第3話:値付けの流儀
宝暦十一年(一七六一年)初秋 蝦夷地・松前
松前、大店「伊勢屋」。
徳蔵が品を持ち込んで来てから、十日ほどが過ぎていた。
九兵衛の前には、三つの器が並べられている。
一つは澄まし汁。
一つは煮た大根。
そして最後は、炊きたての白飯だった。
どれもどこにでもある、至極素朴な料理である。
「旦那、本当にこれでよろしいので?」
膳を運んできた料理人が、不安そうに首をひねる。
「ああ。余計な真似はするなと言っただろう。いつも通りに作ればいい」
「はい。それはもう……言われた通り、それぞれほんの『一つまみ』だけ振りましたが」
「よし」
九兵衛はまず、澄まし汁を口へ運んだ。
一瞬、目を閉じる。
(…………なるほどな)
昆布だけで出汁を取った、いつもの汁だ。
そこへ、例の粉を指先でひとつまみ落とした——たったそれだけのはずだった。
だが、口に含んだ瞬間の広がりがまるで違う。
昆布の上品な旨味の奥から、香ばしい蟹の風味がふっと立ち上ってくる。
主張しすぎず、汁全体の底を押し上げるように味が深くなっていた。
続いて大根。
淡泊な大根の身に、海の旨味がじんわりと染み込んでいる。
最後に飯。
粉を軽く振りかけただけだが、米の甘みと粉の塩気、香ばしさが噛むほどに混ざり合い、
これだけで何杯でも食えそうなほどだった。
九兵衛は静かに箸を置いた。
「いかがで?」
恐る恐る尋ねる料理人に、九兵衛は問い返す。
「お前はどう思った」
「私でございますか? ……そりゃあ、味見くらいはいたしましたが」
料理人は首をかしげ、自分の指先を見つめた。
「妙な粉ですな。これ単体を大量に入れたらくどくなりそうですが……ほんの少し入れるだけで、
料理の骨組みが変わる。それに」
「それに?」
「忙しい時なんかは、薄い出汁でもこれを足せば随分違うでしょうな。
旅籠や船宿の台所なら重宝しそうです」
九兵衛の眉が、わずかに跳ねた。
「料理人でも、行き着く先は同じか」
「え?」
「いや、いい。下がれ」
料理人が半信半疑の顔で膳を下げる。
入れ替わるように、静かに襖が開いた。
番頭が数枚の紙を手に、滑り込んでくる。
「旦那」
「どうだった」
「三軒とも、評判は上々でございます」
九兵衛は手を伸ばし、紙を受け取った。
徳蔵から預かった粉は、伊勢屋だけで試したわけではない。
ごく少量ずつ包み、馴染みの料理屋や旅籠に「新しい出汁だ。試しに使ってみろ」とだけ伝えて配らせていたのだ。
どこで作られたものかも伏せたまま。
「料理屋では煮流しと煮付けに使ったそうですが、『いつもと何が違うのだ』と客から問い詰められたとか。
旅籠では飯に振って出したところ、酒の肴に別皿でくれと頼まれたそうで」
番頭の目が熱を帯びている。
「旦那……これは、えらい儲け口になりますぞ」
「そうだな」
「ならば、買い値はいかほどになさいます?」
九兵衛は番頭をじっと見つめた。
「お前なら、いくらにする」
「私でございますか……」
番頭は指を折りながら、しばし考えた。
「……一斤につき、銀一匁」
「ほう。理由は?」
「昆布には元値がございますが、蟹の殻など、これまで浜で捨てられていたゴミ同然のもの。
粉にする手間を差し引いても、一匁払えば向こうは大喜びでしょう」
九兵衛は何も言わず、ただ茶をすすった。
静寂に耐えかねた番頭が、あせって付け加える。
「あ、あるいは……銀五分まで下げても——」
「やはりお前は、まだ『番頭』止まりだな」
九兵衛の低い声が部屋に響いた。
番頭が言葉を詰まらせる。
九兵衛は机の端に置かれた、小さな紙包みを指先で突いた。
「これは、なんだ」
「……蟹の殻で作った粉ですが」
「違う」
九兵衛はきっぱりと首を振った。
「客が銭を払うのは、蟹の殻そのものにじゃない。この味と、ひとつまみで味が出る便利さにだ」
九兵衛は身を乗り出した。
「元が捨て物なら安く売らねばならんのか? 浜じゃ捨てる蟹の殻でも、欲しがる者がいれば銭になる。
反対に、どれほど手間暇かけた品でも、買う者がいなければただのゴミだ。
商いの値ってのはな、作り手がいくらかけたかだけで決まるもんじゃない」
(……宗谷の若い衆は、そこをわかってやっている節がある。
捨てていた殻を品に仕立て、その値はこっちに付けさせる。
面白い真似をする。
……どこまで考えてやっている?)
「……は」
「もう一度聞く。この粉、いくらで買う」
番頭は冷や汗を拭い、紙包みを見つめ直した。
「……二匁、でしょうか」
「まだ安い」
「二匁でも!?」
九兵衛は傍らの算盤を引き寄せた。
パチ、パチ、と澄んだ木音が部屋に響く。
松前でいくら。
江戸へ回せばいくら。
運賃、手間賃、目減りを引いても、まだ十分に利は残る。
九兵衛の指が止まった。
「三匁だ」
「銀三匁……!?」
番頭が悲鳴に近い声を上げた。
「一斤で銀三匁!? 旦那、それではあまりにも買い値が高すぎます!
宗谷の小さな村でございます。一匁でも、向こうには十分すぎる値では?」
「他所へ逃がさないためだ」
九兵衛の冷徹な一言に、番頭の口が完全に止まった。
「考えてもみろ。この粉をうちが売り出せば、すぐに大評判になる。
そうなれば、他の問屋の連中がどう動く?」
「……匂いを嗅ぎつけて、宗谷へ向かいます」
「そうだ。伊勢屋が一匁で買っていると知れば、『うちは銀一匁二分で買う』という奴が出る。
次に『銀一匁五分だ』と競り出す。そうなれば、宗谷の連中はどうする?」
「……高い方に、持っていきます」
「だから、最初から『他所へ持っていく気が失せる値』を叩きつけるんだ」
九兵衛はニヤリと口角を上げた。
「安く買い叩くことだけが、商売じゃない」
先日の「蟹の油煮」五十壺と同じだ。
一度きりなら買い叩いて大儲けもできよう。
だが、それで相手に警戒され、他所へ逃げられたらそこで終わりだ。
九兵衛が欲しいのは、この粉一包みの目先の儲けではない。
この粉を生み出した者との、これから先の商いだ。
「証文を用意しろ」
九兵衛が指を一本立てる。
「一つ、カニの粉は一斤につき銀三匁。持ち込まれた分は、伊勢屋がすべて買い取る」
二本目を立てる。
「二つ、その代わり——他所へは一切売らせん」
番頭は息をのんだ。
「……この品を、伊勢屋一手で扱うおつもりで?」
「人聞きの悪いことを言うな。向こうが作った分は、残らずうちが銭を払って引き取るんだ。
相手に損はさせん」
「ですが! もし向こうが山のように作って持ち込んできたら……うちの蔵に入り切りません!」
「買え。蔵を借りてもいい」
「売り切れぬほどの量でも!?」
「何が何でも売り捌く。それが伊勢屋の仕事だ」
迷いのない断言。
番頭はしばし言葉を失った。
「向こうに『他所へ売るな』と縛りをかけるなら、こちらも腹を括って『全部抱え込む』のが筋ってものだ。
松前で捌ききれなきゃ江戸へ送る。船手にも卸す。料理屋にも売り込む。
……品を作るのは宗谷の仕事。それを金に変えるのが、俺たちの仕事だ」
「…………承知いたしました」
やがて、深く頭を下げる。
「すぐに、抜け目のない証文をしたためます」
「頼むぞ」
番頭が下がるため立ち上がった時、九兵衛がふと呼び止めた。
「待て」
「はい?」
「……いや、いい」
九兵衛は言葉を呑み込んだ。
(一度、直接会って確かめてみたいものだ……)
宗谷の極寒の地で、油煮をつくり、捨てていた蟹の殻からこの粉を生み出した男。
どんな面構えをした若蔵なのか。
だが、まだ早い。
まずはこの「銀三匁」という破格の証文を送りつける。
それを見て、向こうはどう動くか。
大喜びで跳ね上がるか。
裏を疑って警戒するか。
それとも……さらにこちらの予想を超える「次の一手」を打ってくるか。
「……旦那?」
「なんでもない。行け」
「はい」
襖が静かに閉まり、部屋に一人取り残された九兵衛は、再び指先に粉を少しだけつけ、舐めた。
濃厚な旨味が舌の上に広がる。
「さて……銀三匁だ。宗谷の若造、お前はどう出る?」
それは、ただ粉につけた値ではなかった。
北の果てにいる、顔も知らぬ商売相手へ差し出した、九兵衛なりの問いだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
面白かったら、ブックマークや評価をいただけると、執筆の励みになります。




