかな」


 番頭は証文と書状を大事そうに懐へ収めた。


「宗谷の若い衆も、さぞ頭を抱えることでしょうな」


 *****


 翌朝。


 伊勢屋の裏手には、宗谷へ戻る支度を整えた徳蔵が立っていた。


 朝もやの中に白い息が立ち上る。


 番頭から渡された証文を見て、その太い眉が跳ね上がった。


「一斤、銀三匁!?」


「旦那がお決めになった」


「三匁って……本当に?」


「証文まで出して冗談を言う商人がいるか」


「いや、そりゃそうですが……」


 徳蔵は証文を何度も見返すが、文字が変わるはずもない。

 間違いなく銀三匁と書いてあった。


「作っただけ全部買うって……どれだけ持ってきても?」


「そうだ」


 徳蔵の顔がぱっと明るくなる。


 だが、証文を読み進めるにつれて、その眉が再び寄った。


『他所への売却は一切禁ず』


「……他には売るな、ってことか」


「そういうことだ」


「なるほどねぇ……」


 徳蔵は証文を見つめたまま、頭を掻いた。


「ずいぶん高く買ってくれると思ったら、そういう話か」


 番頭が片眉を上げる。


「不満か?」


「いや、高く買ってもらえるんだから文句はありませんよ。

 今さら他所を回って、一番高く買う店を探すような器用な真似もできませんしね」


 徳蔵は困ったように頭を掻いた。


 番頭は思わず笑った。


「……あんたは商人には向いてないよ」


「がははっ、そう言われちゃ、なおさら他所には持っていけませんな。

 売る方はお任せしますよ。たんまり儲けてください」


「ふっ、任せておけ。

 お前たちに払った以上に儲けさせてもらうさ。

 さて、商いの話はこれで終いだが、もう一通、文を預かっている」


 番頭が懐から書状を取り出した。


「こっちは旦那から、例の若い衆へだ」


「……若い衆に?」


 徳蔵の表情が、ほんの一瞬だけ強張った。


「何が書いてあるんで?」


「まあ、本人に聞けば分かるさ。

 ……喜んでくれるといいがな」


「そうですかい」


 徳蔵はしばらく書状を見つめたあと、大事そうに懐深く収めた。


「……確かに預かりました。

 きっちり渡しますよ」


「ああ。頼んだぞ、徳蔵さん。

 気を付けて帰ってくれ」


「はい。また来ます。

 それじゃ、これで」


 徳蔵が背を向ける。

 そのたくましい後ろ姿が門の向こうへ消えてから、番頭は奥座敷へ戻った。


 九兵衛は文机に向かっていた。


「渡したか」


「はい」


「徳蔵は、なんと言っていた」


「証文を見て最初は喜んでましたが、やはり少し警戒しておりました。

 他に売るなというところがひっかかったようで……」


 九兵衛の算盤を弾く指が止まる。


「最後には納得したんだろう?」


「はい。『一番高く買う店を探すような器用な真似はできない』と」


「……くく」


 九兵衛が喉の奥で低く笑った。


「そうか。徳蔵らしいな。

 自分の得手不得手をよく分かっている。

 それが簡単なようで、なかなか難しいのだ。

 それで、文の方は?」


「はい。そちらも確かに渡しました」


「そうか」


「内容を聞かれましたが、本人に聞けば分かるとだけ伝えてあります」


「それでいい。あとは、向こうがどう返してくるかだ」


 九兵衛は再び帳面へ視線を落とし、パチと算盤を弾いた。


「さて……」


 徳蔵が宗谷へ戻り、松前へ返事が届くまで、どれほどかかるだろう。


 いや、返事だけではなく、あの若い衆本人が来ることもあるかもしれない。


 難しいだろう。


 だが、来るならその方が面白い。


「顔を見せてもらおうじゃないか」


 北の果てへ向かう二通の書面。


 一通は、宗谷との商いをつなぐための証文。

 もう一通は、その商いを生み出した相手へ送る招待状。


 顔も名前も知らぬ相手へ向けた、九兵衛なりの最初の挨拶だった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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