第2話:守られた約束
宝暦十一年(一七六一年)初秋 蝦夷地・松前
松前、大店「伊勢屋」。
その日の昼過ぎ、店の裏手がにわかに騒がしくなった。
「旦那、徳蔵さんが参りました」
「ほう」
帳面から顔を上げた店主・九兵衛の目が、わずかに細くなる。
「ずいぶん早かったな」
宗谷から来たと聞くだけなら珍しくもない。徳蔵とは二十年来の付き合いだ。
昆布やナマコを積んでは年に何度も顔を出す、古い取引相手だが、今回持ち込んだ荷はそれらではなかった。
「それで、いくつだ」
「は?」
「壺だ。何壺持ってきた」
手代が少し呆気に取られたあと、慌てて口を開いた。
「ご、五十でございます」
「……五十?」
九兵衛の算盤を弾く指が止まった。
前に持ち込まれたのは、わずか五壺。
『十壺でも百壺でも持ってこい』――そう言ったのは自分だ。
だが、まさか一度に五十も揃えてくるとは思っていなかった。
「面白い」
九兵衛は帳面を閉じ、立ち上がった。
「蔵へ行くぞ」
*****
伊勢屋の蔵前には、五十もの壺が隙間なく整然と並べられていた。
前回持ち込まれた壺とは違う。
大きさも形も揃い、蓋の目貼りに至るまで丁寧な仕事が窺える。
壺の底には、どれも同じ「宗谷」の印が刻まれていた。
「……揃えたな」
九兵衛が一つを手に取る。
「はい。向こうで揃えた品だそうで」
傍らの番頭が声を潜めた。
九兵衛は何も言わず、壺の封を解く。
ふわりと漂うのは、澄んだ油と香ばしい蟹の匂い。
覗き込めば、黄金色の油の中に鮮やかな蟹の身が沈んでいる。
一切れ口へ運び、ゆっくり噛みしめる。
「……同じだな」
「左様で。抜き取りで十壺ほど調べましたが、どれも出来は変わりません」
「そうか」
九兵衛の視線が、並んだ壺の列を静かになぞる。
一度だけ美味いものを作るなら、まぐれもある。
だが五十壺。
これだけの数を揃え、出来にむらがない。
前回とは訳が違う。
「旦那」
番頭がさらに声をひそめた。
「一つ、ご提案が」
「なんだ」
「これほどのまとまった数でございます。今回はともかく、次からは少し買値を下げてもよいのでは」
九兵衛は無言で番頭を見つめた。
「一壺一分として五十壺。十二両と二分でございます。
これだけの数を揃えられるのであれば、次から多少買値を下げても、向こうにとっては十分な商いかと――」
「駄目だ」
九兵衛は即座に遮った。
番頭が目を丸くする。
「最初に『一壺一分で買う』と言ったのは俺だ」
「ですが、買い手の流儀として――」
「最初の約束を破る商人に、二度目の良い荷が届くと思うか?」
九兵衛の声は低いが、通りがよかった。
「初めは高値をちらつかせて品を集め、量が見込めた途端に買い叩く。
……そうすれば、確かに一度は儲かるだろうさ」
手にしていた壺を、慎重に元の位置へ戻す。
「だが、二度目はない。目先の一両二両を惜しんで、
将来何十両、何百両を生むかもしれん太い商脈を自ら切るなど、愚かな商人のやることだ。
お前も暖簾を分けたいなら、この心得を忘れるな」
「……はい。申し訳ございません」
「約束通り、一壺一分――十二両二分で全て買え」
「承知いたしました」
九兵衛はそこで向きを変え、後ろで成り行きを見守っていた徳蔵へ歩み寄った。
「いやあ、徳蔵さん。大したものだ」
「何がです、旦那?」
「この五十壺だ。早く揃えたのも見事だが、出来にむらがない。
とても最近作り始めた品とは思えん。
この商いを仕切っている若い衆とやらは、相当なやり手だな」
「……へへ、そう言っていただけると、村の者も報われます」
徳蔵は隠しきれない笑みを浮かべ、照れくさそうに頭を掻いた。
徳蔵は昔から、腹芸のできる男ではない。
少し気分よく喋らせれば、もっと面白い話が聞けるはずだ。
「それにしても、一壺一分で十二両二分。
前に渡した五壺の代金と手付けが三両一分。合わせて十五両三分か」
九兵衛がニヤリと笑う。
「それだけあれば、船を買う元手には十分じゃないか?」
すると、徳蔵は困ったように眉をひそめた。
「……それがですね、旦那」
「なんだ?」
「前の金は、もう一文も残ってないんです」
「なに?」
九兵衛の眉根が寄る。
「使ったのか。……酒か?」
「滅相もない!」
「なら、家でも建て直したか」
「違います」
徳蔵は背後の五十壺を指差した。
「これに化けました」
「……これに?」
「はい。前回もらった銭は、壺や油の仕入れ、鉄鍋や道具の準備……この五十壺を作るために、
全部使い切っちまったそうで」
「全部……残さずか?」
「はい。一文も残さず」
九兵衛が絶句した。
徳蔵はどこか居心地悪そうに話を続ける。
「俺も最初に聞いたときは正気を疑いましたよ。
せっかく手に入れた大金を、ぜんぶ物に変えちまったんですから」
徳蔵の声が、九兵衛の耳の中で次第に遠のいていく。
三両一分もの大金だ。
普通なら蓄える。
暮らしを楽にし、身内に分け、万一の備えにする。
特に宗谷のような厳しい寒村なら、明日の食い扶持すら分からない。
銭は手元に置いておきたいのが人情だ。
それを、一文残らず次の商いへ回したというのか。
「……なるほどな」
九兵衛の口元が、自然と吊り上がった。
「……旦那?」
「いや……」
覚えがあった。若き日の自分だ。
伊勢屋の看板を掲げたばかりの頃、儲けた銭で贅沢をしたことなど一度もない。
仕入れを増やし、船を借り、人を雇い、蔵を建てた。
銭そのものを抱え込んでも意味はない。
銭に働かせてこそ、さらに大きな銭が返ってくる。
それを極寒の地の若者も、どうやら理解しているらしい。
(ただ美味いものを作れるだけの職人じゃない……銭の使い方を知っている)
顔も知らぬ、名前も知らぬその若者に、九兵衛はぞくぞくとするような興奮を覚えていた。
「時に旦那、もう一つ言っておかなきゃならねぇことがありまして」
「なんだ」
「このカニの油煮、今年はこれで仕舞いです」
九兵衛の視線が鋭くなる。
「仕舞い?」
「カニの時期がもう終わります。次にまとまった数が作れるのは、来年になります」
「……そうか」
五十壺。
これを売り切れば、来年まで入荷はない。
ならば、この少なさそのものを値打ちに変えてやればいい。
九兵衛が頭の中で算盤を弾き直したその時、徳蔵が懐から小さな包みを取り出した。
「それと、もう一つ預かってきたものがありまして」
「まだ何かあるのか?」
「売り物じゃありません。旦那に味を見てもらえって預かってきました」
竹皮の包みを開くと、中には薄茶色のきめ細やかな粉末が入っていた。
九兵衛が首をひねる。
「なんだ、これは」
「カニの殻だそうです」
「殻?」
「身を取ったあとの殻を焼いて粉にして、昆布の粉と合わせたそうで」
九兵衛の手が止まった。
「……捨てていた殻を使ったのか?」
「はい。俺も向こうで舐めましたが、まあ試してみてください」
九兵衛は指先で粉を少量すくい、まずは鼻へ近づけた。
焼いた蟹の香ばしい匂い。
その奥から、深く豊かな昆布の香りが追いかけてくる。
ゆっくりと舌に乗せた。
「…………!」
濃厚な旨味が、一気に口内に弾けた。
最初にガツンとくる蟹の力強い風味。
それを包み込むような昆布の出汁の奥行き。
油煮とはまるで違う、料理の味を引き立てる粉だった。
酒の肴として舐めても悪くない。
汁へ加えてもいい。
飯に振っても食える。
そして何より――。
「徳蔵さん」
「はい」
「これも……例の若い衆が作ったのか?」
「はい。『捨てるところなど何ひとつない』と言って、勝手に作り始めまして」
「同じものをまた作れるのか」
「『殻と昆布がある限り、何度でも作れる』と」
九兵衛は手の中の粉をじっと見つめた。
世の中には、偶然一度だけ見事なものを作る者ならいる。
運や時勢が味方すれば、実力以上の成果が出ることもあるだろう。
だが、油煮と、この出汁粉。
まるで趣の異なる二つの品を、しかも片方は、これまで捨てていた殻から新たな値打ちを生み出してみせた。
(二つ目か……)
一つ目は偶然かもしれない。
だが二つ目まで来れば、もはや偶然だけでは片づけられない。
見るべきは、これらの品そのものではない。
こんな品を次々と生み出す人間の方だ。
九兵衛の胸に灯った火が、さらに勢いを増した。
「徳蔵さん」
「はい」
「この粉も、作れるだけ作らせて持ってこい」
「……全部ですか?」
「ああ。一つ残らず、伊勢屋が買い取る」
目を丸くする徳蔵を余所に、九兵衛は久しく味わっていなかった胸の高鳴りを抑えきれず、不敵に笑った。
宗谷の若い衆――お前はいったい、何者だ。
そして、次はどんな手で俺を驚かせるつもりだ。
九兵衛は、手の中の薄茶色の粉を見つめながら、楽しそうに目を細めた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
面白かったら、ブックマークや評価をいただけると、執筆の励みになります。




