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薄氷の恋 ――不倫した妻と僕を結ぶものは、罪悪感という名の感情、ただひとつ――  作者: 書峰颯


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第8話

「悠君、お帰りなさい」


 花桐さんと支援先で一緒になる約束をした日の夜、家に帰ると、ユリカは昔のような笑みをたずさえたまま僕を出迎えた。


 エプロン姿で僕の前まで来ると、彼女は若干俯きながら、上目遣いで僕へと懇願した。


「……ねぇ、ぎゅーしても、いい?」


 結婚してすぐの頃なら、ユリカの甘えは大歓迎だっただろう。でも今はもう、そういうのを受け入れることは出来ない。


 甘えるなら学徒という男とすればいい。

 なぜ今になって僕へと擦り寄るのか。


 ふと、巻島の言葉が脳裏をよぎる。


『もしかしたら嫁さん、浮気相手と上手くいってないのかもしれないな。もしそうなら悠全にも捨てられてちまうと、嫁さんは完全に一人になっちまう。既に三十代、再婚するにしても時間も金も掛かるし、後は単純に、悠全とは別れたくないんだろうな。つまり、以前から言っている通り、浮気なんざ遊びの範疇の出来事でしかないってことさ』


 だからユリカと寄りを戻せと?

 そんなこと、出来るはずがない。

 

 今は反省しているのかもしれないけれど、同じ過ちを繰り返すのが人間ってもんだ。また同じことをされてしまっては、僕の精神が持たない。というか、既にもう限界だったからこそマッチングアプリなんてものを利用したんだ。


「ごめん、疲れてるから」


「……そう、だよね。ごめんなさい」


 世の中には遊びで許されないこともある。

 僕はユリカを、絶対に許すことは出来ない。


 それともうひとつ。

 これは花桐さんが言っていたことだけど。


『もしかしたら奥様、妊娠したのかもしれませんね。今なら悠全さんと一回でも肌を重ねれば、それで妊娠したって言い張れるから。なんとしても、一度だけで良いから肌を重ねたいのかも』


 本人に聞いた訳ではないのだけれど、その方がユリカらしいと思えてしまう。どこまでも自己中心的な考え方で、僕のことなんか微塵も考えていない、最低な物の考え方だ。


 カッコウじゃあるまいし。

 誰が托卵なんか了承するよ。


「今日から僕、ソファで寝るから」


 もしユリカが学徒とかいう男との間に子供が出来て、それを僕の子だと言い張る為に身体を重ねようとするのであれば、夜這いを警戒した方がいい。


 元々ベッドは別々なのだから、自分の分だけを移動させればそれで終わる。幸い、家のソファはカウチ型だ。布団を敷けば即席で寝床が完成する。


 寝心地が悪くても、それも支援の日まで。


 それ以降は僕だけの家での生活が始まるのだから、この息苦しい家ともおさらば出来る。


 それに三日間だけとはいえ、花桐さんも一緒だ。


 ユリカがもし探偵を雇っていたとしても、僕の支援先まで突き止めることは難しいだろう。三日間という期間限定の同棲生活は、そういう面から見ても、非常に優れている提案とも言える。


 そしてその三日の間に。

 僕は、花桐さんの本名を聞くんだ。


 教えてもらえなかった場合、それはもう、完全に僕は遊ばれていた、と考えた方が良いだろう。


 でも、だとしても。

 

 僕はきっと、花桐さんを憎むことは出来ない。

 だって、彼女は最初に本音を語っている。

 全てがイミテーションなのだと。

 

 多分、笑いながら言うんだろうな。


 口元に手を当て、くすくすと笑い、騙されていた僕をあざけるような態度を取りながらも、けれども嫌味のない口調できっと言うんだ。


 最初に伝えたでしょ? って。


 そんなのでも、彼女の笑顔を想像するだけで、僕の表情に笑顔が戻る。どれだけ惚れてるんだよって、自嘲的な笑みがこぼれてしまうよ。


 それに、たとえ嘘だったとしても。


 僕がユリカとの関係を変えられるキッカケになったことは事実なのだから、やっぱり僕は花桐さんを恨むことは、出来そうにない。


 ……泣いちゃうだろうけどね。


 そんな、喜怒哀楽な未来を考えていると。


「悠君」


 パジャマ姿のユリカが、僕の前に立っていた。


 いつかの様にいきなりの裸、という訳ではないらしい。それでも以前とは違い、長い髪はピンク色のシュシュでまとめられているし、ほのかに化粧水の臭いも漂ってくる。


 ちょっとだけ余所行き。

 そんな感じだ。


「一緒に寝ても、いい?」


「……なんで?」


「寂しいから」


 こっちの演技に関しては、全くもって笑顔を作れそうにない。これまでの塩対応は一体なんだったんだよって突っぱねたくなるけど、自制心がそれを止めた。


 ユリカの心変わりの背景が全く分からない以上、僕から下手に手出しする訳にはいかない。


 手を出したが最後、部屋の中に隠されている監視カメラとかで記録されていたら、間違いなく僕だけが悪になる。


 浮気し、妻に暴力を振るう。

 最低な夫の出来上がりだ。


 ……。


 ふと、あることに気づく。

 監視カメラ、か。


 僕が単身赴任している間、監視カメラを仕掛けるのも悪くはないな。隔週なんだ、一週間でその成果を確認することが出来る。


 もしそこに学徒とかいいう男の姿を映像に残せようものなら、それは最強の武器へと変わる。


 どんな思惑がユリカにあろうとも、映像に残してしまえば言い逃れは出来ない。


「ねぇ、悠君」


「ん? ああ、いいよ、おいで」


「……うん」


 もぞもぞと入り込んできたユリカを受け入れると、彼女は僕の左腕を枕にし、ぴっとりとくっついてきた。


 鼻につく臭いは、いつかのようなラブホテルの臭いではない。家に置いてある、ユリカ専用のコンディショナーの臭いだ。


 今日は学徒とセックスしてないんだな。


 そんなことを考えながら、僕は眠らずに、部屋のどこに監視カメラをセットするべきかを、一人思考を巡らせ続けた。


 数日後、単身赴任当日。


 いつものように家を出た僕は、新幹線のホーム改札前にて巻島と待ち合わせをした。僕の支社から支援に向かうのは、僕と巻島の二人のみ。


 気遣いのいらない相手との長時間の移動は、ある意味、花桐さんよりも気楽で良い。


「悠全、待たせたな」


「ああ、いや、僕も今来たとこ……」


 巻島の顔を見た途端、「ふぁ〜」と大あくびが出てしまった。 


「なんだよ、昨日はお盛んだったのか?」

 

 僕とユリカの事情を知っているくせに、何を言っているんだか。連続しそうになるあくびを噛み殺し、涙目のまま巻島を軽く睨む。


「そんな訳ないだろ。アイツよりも先に寝る訳にはいかないからね。最近、毎日ずっと寝不足だよ」


 僕がソファで寝るようにしてから、ユリカも毎晩くっついてくるようになってしまった。これなら普段通りベッドで寝ていた方が良かったまである。


「嫁さんをアイツ呼ばわりとは、ついに極まってきた感じだな」


「まぁ、そうだろうね」


「それで? 結局、離婚の話は?」


「最近は全く。支援の話もあったからね、今は無駄に争うよりも、静かにしいていた方が得策かと思ってさ」


 それに、静かにしていないと、せっかく設置した監視カメラがユリカにバレるかもしれないしね。


 わざわざ有給を使って家にカメラを仕込んだんだ。電源確保の為に棚裏のコンセントも使ったし、あの労力を報わせさせる為にも、今は静観が吉だ。


 学徒とか言う男を映像に収められれば、それで良し。後は僕と花桐さんの将来の為、せいぜい円満離婚の糧として、消費させて貰うとするさ。


「なんだか、嬉しそうだな?」


「いや、別に?」


「まさかお前、花桐さんを家に呼んだ、とかじゃないだろうな? 支援に来るのは俺達だけじゃないんだぜ? 下手なことするとどこからバレるか分からないんだから、気をつけろよ?」


「ご忠告ありがとう、そんなヘマはしないよ」


 巻島の言う通り、花桐さんを会社が用意したアパートに連れて来るのは危険過ぎる。壁も薄いし、何より、隣に住まうのが巻島を始めとしたウチの会社連中ばかりなのだから、いずれユリカにバレる。


 なので、花桐さんに関しては僕が手配したホテルに滞在してもらうことにした。二泊三日、悠々自適な時間を過ごしてくれればと思う。


「とにかく、少しだけ寝るから」


 やることはやった。

 後は、果報は寝て待てだ。


 どうか、この支援の間に、ユリカが家に学徒を呼んでくれますように。


 ……ふふふっ。


 少し前まではユリカの浮気をあんなにも憎んでいたのに、今や逆に、それを望むことになるなんてな。人生、なにがあるか分からないもんだ。





————

多数の感想ありがとうございます。


前作同様、作品の雰囲気を壊さない為、返信は完結後に行う予定ですので、少々お時間を頂ければと想います。

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