第10話
屋炭の名刺を手にし会社に戻った後、僕は彼に関する資料を漁った。
データベース化されたものだけではなく、それ以前のアナログ的なもの、会社の催し、その他諸々、屋炭に対して徹底して検索を行ったのだけど。
「そりゃあな、やらかして居なくなったんだから、全部削除されたんじゃねぇの?」
喫煙所にて、関東にいた時と同じように、巻島へと現状を報告する。彼に関するデータは空に舞い上がった煙のように、会社から全て消えていたのだ。
個人情報保護法からして、完全削除はあり得ない。本社の人間が全データをかっさらって行った、それが恐らく正解だろう。
「逮捕された容疑者が無職って表示されるように、やらかした前の段階から全部消されたんだと思うぜ? っていうか、浮気相手がまさか同じ会社の奴だったとはな。俺の記憶にすらいないんだが、どこから悠全の嫁さんと繋がりを持ったんだろうな?」
どこから関係を持ったのか。
結婚式にも呼んだ記憶は無いし、僕の周囲に屋炭という人間がいた記憶すら存在しない。
可能性があるとすれば、ユリカの元彼とか、昔馴染みとか、そんなのだろうけど。
「会社からの結婚祝いに〝有志一同〟ってあったから、その中に含まれていたのかもしれないね。まぁ、今となってはどうでもいい話だよ」
「どうでもいいって」
「それよりも巻島、タバコ一本貰える?」
手を差し出すと、珍しく彼の驚く顔が見れた。
「タバコって、悠全お前、吸わないんじゃ」
「どんな味がするのか、気になってさ」
「味って…………ああ、そういうことかよ」
天然パーマの頭をガリガリと掻いた後、巻島は僕へとタバコを一本差し出してきた。電子タバコが主流の今、珍しい紙タバコだ。
「一本だけな、結構高いんだぜ?」
「ありがとう」
火を貰い、巻島のように喉の奥へと煙を吸い込む。生まれて初めてのタバコの味は、一言で言えば不味い、これだけだった。
「ゲホゲホ……咳き込むし美味しくないし高いし、なんでこんなものを美味しそうに吸えるのか理解出来ない」
「ははっ、これは大人の味だからな」
「例え大人の味だとしても、生涯僕が買うことは無さそうだね」
先端の灰を吸い殻入れに落とした後、もう一度吸い込み、そして咳き込んだ。やっぱり美味しくないし、ただ単に辛いだけだ。
「ああ、吸わない方がいいさ。こんなもん、時間と金の無駄だ。俺みたいに、道楽で生きてる人間が吸うってのが、一番丁度いいのさ」
彼は喉仏を上下させながら、タバコの煙を美味しそうに吸い込み、そして吐き出した。僕も手に残るタバコを吸い、そしてまた咳き込む。
夕暮れに染まる冬を背負いながら、僕達二人はケラケラと笑い、そしてまたタバコを口に咥えた。
次第に慣れてしまいそうだな。
そう思える自分がいた。
☆
仕事を終え、僕は花桐さんとの待ち合わせ場所へと向かった。雑多な人たちで賑わう中、新幹線ホームの近くにある、銀の時計と呼ばれるモニュメントの前で、僕を待ちわびる彼女を見つける。
少しくせのあるショートカット、ボタンの外れた薄手のロングコート姿の彼女は、手首に着けた腕時計をチラリと見ながら、周囲を不安げに見渡す。
パンツ系を好まない彼女は、今日もロングのスカートを穿き、上には重ね着をしたであろうタートルネックのセーターを着込んでいた。
可憐な佇まいに僕は足を止めると、まるで他人を装うように〝僕に気づいていない彼女〟を観察し、むずがゆくなった口元に力を入れる。
すると、ほぼ同時に彼女も僕を見つけたのか、それまでの表情を笑顔へと変え、僕へと駆け寄る。
恋人にしか見せない表情の変化。
それを見れただけで、僕の心が弾んだ。
「悠全さん」
駆け寄ってきた彼女はそのまま僕のことを抱きしめ、肩口へと顔を沈める。
僕と花桐さんの身長差は、大体十センチくらい。
側に来ると、僕よりも少しだけ小さい彼女の頬が、僕の身体に触れる。
会いたかった。
言葉にしなくても伝わって来る愛情に、僕も逆らいもせず、ただただこの身を任せる。
雑踏の中、衆目も気にせず唇を重ねると、また笑顔になって、微笑んで、にまにまとして、また唇を重ねるんだ。
既に三十二歳だけど。
まるで初恋のような恋を、僕達はしている。
そう、思えてしまうぐらい。
愛おしくて、しょうがなかった。
「悠全さんのスーツ姿って、初めて見ました」
駅からホテルへと向かう途中、彼女は言った。
会うのはいつも土曜日だったから、当然のことながらスーツなんかでデートへは向かわない。最初の日だって僕は普段着だったのだから、思えば失礼極まりない話だ。
「うふふっ、でも、その姿を見て、ああ、この人は出会いを求めてないんだなって、すぐに分かりましたけどね。なので安心して、もう一度会おうって思えました」
「そうだったんだ」
「がっついてないって、結構な好印象だったりするんですよ? 少なくとも、私には最高の人だとしか思えませんでした」
繋いでいた手を引っ張られると、今度は腕を組むようにして身体を密着させる。コート越しにも伝わる彼女の温もりと柔らかさに、年甲斐もなく頬が熱を持った。
「そして、それは回を重ねるごとに、もっと最高になって行ったんですけとね」
彼女は、どこまで僕を喜ばせてくれるのだろうか? これほどの恋愛感情を、果たしてユリカの時に抱いたのだろうか? 比べることは出来ないし、それはとても失礼なことなのだろうけど。
やっぱり、花桐さんの方が上だと。
心のどこかで思えてしまう。
「会いたかったです、悠全さん」
でも、今は何も考えずに。
彼女との時間を過ごしたい。
そう、思えて仕方がなかった。
☆
「え、このホテルに二日間もですか?」
「うん、名古屋観光だと思って、のんびりしてて」
僕が予約したホテルは、一泊四万円程度の中堅のホテルだ。それでも名古屋の都心が一望出来るし、料理だって一流ホテルのフルコース並み。
身一つで来た花桐さんに、何不自由させたくない思いで用意したのだけれど。彼女からしたらこのホテルは、想定以上に良すぎた場所だったらしい。
「でも、このホテルだと悠全さんに手料理、作ってあげることが出来ませんね」
笑みと共に、またしても僕を喜ばせてくれる。
花桐さんの手料理、キッチンに立つ彼女を想像するだけで、彼女との生活がとても楽しいものになるんだろうなって、やっぱり口元が緩んでしまうんだ。
一日でも早くその日を迎えたい。
けれど、僕達には問題がまだまだ残っている。
「え、奥様の浮気相手が判明したのですか?」
緩みっぱなしのままではいられない。
二人きりのホテルの室内、上着を脱いだ僕達はベッドへと座り込み、現状の報告を行った。
屋炭学徒。
彼がユリカの浮気相手だという確証はないけれど、こんな名前を他で見たことないし、同じ会社に所属していたという事実が、僕とユリカ、そして屋炭との距離を縮めさせている。
「大方、屋炭が仕事で失敗したから、それが嫌でアイツも不倫を止めようと考えたんじゃないのかな」
急なユリカの心変わりを説明するのに、これほど適した理由は存在しない。金の切れ目が縁の切れ目とは、よく言ったものだ。
「でも、奥様も働いているのですよね?」
「……そうだけど」
「だとしたら、相手が仕事で失敗したとて、自身の稼ぎがある以上、そんな理由で別れを選択しないと思うのですが……」
小難しい顔をした花桐さんの横へ座り、彼女の手を握りしめる。
「それって、 花桐さんだったら僕のことを見捨てないって、そういうことかな?」
繋いだ手の上に更に手を重ねると、意地悪な、それでも綺麗な上目遣いのまま、彼女は頬に笑窪を作る。
「もちろん、そういう意味でもありますけどね」
ああ、本当に。
僕は心の底からこの人が好きだ。
衝動的に彼女の後頭部へと手を回すと、半ば強引に唇を重ね、そのまま舌を絡め合わせる。
抵抗しない、いや、それどころか能動的に僕の口の中へと、彼女自らの舌を這いよわせて来る。
お互いが欲しくて堪らない。
着ていたシャツを留めるボタンがわずわらしい。
ベッドへと押し倒し、服の上から彼女の胸へと手を添える。傷つけないように、それでいて獣のように、彼女を守るタートルネックのセーターを持ち上げると、その下にもまだシャツが着込んであった。
でももう、それは彼女自らがたくし上げ、邪魔だと言わんがばかりに脱ぎ捨てる。下着だけになった上半身の全てに触れ、全てを愛する。
細い首筋に口づけをし、シルクのような背中へと指を走らせ、下着のホックを外し、丁度手のひらサイズの彼女の胸へと手を押し当て、触れる。
もっと愛し合いたい。
彼女の胸へと顔を沈め、指と指を絡めるように手を綱いだ時、僕は右手に違和感を覚える。
(……!)
彼女の左手の薬指に、指輪が無い。
以前は付けられていたエンゲージリング、それを外し、しかも指輪痕すら残っていない。
「……気づきました?」
「うん、指輪、外してたんだね」
「だって、あってもしょうがない物ですから。離婚はまだですけど、私の気持ちを明らかにするのに、一番分かりやすい行為ですからね」
互いの気持ち。
僕の気持ちも、彼女と同じだ。
左手の薬指にある指輪を外すと、花桐さんは嬉しそうに微笑んだ。微笑みながら僕の首に腕を絡めてきて、顔を近づけ、耳元で囁く。
「悠全さん、結婚なんて、所詮他人と他人が一枚の紙でつながった、薄い関係にしか過ぎないんです。それは家族とは言えない、私はそう思います」
「……じゃあ、どうすれば、他人と他人は深い関係、家族になれるのかな?」
分かりきった答えだ。
だけど、僕はそれを彼女の口から聞きたい。
「血の繋がり、私と悠全さんとの血の繋がった存在がいれば、私たちは間違いのない家族になれると、そう思います。……ふふっ、簡単に言いますと」
彼女は微笑みながら、僕の頬に両手を添え、愛のある優しいキスをする。
「赤ちゃんがいれば、間違いないかと」
とても簡単で、とても間違いのない答え。
思わず笑ってしまうぐらい、愚直な答えだ。
「じゃあ……」
「うん」
家族を目指す為。
こんな思いで性行為に望んだことは、一度もない。
だけどそれは、これまでとは違う。
安心すら覚えてしまうほどの温もりに包まれてしまう、僕の予想を遥かに超えた、とてつもなく気持ちの良いものだったんだ。




