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薄氷の恋 ――不倫した妻と僕を結ぶものは、罪悪感という名の感情、ただひとつ――  作者: 書峰颯


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第11話

 目が覚めると、ホテルの天井だった。


 左を見ると、僕の腕を枕にして、まだ眠っている彼女がいる。前髪が垂れ、普段は見せない表情で眠りについていて、とても綺麗だった。


 視線を下に向けると綺麗な鎖骨が見えてきて、その先にある双丘が目に飛び込んでくる。花桐さん、結構着痩せするタイプだったみたいで、今の僕の視界には、彼女の谷間がくっきりと見えていた。

  

 その先はさすがに、布団で見えそうにない。 


 ぽかぽかのお日様みたいになった彼女にくっつくと、ゆっくりと目を開き、そして相手が僕だと気づくと、口元を緩めニッコリと微笑んでくれる。


「んー」


 おはようの挨拶の前にキスをして、裸のままの彼女を引き寄せると、そのまま夜の続きをしたくなってしまった。


 だけど、僕の前で人差し指を重ね、バツを作る。 


「……ダメ、朝からすると元気が足りなくなってしまいますよ? 今日の夜もあるのですから、その元気は夜までとっておいて下さいね」


 今日の夜もある。


 その言葉を聞き、もう一度彼女をぎゅっと抱きしめた。


 思えば今日は平日、普通に仕事がある。ホテルから会社まで歩いて行けるとはいえ、既にいい時間だ。そろそろ出ないといけない。


 その前に、本来、致す前に聞こうと思っていたことを口にした。洗顔し、服装を整えた後、朝食をテーブルへと並べてくれた彼女へと問う。


「……え、私の名前、ですか?」


 彼女の本当の名前。


 もし教えてくれなかった場合、それは最悪、これまでの全てが遊びだったという意味に代わってしまう。


 だけど、それはない。

 きっとではない、絶対にないと思える。


 百パーセントの安心感と共に、僕は彼女へと聞いたんだ。


 花桐さんの本名を教えて下さい。

 その質問をすると、彼女は可愛らしく微笑む。


「ふふっ、やっと聞いてくれた」


 ずっと隠していたプレゼントを差し出すみたいに、バッグから取り出したものを僕へと差し出す。


 長方形の、彼女の写真が載っているカード。

 いわゆる普通の、免許証だ。


「……花桐マヤ、え? 本名だったんですか?」

   

 間違いのない、本物の免許証だ。

 写真と共に、花桐マヤと氏名が記載されている。

 ちなみにゴールド、生年月日……僕の二個下だ。


「はい、花桐マヤ、実は本名でした」


 ペロッと舌を出しながら、可愛らしく笑う。 

 可愛すぎだけど、驚きを隠せない。

 

「だって、イミテーションだって」


「イミテーションではありますよ? だってその名前、もうすぐ変わるんですもの」


 香水の良い匂いを漂わせながら僕に近づくと、花桐さんはチュッと音のなるキスをした。


「有堂マヤに、してくれるんですよね?」


 もし、これが美人局とか結婚詐欺とかなら、それでも良いと僕は思えてしまう。彼女になら何でも許せる、そう思える自分が、ここにいた。



「今なら離婚後即で再婚出来るからな。ただまぁ、その場合不貞を疑われるだろうから、しばらくは現状維持が良いとは思うんだが」


 いつも通りの会社の喫煙所。


 普段の屋上とは違い、ここはオフィスビル内に設けられたガラス張りの喫煙所だ。


 煙が籠もらないように換気はなされているものの、壁にこびりついた臭いまでは打ち消せてはいない。


 喫煙者ならば気にならないのだろうけれど、非喫煙者、ましてはタバコNGの人なら地獄の環境だろう。


 僕はギリギリ耐えられる、そういうレベルだ。


「しかしまぁ、指輪まで外しちまうとはな」


 僕の左手の薬指に、指輪は存在していない。

 外した指輪は、一応バッグの中にしまってある。


 僕のお金で買った指輪だけど、財産という名目上、アイツの物でもある。


 基本的にエンゲージリングって売れないらしいけどね。名前が彫られているし、そんなものを売りに出す時点で、それはもう特級呪物確定だ。


 指輪痕の残る薬指を眺めながら、巻島の質問に答える。


「付けてる意味ないからね。もうアイツには離婚するって伝えてあるし、どう足掻こうが僕の決意は変わらない。一秒でも早く離婚したいまであるよ」


「ははっ、まぁ、嫁さんに関しては自業自得だしな。でもアレだろ? 土日に来るんだろ?」


「来るらしいよ。一体何しに来るんだか」


 可能なら来ないで欲しい。

 俗に言う、飯が不味くなるってやつだ。


「そりゃ、お前に会いに来るに決まってるじゃねぇか。一週間だけの出張みたいなもんなのにわざわざ来るとか、健気だねぇ」


「何もなければ、そう思えたんだろうけどね」


 だけど、アイツは浮気をした。 

 いや、浮気じゃない、不倫だ。


 不倫なんて、許せるはずがない。


「ただまぁ、あまり怒りを表に出すなよ?」


「分かってるよ。あくまで僕は何も知らないし、何もしていない。今日だって会社命令で名古屋で仕事をしているだけ、それにしか過ぎないんだからさ」


 ふーって煙を吐いた後、巻島は僕を見た。

 いつもと違う細めた目、鋭い何かを感じさせる。

 

「お前、昨日ホテルにいただろ」


 巻島には、ホテルのことを伝えていない。

 名古屋に花桐さんが来ていることも。


「どうして、それを」


 隠し事がバレた子供のように、呆気に取られながらも僕は口にする。


 探偵でもなんでもない巻島が、どうして僕が昨日マヤと一緒にホテルにいたことを知っているのか。


 聞くと、彼は僕を見たまま、口元をニヤけさせる。


「どうしてってな。さすがに会社に近すぎだろ。ホテルで誰と何をしてたのかは、その薬指を見れば分かるけどよ。嫁さんとの決着が付いてない以上、まだ動くのは早計だと、俺は思うぜ?」


「……ありがとう、このこと、他には?」


「俺だけだ。というか、別に何も見てねぇよ」

 

 ふーって、煙を吐いているけど。

 ……は? 何も見ていない?


「昨日お前の部屋に酒飲みに行ったら誰もいなかったもんでな。ホテルにでも泊まったんだろうなって、カマかけただけだ。まぁ、図星だったみたいだけどな」


 くっくっくと、巻島はニヒルに笑う。


 くそっ、すっかり巻島に騙されてしまった。

 しかし、巻島の言うことは正しくもある。


 アイツを刺激して、最後の一歩を踏み出させる訳にはいかない。あくまで僕はアイツの不倫を知らないし、アイツは僕の不倫を知らない。


 そういう形のまま終わらせることが、一番綺麗で、一番お互いが納得のいくということを、言葉にしないままに伝えないといけないのだから。



 仕事が終わった後、花桐さんとの待ち合わせ場所まで小走りで向かうと、横断歩道の先にいる彼女を見つけることが出来た。


 黒のふわふわしたハイネックセーターに、ブラウンのロングスカート。暖色系と呼ばれる色合いは、大人らしいシックな印象を僕に与えてくれる。


「花桐さん」


 声を掛けると僕に気づき、小さく手を振ってくれた。赤信号が青に変わった後、やっぱり小走りで僕は彼女の下へと向かう。


「お待たせしました、ちょっと遅くなっちゃってすみません」


「ふふっ、大丈夫ですよ。お仕事お疲れ様です」


 互いを想う言葉。

 愛し合う二人なら、出てきて当然の言葉。


 アイツは一切言ってくれなくなった言葉。 

 僕はやっぱり、花桐さんのことが——


「……そういえば、なんだけどさ」


「?」


「ずっと苗字で呼んでたけど、それって今の旦那さんの苗字なんだよね」


「ふふっ、そうですね」


「だからさ、マヤって、下の名前で呼んでもいいかな?」


 もう既に、ずっと前から彼女は僕のことを〝悠全さん〟と、下の名前で呼んでいてくれてたのに、僕はずっと、彼女のことを苗字で呼んでいた。 

 

 今の彼女は花桐マヤだけど、本当は違う。


 さすがに旧姓まで把握したいとは思わないけど、それでも、今の旦那の苗字を呼ぶのは、なんだか気が引ける。

 

「いいですよ」


 思っていた以上に、僕は束縛が強いらしい。

 だけど、それに関しては。


「じゃあ私も、ゼン君って、呼んでもいいですか?」


 マヤも、負けてはいないらしい。

 アイツとは違う僕の呼び方。


「いいよ、マヤ」


「ありがとうございます、ゼン君」


 なんだかそれが嬉しくて。


 他人だったのが嘘だったんじゃないかってぐらい、自然に手を繋ぎ、名古屋の街を散策したんだ。


 そして、土曜日を迎えた。

 今日は、アイツが来る日だ。 

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