第6話
「悠君、話があるんだけど」
腰に手をあて不満を顕にした顔のまま、ユリカは僕へと改まっての会話を申し込んできた。
ついにその時が来たかと、僕はひとり身構える。
必要以上に物がないリビング、まるでモデルハウスみたいに設置された椅子へと腰掛けると、ユリカは僕の前に座った。
服装はスウェットの上下、お化粧もしていないし、髪だって最低限に整えただけ。
昔は僕と会う時だって小綺麗にしてくれたのに、今はすっぴんが当たり前、お前なんかの為に努力なんかしたくないんだよ。
そんな心の声が聞こえてくる。
日曜日の出来事から、既に二週間が経過した。
その間、僕と花桐さんは一度もデートをしていないし、メッセージアプリであるLimeでのやり取りすらしていない。
念の為にと、会話のやり取りも全て削除したし、マッチングアプリも退会処理をした。連絡ツールであるLimeの機能により、花桐さんの連絡先はシークレット、通知、表示無しの状態にしてある。
尾行され写真を撮られていたとしても、会社の同僚とか、昔馴染みとか、その場で出会っただけの人とか、いくらでも言い訳が可能だ。
偽装工作に巻島も付き合ってくれると言ってくれている。その場限りの演技なら花桐さんだって我慢してくれるはずだ。
などと。
頭の中で言い訳を並び立ててしまう辺り、僕は罪悪感を感じているのだろうね。
僕は悪くない。
いくらそれを考えたところで、僕は既にユリカと同じ土俵に上がっている。逃げられると思っている方が間違いだろうし、そもそも勝ち負けなんかあるとは思えない。
離婚に勝ち負けなんかあるかよ。
ずっと、そんなことを考えてしまう。
「……悠君」
「うん」
覚悟を決めろ。
その日が今日になっただけだ。
だから、目をそらさず。
僕は自分の妻、ユリカを見るために、顔を上げた。
日当たりの良いこの部屋は、カーテンを開けていると、それだけで彼女の顔が明るく照らされるんだ。
少し青がかった髪、その先にある表情は、僕の予想とは違っていた。
「その……この前は、ごめんなさい」
申し訳なさげに謝罪する。
まさかのことに、僕の声も詰まる。
「最近、ちょっと仕事でトラブルがあってね。本当は悠君と一緒に楽しい時間を過ごそうと思っていたのに、あんな風に一人でいなくいなるとか……妻として最低だよね。本当にごめんなさい」
深く頭を下げた後、ゆっくりと元に戻る。
そこにある表情は昔のような、少しだけ口元を緩めて微笑む、ユリカがいた。
「でも、悠君も悪いんだよ? 私の作った料理全然食べてくれないし。他に好きな人でも出来たのかなって、思っちゃうよね」
心臓が、強めに動く。
他に好きな人でも出来たのかな。
なぜ、疑問形なんだ。
分かってて言葉にしているんじゃないのか?
君に学徒がいるように、僕には花桐さんがいる。
喉元まで出かかっているこの言葉を、出すことが出来ない。喉が詰まって、出そうとして口を開いても言葉にならない。
全てを明かしてしまえばユリカとの生活は終わり、花桐さんとの生活が始まるだけなはずなのに。
「それと……もう、何年もレスだったじゃない?」
言いながら、スウェットの上を脱ぎ、彼女は自らの下着を外した。上半身だけ裸になり、そのままの姿のまま僕のことを見つめる。
彼女のスタイルの良さは、既に知っている。
窮屈な下着が無くなったのに、それでもユリカの胸は形を保ったまま。普段ご飯を食べる場所、そこに胸を曝け出したユリカがいる。
彼女が肩に掛かる髪を手でかき上げると、ユリカの筋の通った鎖骨があらわになった。
触れなくても分かる肌触りの良い光沢のある肌、くびれた腰つきをより艶めかしく、見せつけるようにユリカはくねらせる。
非日常。
だけど、僕はそこに恐怖を覚える。
「いろいろと考えたんだけど、悠君と結婚したのってやっぱり嘘じゃないし、心の底から愛しているからこそ私たち結婚したんだよね。覚えてる? 結婚式で私のお父さんが泣いてたの。最初は猛反対だったのを、悠君が土下座までして説得してくれてさ」
立ち上がり僕の側に来ると、ユリカは下も脱ぎ始めた。
スウェットの下を脱ぎ、穿いていたショーツを脱ぐと、ユリカはそれらを軽く畳み、テーブルへと置く。
ユリカの性格なんだ。
適当に衣服を脱ぎ散らかすことが出来ない。
『え? なんでエッチの前に着ていた服を畳むのか? だって、シワとか気にならない? それに、大好きな悠君に汚いところとか見せたくないし』
結婚前、まだ彼氏彼女だった頃の会話。
この会話の後、ユリカは僕へとせまり、情愛に火照った身体のまま、僕達は何度も愛し合ったんだ。
誰にも奪われたくなかった。
誰にも汚されたくなかった。
子宝こそ恵まれていないけれど、それでもユリカと一生一緒にいる、そのつもりでいたのに。
「私と一緒になるために頭を下げてくれる人がいるんだって、あの時は心の底から嬉しかったの。悠君にはもう何度も話をしたと思うけど、悠君の前にも付き合ってる人がいてね。でも、その人は私を最後まで守ってくれなかった。悠君だけが、私を最後まで守ってくれる人。だから、私は結婚したんだよ」
今のユリカは、昔のユリカじゃない。
僕と出会う前のユリカがどこで何をしていようが、僕には関係ない。それはいい、彼女の人生だ。例え何十、何百、何千という男がユリカを抱いていようが、それは我慢出来る。
でも、今のユリカは違う。
僕と出会った後、恋愛し、結婚した後、他の男に抱かれてしまっている。これは決定的に違う。断じて許せるものじゃないし、受け入れられるものじゃない。ユリカが僕を裏切らなければ、僕だってユリカを裏切らなかったんだ。
今の僕も、もう昔の僕じゃない。
悔しくて、悲しくて、虚しくて。
それらの感情が綯い交ぜになり、涙となって溢れ出る。喉元が震える。声にならない声のまま、僕は変わってしまった彼女の名を呼んだ。
「ユリカ」
「悠君……泣いてるの?」
愛していた。
誰よりも。
喉の奥が燃えるように熱い、それでも、楔のように打ち付けられて出せなかった言葉を、震える唇から振り絞るようにして吐き出す。
「離婚しよう」
これを伝えたら終わる。
だから、出せなかった言葉。
カッチコッチと、時計の針の音が室内に響く。
一秒が何時間にも感じられる。
それぐらい、長い、静寂の時間。
視線を落とすと、そこには椅子と床だけが見えた。ユリカのいない景色、彼女を視界に捉え続けられるほど、今の僕には余裕がない。
見たら情を残してしまう可能性がある。
だから、見ない。
僕の世界から、彼女を消す。
それが、僕にとっての、一番の幸せなんだ。
(言葉に出来た)
手で涙を拭い、自らを褒める。
これで、彼女との生活は終わりを迎える。
お互い新しいパートナーと共に、次を歩くんだ。
これでいい。
これで、終わりでいい。
「……ダメだよ」
これで、終わって良かったのに。
膝上に乗せた僕の右手に、ユリカが自らの左手を重ねてきた。やわらかい胸を添わせながら、ユリカは僕の頬へと唇を当ててくる。空いていた右手で僕の後頭部へと手を添えると、自らの胸の中へと包み込むようにし、彼女は抱きついてきた。
「悠君を誰にも奪わせない、悠君は私のものなの、絶対に、誰にも渡さない」
「ユリカ、やめて」
「やめない、世界で一番好きな人だから、愛しているから、絶対にやめない。私のどこが嫌いになったの? 今でも私の中じゃ悠君が一番だよ?」
なんでそんなことが言えるんだ。
だったら学徒の存在は一体なんなんだ。
離婚の意思を伝えたのに、そこだけは言葉に出すことが出来ずにいる。
残された理性。
学徒の名前を出すと、花桐さんのことがユリカの口から出てくる可能性がある。彼女に迷惑を掛ける訳にはいかない、だから、聞かない。
何を期待しているのか。
何を、期待されているのか。
「ユリカ」
「悠君」
「君は、嘘つきだ」
こんなユリカを、僕は知りたくなかった。
僕の知っているユリカは、大学の頃、出会った時から何ひとつ変わらない。
笑顔が素敵で、性別問わず人気者で、それなのに僕だけに特別で、優しくて、可愛くて、泣き虫で、怒りっぽくって、自分勝手で、だけど最後には甘えてくる、僕だけの大切な人だったのに。
「もう一度言うよ、ユリカ」
君は変わってしまった。
だから僕も、変わらざるを得ないんだ。
「僕達はもう、離婚した方がいい」




