表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
薄氷の恋 ――不倫した妻と僕を結ぶものは、罪悪感という名の感情、ただひとつ――  作者: 書峰颯


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/35

第6話

「悠君、話があるんだけど」


 腰に手をあて不満を顕にした顔のまま、ユリカは僕へと改まっての会話を申し込んできた。


 ついにその時が来たかと、僕はひとり身構える。

 

 必要以上に物がないリビング、まるでモデルハウスみたいに設置された椅子へと腰掛けると、ユリカは僕の前に座った。


 服装はスウェットの上下、お化粧もしていないし、髪だって最低限に整えただけ。


 昔は僕と会う時だって小綺麗にしてくれたのに、今はすっぴんが当たり前、お前なんかの為に努力なんかしたくないんだよ。


 そんな心の声が聞こえてくる。


 日曜日の出来事から、既に二週間が経過した。


 その間、僕と花桐さんは一度もデートをしていないし、メッセージアプリであるLimeでのやり取りすらしていない。


 念の為にと、会話のやり取りも全て削除したし、マッチングアプリも退会処理をした。連絡ツールであるLimeの機能により、花桐さんの連絡先はシークレット、通知、表示無しの状態にしてある。


 尾行され写真を撮られていたとしても、会社の同僚とか、昔馴染みとか、その場で出会っただけの人とか、いくらでも言い訳が可能だ。


 偽装工作に巻島も付き合ってくれると言ってくれている。その場限りの演技なら花桐さんだって我慢してくれるはずだ。


 などと。


 頭の中で言い訳を並び立ててしまう辺り、僕は罪悪感を感じているのだろうね。


 僕は悪くない。


 いくらそれを考えたところで、僕は既にユリカと同じ土俵に上がっている。逃げられると思っている方が間違いだろうし、そもそも勝ち負けなんかあるとは思えない。


 離婚に勝ち負けなんかあるかよ。

 ずっと、そんなことを考えてしまう。


「……悠君」


「うん」


 覚悟を決めろ。

 その日が今日になっただけだ。


 だから、目をそらさず。

 僕は自分の妻、ユリカを見るために、顔を上げた。 

 

 日当たりの良いこの部屋は、カーテンを開けていると、それだけで彼女の顔が明るく照らされるんだ。


 少し青がかった髪、その先にある表情は、僕の予想とは違っていた。


「その……この前は、ごめんなさい」


 申し訳なさげに謝罪する。

 まさかのことに、僕の声も詰まる。


「最近、ちょっと仕事でトラブルがあってね。本当は悠君と一緒に楽しい時間を過ごそうと思っていたのに、あんな風に一人でいなくいなるとか……妻として最低だよね。本当にごめんなさい」


 深く頭を下げた後、ゆっくりと元に戻る。


 そこにある表情は昔のような、少しだけ口元を緩めて微笑む、ユリカがいた。

 

「でも、悠君も悪いんだよ? 私の作った料理全然食べてくれないし。他に好きな人でも出来たのかなって、思っちゃうよね」


 心臓が、強めに動く。

 他に好きな人でも出来たのかな。


 なぜ、疑問形なんだ。


 分かってて言葉にしているんじゃないのか?

 君に学徒がいるように、僕には花桐さんがいる。

 

 喉元まで出かかっているこの言葉を、出すことが出来ない。喉が詰まって、出そうとして口を開いても言葉にならない。


 全てを明かしてしまえばユリカとの生活は終わり、花桐さんとの生活が始まるだけなはずなのに。


「それと……もう、何年もレスだったじゃない?」


 言いながら、スウェットの上を脱ぎ、彼女は自らの下着を外した。上半身だけ裸になり、そのままの姿のまま僕のことを見つめる。


 彼女のスタイルの良さは、既に知っている。


 窮屈な下着が無くなったのに、それでもユリカの胸は形を保ったまま。普段ご飯を食べる場所、そこに胸を(さら)け出したユリカがいる。


 彼女が肩に掛かる髪を手でかき上げると、ユリカの筋の通った鎖骨があらわになった。


 触れなくても分かる肌触りの良い光沢のある肌、くびれた腰つきをより艶めかしく、見せつけるようにユリカはくねらせる。 


 非日常。

 だけど、僕はそこに恐怖を覚える。

 

「いろいろと考えたんだけど、悠君と結婚したのってやっぱり嘘じゃないし、心の底から愛しているからこそ私たち結婚したんだよね。覚えてる? 結婚式で私のお父さんが泣いてたの。最初は猛反対だったのを、悠君が土下座までして説得してくれてさ」


 立ち上がり僕の側に来ると、ユリカは下も脱ぎ始めた。


 スウェットの下を脱ぎ、穿いていたショーツを脱ぐと、ユリカはそれらを軽く畳み、テーブルへと置く。


 ユリカの性格なんだ。

 適当に衣服を脱ぎ散らかすことが出来ない。


『え? なんでエッチの前に着ていた服を畳むのか? だって、シワとか気にならない? それに、大好きな悠君に汚いところとか見せたくないし』


 結婚前、まだ彼氏彼女だった頃の会話。


 この会話の後、ユリカは僕へとせまり、情愛に火照った身体のまま、僕達は何度も愛し合ったんだ。


 誰にも奪われたくなかった。

 誰にも汚されたくなかった。


 子宝こそ恵まれていないけれど、それでもユリカと一生一緒にいる、そのつもりでいたのに。


「私と一緒になるために頭を下げてくれる人がいるんだって、あの時は心の底から嬉しかったの。悠君にはもう何度も話をしたと思うけど、悠君の前にも付き合ってる人がいてね。でも、その人は私を最後まで守ってくれなかった。悠君だけが、私を最後まで守ってくれる人。だから、私は結婚したんだよ」


 今のユリカは、昔のユリカじゃない。

 

 僕と出会う前のユリカがどこで何をしていようが、僕には関係ない。それはいい、彼女の人生だ。例え何十、何百、何千という男がユリカを抱いていようが、それは我慢出来る。


 でも、今のユリカは違う。


 僕と出会った後、恋愛し、結婚した後、他の男に抱かれてしまっている。これは決定的に違う。断じて許せるものじゃないし、受け入れられるものじゃない。ユリカが僕を裏切らなければ、僕だってユリカを裏切らなかったんだ。


 今の僕も、もう昔の僕じゃない。


 悔しくて、悲しくて、虚しくて。


 それらの感情が()い交ぜになり、涙となって溢れ出る。喉元が震える。声にならない声のまま、僕は変わってしまった彼女の名を呼んだ。


「ユリカ」


「悠君……泣いてるの?」


 愛していた。 

 誰よりも。


 喉の奥が燃えるように熱い、それでも、楔のように打ち付けられて出せなかった言葉を、震える唇から振り絞るようにして吐き出す。


「離婚しよう」


 これを伝えたら終わる。

 だから、出せなかった言葉。


 カッチコッチと、時計の針の音が室内に響く。

 一秒が何時間にも感じられる。

 それぐらい、長い、静寂の時間。


 視線を落とすと、そこには椅子と床だけが見えた。ユリカのいない景色、彼女を視界に捉え続けられるほど、今の僕には余裕がない。


 見たら情を残してしまう可能性がある。

 だから、見ない。

 僕の世界から、彼女を消す。

 それが、僕にとっての、一番の幸せなんだ。


(言葉に出来た)


 手で涙を拭い、自らを褒める。

 これで、彼女との生活は終わりを迎える。

 お互い新しいパートナーと共に、次を歩くんだ。


 これでいい。

 これで、終わりでいい。


「……ダメだよ」


 これで、終わって良かったのに。


 膝上に乗せた僕の右手に、ユリカが自らの左手を重ねてきた。やわらかい胸を添わせながら、ユリカは僕の頬へと唇を当ててくる。空いていた右手で僕の後頭部へと手を添えると、自らの胸の中へと包み込むようにし、彼女は抱きついてきた。


「悠君を誰にも奪わせない、悠君は私のものなの、絶対に、誰にも渡さない」


「ユリカ、やめて」


「やめない、世界で一番好きな人だから、愛しているから、絶対にやめない。私のどこが嫌いになったの? 今でも私の中じゃ悠君が一番だよ?」


 なんでそんなことが言えるんだ。

 だったら学徒の存在は一体なんなんだ。


 離婚の意思を伝えたのに、そこだけは言葉に出すことが出来ずにいる。


 残された理性。


 学徒の名前を出すと、花桐さんのことがユリカの口から出てくる可能性がある。彼女に迷惑を掛ける訳にはいかない、だから、聞かない。


 何を期待しているのか。

 何を、期待されているのか。


「ユリカ」


「悠君」


「君は、嘘つきだ」


 こんなユリカを、僕は知りたくなかった。


 僕の知っているユリカは、大学の頃、出会った時から何ひとつ変わらない。


 笑顔が素敵で、性別問わず人気者で、それなのに僕だけに特別で、優しくて、可愛くて、泣き虫で、怒りっぽくって、自分勝手で、だけど最後には甘えてくる、僕だけの大切な人だったのに。


「もう一度言うよ、ユリカ」


 君は変わってしまった。

 だから僕も、変わらざるを得ないんだ。


「僕達はもう、離婚した方がいい」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
あーこの感覚 メンヘラ彼女中盤の頃を思い出しますね… いや、一番大事なとこをちゃんと言えよ!っていうじれったさ 書峰さんの味だなあ〜って
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ