第1話:胸に灯る火
本作は『蝦夷転生コンサル』に登場する伊勢屋九兵衛を主人公としたスピンオフ作品です。
本編未読でもお楽しみいただけます。
宝暦十一年(一七六一年)晩春 蝦夷地・松前
松前、大店「伊勢屋」。
庭の青葉を渡る風が、ほんのりと潮の香りを運んでくる。
店の主人・九兵衛は、先ほど帰っていった漁師の徳蔵が置いていった小さな陶器の壺を、じっと見つめていた。
九兵衛は、一代で伊勢屋を松前有数の大店へ育て上げ、
遠く江戸にも店を構えるに至った叩き上げの商人である。
その眼光は鋭く、松前の海を渡る千石船の積荷の価値を、ひと目で看破すると言われていた。
一方の徳蔵は、二十年来この店へ昆布やナマコを納め続けてきた素朴な漁師だ。
商才こそないが、ごまかしを知らず、嘘をつかない男であった。
その徳蔵が、時化でもないのに漁を休み、神妙な面持ちで持ち込んできたもの——。
カニの身を油で煮て、陶器の壺に封じた珍味であった。
壺の蓋をあければ、透き通った黄金色の油に浸かった蟹の身が姿を現す。
一壺、一分。
九兵衛が自ら提示した買値であった。
「……我ながら、思い切った真似をしたものだ」
九兵衛は一人、小さく苦笑した。
米を何斗も買えるほどの大金を、手のひらに収まる程度の小さな壺一つに投げ打ったのだ。
長年九兵衛の脇を固めてきた番頭も渋い顔をしていた。
だが、不思議と高い買い物をしたとは思わなかった。
むしろ逆だ。
——安く買ってしまったのではないか。
そんな胸騒ぎすら覚えている。
九兵衛は再び箸を伸ばし、油をまとった蟹の身を一口含んだ。
美味い。
それは疑いようもない事実だ。
だが、単に「美味い」だけなら江戸の吉原や料理屋を探せばいくらでもある。
海山の珍味、諸国の銘菓、大名や豪商の食卓には、庶民が一生お目にかかれぬような品が溢れている。
この蟹の油煮も、ただ美味いだけならそうした「物珍しい贅沢品」の一つとして消えていくだけだ。
九兵衛が真に引っかかっているのは、そこではない。
「宗谷の若い衆、か……」
徳蔵が口にしていた言葉を反芻する。
村の若い者が思いついて作った。
しかも一度きりではない。
同じものを何度でも仕込めるという。
蟹など、この松前では珍しくもない。
嫌というほど海から揚がる。
漁師は捕り、喰えるところだけを喰い、身の詰まりが悪いものや殻は惜しげもなく捨てる。
少なくとも九兵衛の知る限り、そこに新たな値打ちを見出した者はいなかった。
ところが、宗谷の若い衆とやらは違った。
蟹の身を油で煮る。
それを壺に詰めて密封する。
たったそれだけの工夫で、昨日までゴミ同然だったものを、九兵衛に一分を出させる品へ変えてみせたのだ。
さらに恐ろしいのは、価値が生まれたのは蟹の身だけではないという点だ。
蟹の旨味が移った油そのものが、極上の調味料へと化けている。
一つの材料、一つの試みから、二重の価値を生み出している。
(……計算してやったのか? それとも偶然か?)
そこまでは分からない。
徳蔵自身、渡されたものを運んできただけに過ぎない様子だった。
単なる酔狂な思いつきかもしれない。
世の中には、まぐれで思いがけず良い品を作り出す者もいる。
だが、問題はその後だ。
一度ならず、二度、三度と「これまで無かった価値」を次々に生み出せるなら……話は変わってくる。
それができるなら本物だ。
九兵衛は静かに壺の蓋を閉めた。
「佐吉」
「はい」
廊下に控えていた手代が、音もなく障子を開けた。
「この壺を五つ、急ぎ江戸の店へ送れ」
「五つでございますか」
「そうだ。だが……店先には絶対に並べるなよ」
手代が首をかしげる。
誰にでも売ればいいというものではない。
珍しいものほど、最初に「誰の口に入ったか」で、その後の評判と値が決まる。
「料理屋に二つ。贔屓にしてくれている大店に一つ。
それから、あちらの店と懇意にしている旗本屋敷へ一つ。
残りの一つは江戸店に置け。客を選んで食わせろ」
「お値段は、いかほどで?」
「値を付けるな」
手代が目を丸くした。
「喰わせるだけで……ございますか?」
「そうだ」
九兵衛の口元が、ニヤリと歪んだ。
「喰わせて、飢えさせろ。……『いくら出せば買えるのだ』と相手から言わせるんだ」
それを食べた者がどう反応するか。
もう一度欲しいと乞うてくる者が何人いるか。
そして、どれほどの金を積んででも欲しがるか。
それを見極めてから、こちらが値段を決めればいい。
最初から値を付けて売りに出せば、それは単なる「商品」に成り下がる。
金さえ出せばいつでも買えるものなど、江戸の人間はすぐに飽きる。
それではつまらない。
「かしこまりました。ただちに手配いたします」
手代が足早に下り、再び静寂が戻った奥座敷で、九兵衛は文机の上の壺を見つめ直した。
一壺一分で買った。
これが江戸に渡り、二分になるか、一両になるか、あるいは誰にも理解されずに終わるか。
まだ何も分からない。
だからこそ、たまらなく面白かった。
松前に店を構えて数十年。
目の前にある品を見定め、危険を避け、手堅く利を積み上げてきた。
博打など愚かな戯け者のすることだ。
商いは運に任せるものではない。
話を集め、潮目を読み、勝てると踏んだ時にだけ金を出す。
それが「大店・伊勢屋九兵衛」の歩んできた道だった。
今回も同じだ。
まだ賭けてなどいない。
ほんの少し、餌を撒いて様子を見るだけだ。
宗谷の若い衆が、本当に新しい価値を次々と生み出せる男なのかどうか。
それを見極めるための、小さな試しに過ぎない。
「……さて」
もし、これが偶然ではなかったら。
もし、あの過酷な北の果てから、また誰も見たこともない品を引っ提げて現れたなら。
そして三度、四度と同じことを繰り返したなら。
そこまで考えて、九兵衛は思考を打ち切った。
(フッ……まだ早いな)
顔すら見たことのない若造だ。
正体も分からぬ相手との商いに、己が一生をかけて築いた伊勢屋の行く末を賭けるほど耄碌した覚えはない。
——それでも。
老いた胸の奥に、何十年ぶりかに灯った火だけは、どうしても消し去ることができなかった。
「宗谷の若い衆、か」
誰もいない部屋で、九兵衛はその言葉をもう一度噛みしめるように呟いた。
「次は……一体何を持ってくる?」
九兵衛は、楽しげに目を細めた。
この時の九兵衛は、まだ知る由もなかった。
やがて自ら江戸にもう一つ店を構える計画を取りやめ、そのために長年蓄えてきた大金まで、
この顔も知らぬ若者との商いへ注ぎ込むことになるなど。
そして、何より博打を嫌ってきた老商人が――
人生最初にして最後の大博打へ踏み出すことになるなど。
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