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伊勢屋九兵衛-最後の博打-  作者: 一月三日 五郎


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第10話:ぶちまけられた蟹

 宝暦十一年(一七六一年)仲冬 蝦夷地・松前


 松前、大店「伊勢屋」。


 翌朝。


 伊勢屋の店先には、異様な臭いが漂っていた。


「……なんだ、これは」


 暖簾を出しに表へ出た手代が、思わず鼻を押さえる。


 店の前に、蟹が散乱していた。


 一匹や二匹ではない。


 脚の折れたもの、甲羅の割れたもの、腹を上にして転がっているもの。

 中には腹が潰れ、生臭い汁を垂らしているものまで混じっている。

 道行く者も顔をしかめ、鼻を押さえて足早に通り過ぎていった。


「旦那様!」


 呼ばれて表へ出てきた九兵衛は、店先を見回した。


 眉がわずかに動く。


 だが、それだけだった。


「……片付けろ。

 こう臭くては商売にならん。

 表の土を薄く削って、ならしておけ」


「は、はい」


「水で流して誤魔化すなよ。

 店先が泥だらけになったら、余計ひどいことになる」


 それだけ言うと、九兵衛は踵を返した。


「父上!」


 背後から声が飛ぶ。


 平助だった。


 その隣では、小太郎も散乱した蟹を睨みつけている。


「これ、どう見ても嫌がらせでしょう!」


「ああ」


「『ああ』って……腹が立たないんですか!」


「なんだ、顔を真っ赤にして怒鳴り散らしたほうがいいのか?」


「いえ、そういう意味では……」


 九兵衛のからかうような物言いに、平助は口ごもった。


「ふん、お前の言いたいことはわかっている。

 だが、腹を立てて蟹が消えるか?」


「それは……」


「起きたことは仕方ない。

 怒ってもいいし、犯人を捜してもいい。

 だがその前に店先をきれいにしろ。

 話はそれからだ」


 平助は納得のいかない顔をした。


 だが、店先に漂う臭いには勝てなかったらしい。


「……小太郎、さっさと片づけるぞ」


「うえっ、鼻がひん曲がりそうだ」


「ぎゃあぎゃあ言うな!黙ってやれ!」


 二人も丁稚たちに混じって蟹を片付け始めた。


 九兵衛はその姿を眺めながら、目を細めた。


 昨夜の寄合が頭をよぎる。


 ――宗谷は村山が取り戻す。


 村山と揉めた翌朝にこれだ。

 偶然にしては、出来すぎている。


 とはいえ、それだけで理兵衛の仕業と決めつけるわけにもいかない。


 松前で伊勢屋を快く思わない者など、村山だけではなかった。

 昨日の村山との諍いを見ていた者が、村山に濡れ衣を着せようとした可能性もある。


 それに――。


(あの男が、こんな子供じみた真似をするか?

 周りの誰かが、勝手に気を利かせたと考える方が自然か)


 分からない。


 分からないなら、今は決めつけない方がいい。


 九兵衛は帳場へ戻った。


 その日の夕刻には、店先から臭いもほとんど消えていた。


 だが。


 翌朝。


「旦那様……」


 手代の情けない声に、九兵衛は顔をしかめた。


 せっかくならした地面には、また蟹が散乱していた。


「……暇な奴もいたもんだな」


「父上!」


 平助が拳を握った。


「今夜、俺が見張ります」


「やめておけ。

 下手人がどんな奴かも分からん。

 捕まえるためにお前が怪我をしたんじゃ話にならん」


「だからって、このままやられっぱなしですか!

 伊勢屋の名折れです!」


 その横から小太郎も口を挟んだ。


「僕も見張る」


「お前まで何を言ってる」


「毎朝掃除するのは嫌だ。

 せっかくきれいにしても、また汚されるんじゃ意味ないだろ。

 二人なら兄上がやられてる間に僕が助けを呼べる」


「なんで俺がやられる前提なんだ!」


「なんだよ!兄なら弟をかばって盾になれよ」


「誰がなるか!お前を盾にしてやる。

 兄をかばって討たれれば本望だろう」


「なんだと!」


「なんだ!」


「……まったく、お前たちは仲がいいんだか悪いんだか」


 言い争ってはいるが、どちらも引く気はないらしい。


 九兵衛は二人を交互に見た。

 平助は明らかに頭に血が上っている。

 小太郎も兄にあてられたのか、すっかりその気になっていた。


「仕方ない。

 このままにしておくわけにいかないのも確かだ。

 ただし、見張るだけだ。追うな。捕まえようとするな。

 相手の人数と風体が分かればそれでいい」


「「はい」」


 二人の声が揃った。


「よし……じゃあ、蟹を片付けてしまえ」


「はい!じゃあ兄上、蟹を拾ってよ。

 僕は土をかぶせるから」


「なんで俺が臭い方なんだよ!」


「臭いのは嫌なんだ」


「ぶっ飛ばすぞ!」


「……本当に分かってるんだろうな」


 ……どうにも心配だった。


 *****


 その夜。


 伊勢屋の灯りが落ちてから、かなりの時が過ぎた。


 表通りから人の気配が消える。


 風が戸板を鳴らし、ときおり遠くで犬が吠えた。


「……寒い」


 小太郎が膝を抱えた。


「お前がやるって言ったんだろ」


「兄上だって震えてるじゃないか」


「……武者震いだ」


「下手な嘘だ。お侍でもあるまいし、やせ我慢してどうするんだよ」


「うるさい。

 俺はお前みたいにすぐ弱音を吐かん」


「でも震えてるじゃないか。

 兄上って昔から見栄っ張りだよな」


「いいから黙れ、下手人に気づかれるだろ」


 結局、二人とも震えていた。


 それでも母屋に入ろうとはしなかった。


 やがて――。


 静まりかえった夜道の向こうに、人影が現れた。


 影は徐々に大きくなり店先で止まった。


 平助が小太郎を見る。


 小太郎も頷いた。


 二人は息を潜めた。


 月明かりの下に、その姿が浮かび上がった。


 大人ではない。


 子供だ。


 背中に籠を背負っている。


 辺りを何度も見回しながら店の前に籠を置き、何かを取り出した。


 蟹だった。


 地面へ置こうとした瞬間。


「今だ!」


「うわっ!」


 平助が飛び出した。


 少年が籠を置いて逃げる。


 だが、逃げた先には小太郎がいた。


「ここは通さない!」


「うっ――」


 思わず引き返そうとした少年に、平助が立ちふさがった。

 あっという間に少年の腕を後ろにひねり上げた。


「逃がさんぞ、この悪ガキめ!」


「いてえっ!離せ!俺が何をしたってんだ」


「暴れるな!

 うちの店先に腐った蟹を捨てようとしてたのを、ちゃんと見てたんだからな!」


 逃げようと暴れる少年を、平助は地面に引き倒して押さえつけた。


「このまま役人に突き出してやる。覚悟しろよ」


「勘弁してくれ!脅されてしかたなかったんだ。

 俺だってやりたくてやったんじゃない」


「何だと!?誰にだ?村山か!」


「そ、それは……」


 問い詰めようとした矢先、それを遮るように低い声が飛んだ。


「何をやっている、平助。

 見張るだけだと言ったはずだが……」


「ち、父上、これは――」


 九兵衛の後ろには、痛そうに頭を押さえる小太郎の姿があった。

 どうやらすでに拳骨をもらったらしい。


「話はあとだ。

 近所迷惑だからその子供を連れて中に入りなさい。

 お前も大人しくついてこい。

 逃げようとすれば、こちらにも考えがある」


「は、はい……」


 少年はびくりと肩を震わせ、それ以上抵抗しなかった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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