第20話
「戻りました」
連絡から二十分程で、彼は現れた。
ロングのダウンジャケットコートを羽織った頬のこけた男性は、室内にいる面々を一通りなぞるように眺めたあと、コートを脱ぎ頭を下げる。
花桐哲臣。
マヤの旦那であり、カナミさんの不倫相手。
正直、僕は今この家にいる人物の中で、この人の考え方だけは理解出来ていない。
マヤを捨ててまで彼女の妹に手を出す理由なんて、この世に存在するとは思えないんだ。
「初めまして、有堂悠全と申します」
だから、頭を下げる彼へと、僕は先手を打った。
それはきっと、怒りにも似た感情からの行動。
「僕は現在、マヤさんと交際関係にあります」
「……そうですか」
低い声、口ひげを生やした彼の風体は、どこか世捨て人な感じだ。髪も長く手入れもされていない、所々跳ねた髪が肩口まで伸びている。
やせ細った、そして意思の弱い人間。
第一印象はそんなところだ。
そんな彼の手を、不倫相手であるカナミさんが握る。
「でもねてっちゃん、この人既婚者なんだよ? 昨日奥さんがウチに来てマヤちゃんと別れるよう、てっちゃんからも言ってくれって、アタシ頭下げられちゃったんだから」
「……そうなのかい?」
彼の窪んだ瞳が、僕を見る。
瞳に宿る感情は蔑みだろうか? そんな感情を向けられるような人生を、僕は歩んではいない。
お前とは違う。
一方的に裏切ったお前とは違うんだよ。
「お恥ずかしながら、カナミさんの言ったことは本当です。しかし、僕の妻も不貞を働きました。不貞を働いた彼女とは一緒にいられません。僕は既に彼女へと離婚を告げています。今回の行動は、僕との離婚を阻止する為に動いたものでしょう。この件に関しては謝罪いたします。ご迷惑をお掛けしてしまい、誠に申し訳ありませんでした」
離婚を告げたとはいえ、未だ僕とユリカは夫婦の関係のまま。彼女の暴走はそのまま僕の不手際だ、そこは謝罪する。
謝罪するのと同時に、僕はこの場で、もうひとつのことを決定付けたいと考えている。
「花桐さん……失礼ですが、マヤとの離婚はいつ成立なさるのでしょうか?」
恋愛を愛する女。
姉妹の夫を寝取る女。
その誘いに乗った男。
こんな異常な環境から一秒でも早く抜け出して、僕はマヤと一緒になりたい。
「貴方との離婚成立次第、僕は彼女と籍を入れたいと考えています」
「まぁ、少し落ち着いて下さい」
「落ち着くって」
「そもそも、カナミが語っている内容が間違っています」
カナミさんが語っている内容が間違っている?
言うと、彼はその場へと座り込んだ。
ベキベキと、床に放置されたままのゴミが音を立てる。
「ユリカさん……でしたっけ? 彼女は俺のところにも現れました。そして彼女はこう言いました。マヤとは離婚しないで欲しい、と」
「……離婚しないで欲しい?」
「ええ、それが結果的に、貴方と彼女の繋がりを保持することになりますからね。夫を愛する一途な奥様だ。とても可愛らしいとさえ思える」
「そう思うのなら、どうぞ手を出して貰っても結構ですよ」
「ははっ、さすがに、そこまで節操のない男じゃありませんよ」
なぜ、この場で笑うことが出来るんだ。
仕草のひとつひとつが癪に障る。
それに節操のない男ではない? マヤの妹を抱いておきながら、一体どの口がほざくんだか。
「哲臣さん」
流石のマヤも黙ってはいなかったのだろう。
僕の手を握りしめたまま、彼女も口を開いた。
「……なんだい?」
「彼の問いに応えて下さい。既に離婚届はお渡ししました。貴方と争うつもりは微塵もありません。このまま離婚届けを提出して下さい。どうか、宜しくお願いします」
言うと、マヤは三つ指を揃え、頭を下げた。
マヤは僕という存在を隠し続けていた。
その理由は述べるまでもない。
「宜しく、お願いします」
マヤの横に座り、僕も両膝を床に付け、頭を下げる。
まるでご両親へと〝娘さんを僕に下さい〟と言っているみたいな状況、それに彼に頭を下げるといったことがどれだけマヤにとって屈辱的なことか。
でも、どんな困難でも、二人なら越えられる。
どんな障害でも、僕とマヤの二人なら。
「頭を上げて下さい……もとより、そのつもりでしたよ。そうだマヤ、君は俺たちに隠していたことがあったよね?」
マヤが隠していたこと?
僕は顔を上げるも、隣にいるマヤは頭を下げたまま。
「マヤだけじゃない、春雪君、君も隠していたことがあったよね? それが原因でカナミは暴走してしまったこと、君たちなら理解出来ると思うんだけど?」
マヤと春雪さんが隠していたこと?
それが原因でカナミさんが暴走?
「どうやら、二人とも喋らないみたいだね。そこの有堂さんと言ったかな。君はマヤと春雪君について、何か聞いているかい?」
「……いえ、何も」
「そうか……どうするマヤ? 君の口から語るかい? 君たちは夫婦になるんだろう? 隠し事は無い方が、俺は良いと思うんだけど?」
黙っていたマヤは、僕を見た後、コクリと頷く。
信じて欲しい、そう、言っている気がした。
「ゼン君……」
「うん」
「私と春雪さんは……その、以前、お付き合いしていた時期が少しだけ、ありました」
なんだそれ、初耳なんだけど。
「でも、それも数年前の話、互いにまだ学生だった頃の話ですから、今はもう、何の関係もありません」
「でもお姉ちゃんはそのことをアタシに言わなかった」
カナミさん、目が座ってる。
「言う必要が無いと思ったのよ。だって、言ってどうするの? 二人の結婚を祝う場所で、この人が私の元彼ですなんて、口が裂けても言えないわよ」
「それでも言って欲しかった。片親で生活が苦しいのは分かってたけどさ、ずっとアタシ、お姉ちゃんのお下がりで生きてきたんだよね。洋服もバッグも、何もかも。まさか結婚相手までお姉ちゃんのお下がりだったとか、最悪だと思わない?」
「でも、それだけでしょ? 貴方の結婚相手が私の元彼ってだけで、私の婚約者まで寝取ることってある? そんなの普通じゃないでしょ?」
「そうだよ、普通じゃないんだよ」
雰囲気が変わる。
一触即発の状態。
「普通じゃないから、普通じゃない方法で仕返しをしたの。別にアタシだって、てっちゃんの事なんか好きじゃないよ。でもお姉ちゃんの結婚相手だから無理に寝取った。もしお姉ちゃんが有堂さんと再婚するのなら、アタシは有堂さんとだって寝るよ」
「なんで、そんな」
「お姉ちゃんには分からないんだよ! ずっと比べられて、優秀なお姉ちゃんにアタシは何も敵わなくて! ようやく見つけた結婚相手までお姉ちゃんのお下がりだったんだよ!? 職場でもその噂が女子の間で広まっちゃってさぁ! アタシずっと笑いものにされてるんだからね!? 何もかも全部、お姉ちゃんのせいなんだからね!?」
春雪さんがマヤの元彼だった。
それが嫌で、今回の離婚騒動にまで発展した。
なるほど。
僕自身兄弟がいる訳ではないから分からないけれど、コンプレックスに感じている部分の話なのだろうから、カナミさん的には相当に辛いことなのだろうけど。
「だとしても、哲臣さんを寝取って良い理由にはならない」
これは多分、今後何を言ったとて、水掛け論に終わる。僕たちが欲しいのはカナミさんの許しではなく、哲臣さんの離婚の承諾のみだ。
「ましてや、それを盾にして、カナミさんの誘いに乗って良い理由にもなりません。哲臣さん、僕達が伝えたいことは全て伝えました。マヤとの離婚について、元よりそのつもりだったと、先ほど仰いましたよね?」
「ん? ああ、そうだったかな。最近物忘れが酷くてね」
「そうでしたか、ですがご安心下さい。この場の会話は全て録音済みですので、いつでも聴き返すことが出来ますから」
チッ……と、哲臣さんは舌打ちをした。
わざわざ録音機を購入した訳じゃない。
会話の録音なんて、スマートフォンの録画機能で充分だ。
「なるべく早めの離婚届けの提出を、宜しくお願いいたします。それじゃあマヤ、行こうか」
「え? ……あ、うん」
僕が今日この場所に来たのは、ユリカが見せてきた写真と、春雪さんが見せてきた写真についてを聞きたかった、それだけだったんだけど。
「無事離婚出来そうで、良かったね」
想像以上の収穫に、思わず笑みが浮かんでしまいそうだ。
さ、こんな鬼が住まう家からはとっとと退散だ。
しかし汚い家だな、廊下までゴミが散乱してるよ。
「ちょっと待ってよ!」
廊下のゴミ袋を蹴飛ばして、玄関で靴を履いているところを、カナミさんに呼び止められる。
「アタシとお姉ちゃんの問題は、何も解決してないんだけど!」
なんか物凄い剣幕で叫んでるね。
ここが一軒家で良かった。
マンションだったら警察呼ばれるよ。
さて、カナミさんの問いに対する回答だけど。
「それ、解決する必要、あります?」
「はぁ!?」
「どうあがいても、カナミさんはマヤさんの存在がコンプレックスでしょうがない。大人になり、ようやくマヤさんの呪縛から解き放たれたと思っていたのに、その相手がマヤさんの元彼だった。確かに受ける衝撃は相当でしょう」
「だったら!」
「ですが、貴方はもうマヤさんへと制裁を加えた。結婚相手を寝取るという行為は、本来許されない行為です。マヤさんだってそれ相応に傷つき、誰かに相談したくてマッチングアプリを使い、結果として離婚まで選択している。これ以上彼女に求めるのは間違っていると、僕は思いますよ」
カナミさんが何もしなければ、マヤは哲臣さんと別れる選択をしなかった。愛する二人を分かつという行為がどれほどのものか。
結婚したのなら、分かると思うけどね。
「では、失礼します。先の通り、マヤと哲臣さんは離婚いたしますので、その後はご自由になさって下さい。後は春雪さん、哲臣さん、そして……カナミさん、貴方達の問題ですから」
もう、僕たちを、マヤを巻き込まないで欲しい。
そういう言葉を残し、僕は物井家を後にした。




