第6話 生き続ける国と写真
第6話 生き続ける国と写真
年月が過ぎた。
フロリダの天幕は何度も修理され、嵐への備えという名目で基礎ができ、柱が立ち、断熱壁とガラス窓が付いた。最後には、どこから見ても立派な平屋になった。カダフィーだけは、相変わらずその建物を「天幕」と呼んでいた。
ある日、ライスが屋根の改修見積書を読んでいると、夫が冷房設備の型式に赤い線を引いた。
「この機械は川崎重工の仕様と違う。砂漠で走る列車にはあれほどよい空調を用意できたのに、自分の家で妥協する理由が分からない。もっとも、私はこれを家と呼ぶのにも反対だが」
「あなたが何と呼ぼうと、固定資産税の通知には住宅と書いてあるわ。天幕にコンクリートの基礎を打たせたのも、強化ガラスを入れたのもあなたよ。窓の外のワニを眺めるためにね」
カダフィーは窓の向こうを確かめた。池にはワニがいた。最初に設けた柵は新しくなり、監視施設の職員も何度か世代が替わった。若い警備担当者は、古いニュース映像の中で大勢を前に演説する男と、目の前で設備工事に注文を付ける男を結びつけるのに苦労していた。
ライスの方は、その二人が同じ人物であることをよく知っていた。国家の将来を考えながら、家の戸締まりを忘れる男でもあった。
政治的な会議が終わったから一緒にいる、という生活はずっと前に終わっていた。ライスがピアノを弾く午後、カダフィーは新聞を読み、彼女が苦労して仕上げた曲の途中で眠ることもあった。演奏が終わっても目を覚まさなければ、ライスは楽譜を閉じてそっと毛布を掛けた。そのうち彼が目覚め、今日の最後の和音が弱かったと批評する。眠っていたはずなのに、と彼女が驚くのを楽しみにしているのだった。
老いは、そうした日々へゆっくり入り込んだ。
昼食を半分残す日が続いたとき、ライスは主治医へ連絡した。カダフィーは腹を立てた。診察室まで連れて行かれるくらいなら大臣を3人更迭した方が早い、と本気なのか冗談なのか分からないことまで言った。
「あなたが大臣の任命権について何を考えているかは、後でゆっくり聞くわ。でも昨日も今日も食べられなかったでしょう。私は夫の食欲と顔色を見て電話をしたの。国家機密を盗み出したわけでもないのだから、診察くらい受けてちょうだい」
彼は長く彼女を見ていたが、予約された時刻には自分の足で診察室へ入っていった。
ライスにも長い外遊はあった。帰る日の夕食には、いつも彼女の好物が並んだ。羊肉の煮込みは香辛料を少し控え、ピアノのそばには花が飾られている。カダフィーに尋ねると、料理人の判断だと言う。花はサーレム上級曹長が手配した、と言い張る。サーレムはとうに退役していた。
「そう。なら料理人とサーレムさんにお礼を言わなくちゃ。あなたには、留守の間に届いた報告書を私の机から片づけてくれたことだけ感謝しておくわ」
「その報告書には腹の立つものが多かった。君が帰る日に読ませるわけにはいかない。私はその程度の判断ならできる」
「知ってるわ。だから、ありがとうと言っているのよ」
カダフィーは少し照れたように椅子を引いた。そんな顔をするようになるまで、ずいぶん長い年月がかかった。
*
リビアでは、彼が作った制度が次第に彼自身の手を離れ始めていた。国会では大臣の予算案が修正され、地方議会は中央政府の整備計画に変更を求め、裁判所が行政処分を取り消すこともあった。カダフィーが首を縦に振らなくても、港では貨物が下ろされ、病院では薬が補充され、学校では新しい年度が始まる。
だが、無償の教育と医療だけは、指導者の慈善事業として残してはならなかった。カダフィーが死んだあと、新しい政権が予算案を1枚書き換えるだけで有料にできる制度なら、40年かけて国民へ還元した石油の利益が個人の恩恵に戻ってしまう。
リビア議会には、公立学校から大学までの授業料を公費で負担し、公的医療機関での基本診療を窓口負担なしで提供する仕組みを恒久的に支える法案が提出された。石油からの財政収入をその年に使い切らず、国の基金へ積み立て、教育と医療の経常費が原油価格の急落で途切れないようにする。学校の教員給与、病院の医薬品、診療所の保守、遠隔地の搬送費まで、毎年必要になる支出を項目ごとに積算する。基金の運用成績と不足額は議会が審査し、会計検査機関の監査結果も公開することにした。
草案に署名を求められたカダフィーは、条文の一部を赤鉛筆で囲んだ。
「『財政事情により中止できる』だと? その文言を消せ。油が安くなったときに最初に学校を有料にする国など、私は造っていない。支出が増えれば、税や基金の扱いを議会で議論しろ。病院の受付で患者に金を出せと言う前に、政府の建設計画を点検しろ。私が死んで困るのは私だが、国民が学校へ通えなくなって困るのは、これから生きる者たちだ」
ライスは法案に付いてきた収支見通しを見て、基金だけを頼りにしても十分ではないと指摘した。技術学校で育てた整備士や医師が国外へ流出すれば、金を積んだ病院にも患者を診る人はいなくなる。地方議会が学校と病院の人員配置を監督し、中央政府が水道と交通の設備を維持する仕組みまで、別の法律で手当てされた。
彼が次に気にしたのは国外の関係だった。リビアはアラブ諸国とアフリカ諸国の両方へ顔を向けている。カダフィー自身が会議へ現れなくなったあとも、隣国の港湾や道路、病院の相互支援について提案できる外交当局が必要だった。政府はアラブ諸国との交通・保健・災害対応の共同事業を担当する常設の窓口を設け、アフリカ連合で続いてきた開発協力の交渉も外務省と議会の管轄に移した。政治指導者の個人的な約束は、予算と期限を伴う政府間の協定へ置き換えていった。
カダフィーは担当官たちへ、会議を開くだけの外交にするなと告げた。
「隣国が病院を建てたいなら、研修を引き受ける学校と機材を運ぶ港を決めろ。鉄道をつなぐと言うなら、国境で貨車を何時間止めるのか、税関と一緒に計算しろ。砂漠の国同士で大きな宣言を読み上げても、水道管は1メートルも伸びない。私が会場にいなくても協定が動くところまで造れ。それがアラブとアフリカに対するリビアの責任だ」
彼は、そうなるように制度を組み替えてきた。もっとも、実際に自分の命令が通らない場面に出会うと、腹が立った。
ある週、地方交通を担当する新任大臣が高速鉄道の延伸計画を差し戻した。需要予測と保守費をもう一度比較したいという。カダフィーは三日間、その大臣の無能さを語り続けた。四日目の朝、ライスの前へ書類を置いた。
「数字を読めない男ではない。反対理由も筋が通っている。だから余計に腹が立つ。私が建てた駅を、私が望むように延ばせないとは、どういうことだ」
ライスは資料を引き寄せた。需要予測の表には新しい病院と工業団地の開設予定も書き込まれている。以前なら大臣が見落とし、カダフィーだけが気づいていたような項目だった。
「あなたが望んだ国に近づいたのよ。大臣は自分の判断を説明し、議会は数字を見て修正できる。あなたが風邪をひいても、私たちが旅行に出ても、列車が走る。そのために何年も費やしたのでしょう」
「分かっている。しかし、納得するのと愉快に感じるのは別だ。私がいない方が仕事が速いと言われたら、君だって怒るだろう」
「私はむしろ安心するわ。スタンフォードの学生だって、先生がいなくても研究できるようになれば立派なものよ。あなたは学生を持ったことがないから、その楽しみを知らないのね」
「私は国民を教えてきたつもりだ」
「ええ。だから、そろそろ卒業を許してあげて」
しばらく沈黙が続いた。カダフィーは書類をもう一度読み、差し戻し理由を丁寧に書いた大臣の署名を見つめた。最後に、予定していた抗議の電話を取りやめた。
夕方になって彼はライスに言った。
「私がいなくなった後も、この男は私に反論できるだろうか。政治家は生きている相手には強く、死人の名前には弱いものだ」
「そういう時のために議事録があるのよ。あなたの肖像を駅に掲げるより、議事録を残す方が役に立つわ。あの大臣が次の任期に落選しても、判断の理由は残る。あなたの国には、それが必要だったの」
カダフィーは彼女の手に触れた。
「君は、最初に私をフロリダへ連れてきた時から、私を邪魔してばかりいる」
「人前では言わないでね。私もずいぶんあなたに助けられたのだから。昔は、相手が譲るまで説得するのが外交だと思うことがあった。あなたと暮らして、相手が自分で結論にたどり着ける材料を置く方法を覚えたわ」
「私は君から、相手に発言させてから決める方が得をする場合があると覚えた。随分と不便な方法だったが、国は以前より動くようになった」
ライスは彼の肩に頭を寄せた。
「あなたが気に入らない顔をしている時も、私はあなたを愛してるのよ。だから、今のリビアを一緒に見ていられることが嬉しい」
カダフィーは手を握り返した。飾り気のない言葉を返すまで、いつものように少し時間がかかった。
「私も君を愛している。国より簡単に言えるようになるまで、長くかかりすぎたな」
彼女は笑った。その日は政治の話をやめ、ピアノの譜面を二人で選んだ。
*
晩年、カダフィーは病床に就いた。
フロリダの病室には、大きな窓があった。窓から池の柵が見える。リビアから届く報告書は最後まで途切れなかった。高速鉄道の延伸、新しい大学、航空機整備工場の受注、石油基金の運用成績。報告書の余白には、彼がいつもの赤い鉛筆で書いた数字が残った。
体力が落ちてからも、議会の議事録を読むのが楽しみだった。数値の誤りを見つけると担当者へ知らせ、議会がその指摘を採用しないと腹を立てた。ただ、翌朝には別の報告書を読んでいた。国家は彼の機嫌にかかわらず続いていた。
ある朝、医師はライスに、残された時間が短いことを告げた。カダフィーも聞いていた。二人は医師へ礼を述べ、病室に戻った。
「今日は会議に出る予定だった。相手には悪いが、延期してもらおう。君が近くにいるなら、他に急ぐ仕事はない」
ライスは椅子をベッドへ寄せた。いつもは自分の身体の話になると文句を言う夫が、今日は穏やかだった。
「延期の連絡は済ませたわ。連絡先を私に教えてくれたのは、あなたでしょう。だから今朝は、あなたと話す時間を私が使わせてもらうことにしたの」
カダフィーは以前なら運行の細かな数字を見て担当者に直接電話しただろう。今は路線運営会社の報告書に、計画外停止の件数と、運行を続けるための予備編成数が書かれている。変更を決めるのは鉄道会社と議会だった。彼は数字の扱い方に文句を付け、結局その表を枕元へ置いた。人事を命じなくても列車が走るところまで、ようやく来たのだ。
テレビには、トリポリ中央駅から出発するCRH400Liが映っていた。開業当初より沿線の町が増えている。駅前には商店街ができ、乗客が荷物を抱えて列車に乗り込む。カダフィーはしばらく画面を見ていた。
「最初の人生を終えた時、私は国が自分の死後どうなるかを知らなかった。白い場所でその後を見せられ、あれほど怒ったのは、私が守ったつもりのものが何も残らなかったからだ。今は違う。私がいなくても列車が出る。病院の受付は開き、工場は給料を払い、学校では学生が質問をする。君がずっと私に教えたかったのは、こういうことだったのか」
「私にも、教わることがたくさんあったわ。あなたは国を数字で見ながら、数字の向こうにいる人を忘れなかった。暑い車内で学生を倒れさせるな、病院へ届く荷物を港に寝かせるな、そう言っていたでしょう。私はそのやり方を、あなたのいない場所でも続く仕組みにしたかったの」
カダフィーは彼女の手を求めた。ライスが身をかがめると、彼はゆっくり頬に触れた。昔なら人前では決してしなかった仕草だった。
「君がいなければ、私はもっと勝手にできた。会議を抜けて、軍へ電話をして、都合の悪い大臣を怒鳴りつけていただろう。君のやり方は面倒だった。だが、君がそばにいる人生を選んでよかった。こんなに長く、一緒に暮らせるとは思わなかった」
ライスは彼の手を包み、親指でゆっくり撫でた。
「私もよ。最初にフロリダへ誘った時は、あなたと結婚するつもりで言ったわけじゃなかった。歴史を変えるために近づいたのに、いつの間にか、あなたが夕食を食べたかどうかを心配する方が大事になっていた。あなたが私の帰りに花を用意することも、ちゃんと知っていたわ」
「サーレムが用意した花だ」
「ええ。そういうことにしておきましょう」
彼は目を閉じた。少しして、息を整えてからもう一度開いた。
「コンドリーザ。最初の人生では、私はこれを知らなかった。誰かの帰りを待つことも、待っていてもらうこともだ。君となら、もう一度同じ年月を生きてもよいと思う」
ライスは涙を拭おうとせずに答えた。
「私はあなたをもう一度見つけるわ。次の人生があってもね。だから今は、安心して休んで。明日の列車は、あなたが起きていなくても出るから」
「愛している。君に出会えて、私は幸運だった」
「私も愛してるわ、ムアンマル」
彼は彼女の手を握ったまま、静かに息を止めた。
病室のテレビでは、列車が次の駅へ向かっていた。
*
カダフィーの死後、リビア議会は最初の通常会期を迎えた。議長席には新しい議長が座り、予算委員会へは新しい財務担当者が出席した。議場の壁からカダフィーの肖像が外されても、審議の予定表は変わらなかった。
初日の議題の1つは、翌年度の教育費と医療費だった。委員会の報告には、公立学校と大学の授業料を引き続き徴収しないこと、公立病院の基本診療で患者から費用を取らないことが明記されていた。教員の採用、医薬品の購入、地方診療所の保守、南部の患者搬送に必要な予算も、それぞれ数字が付いている。原油収入の変動に備えた基金からの繰り入れ額については異論が出たが、制度そのものを廃止しようとする提案は議案にならなかった。議員たちは、基金の将来負担と今年の医療費をどう配分するかで激しく議論した。
討論の様子はテレビと議事録で公開された。ライスはフロリダでそれを見ていた。退屈な金額の修正が何時間も続く。彼女は、その退屈さを有り難く思った。いま議場にいる人々は、カダフィーに判断を求めることができない。だから互いに根拠を示し、投票し、支出の責任を負っている。子どもの授業料と患者の窓口負担を0のまま保つ仕事が、ようやく国家の通常業務になったのである。
その翌月にはトリポリでアラブ諸国の代表が集まった。議題は華々しい新同盟の宣言ではなく、国境を越える医療資材の輸送、技術者と医師の相互研修、砂漠を通る物流路の保守、異常気象や地震が起きたときの緊急支援だった。エジプト、チュニジア、アルジェリア、ヨルダン、湾岸諸国の代表がそれぞれの事情を述べ、リビアの新しい指導部が協定案と予算分担表を提示した。
議長を務めたのはカダフィーではなく、議会が承認した後継政権の代表だった。リビアの提案に異議を唱える国もあり、議論は予定より長引いた。それでも共同研修を始める病院と、非常時に優先して使う港が決まり、実施日を記した文書に各国の署名が並んだ。続くアフリカ連合との会議では、北アフリカと内陸国の輸送をつなぐ道路・鉄道整備が取り上げられた。
リビアがアラブ諸国を引っ張り、アフリカとの協力をつなぐ役割は、カダフィー個人の演説から、新しい政府が実行する政策へ引き継がれていた。各国には独自の利害があり、常にリビアの提案が採用されるわけではない。それでも、会議の議題を用意し、費用を計算し、合意を実務へ移す中心的な役割を、彼の死後もリビアが果たしていた。
ライスの元へ、会議に出席した若いリビア外交官から報告が届いた。添付されていたのは署名式の記念写真より、港の受入能力と研修先病院の一覧表だった。ライスはそれを開いたまま、長いこと画面を眺めた。
「あなたがいなくても、ちゃんと始められたわよ、ムアンマル」
返事はない。それでよかった。彼はもう、自分の承認がなくても国が動くところまで仕事を終えたのだ。
カダフィーの死後、ライスはフロリダの家を整理した。リビア政府へ返す公文書、米国の記録機関へ送る資料、家に残す私物。書類に付いた彼の書き込みを目にするたびに、会議中の声が聞こえてくるようだった。議事録の余白にまで未来の工場の話をしている男を、彼女は何十年も見てきた。
書斎の奥には、鍵の掛かった戸棚があった。存在は知っていたが、中身は教えてもらえなかった。退役したサーレム上級曹長が預かっていた封筒に、鍵が入っていた。
扉を開けると、アルバムと薄紙に包まれた額装写真が並んでいた。ライスは最初の一冊を取り出した。国務長官時代の自分が、演説台に立ち、空港を歩き、外国首脳と話していた。ピアノを弾く写真もある。写真の裏には日付、場所、分かるものには撮影者の名前が記されている。
背表紙には2007年とあった。まだ2008年のトリポリ会談より前だ。ライスは一度アルバムを閉じ、背表紙の数字を確かめ直した。
最初の人生でも、彼は自分の写真を寝室へ集めていた。2011年8月、そのアルバムが世界へさらされるまで、ライスは中身を知る機会がなかった。あの報道を見て動揺し、彼の死後も、もっと早く手を伸ばしていたらと考え続けた。いま目の前にあるのは、別の人生で彼が新しく集め直した写真だった。今回は、写真の主と結婚し、何十年も隣で暮らした。
それでも彼は、2007年からの写真をもう一度そろえていたのだ。最初の人生で失った機会を、二度目の人生でも忘れずにいたのは自分だけだと思っていた。夫もまた、言葉にしない形で、出会う前からの気持ちを残していた。
次は2008年。リビアを訪れた時の自分がいた。その後のアルバムにはフロリダの庭、スタンフォード大学の芝生、整備工場、CRH400Liの開業式、国家継続章の濃紺の儀礼服。公式写真の中には、彼女だけが正面を向き、カダフィーは彼女を見ているものもあった。
同じ構図の写真が3枚ずつ入った袋には、《正面》《予備》《保存用》と書かれていた。服装別の棚もある。式典の衣装、演奏会の衣装、仕事用のスーツ。国家の記録庫より整然としていた。
ライスは2008年の冊子を開き直した。トリポリの会談で、自分が笑っている写真がある。その角だけが少し擦れていた。何度も取り出されたのだろう。
「あなたは私に、写真を撮るのは外交のためだと言い続けたわね。最初の人生では、写真を見つけた時にはもう取り返しがつかなかった。今度は私が同じ部屋で何十年も暮らしていたのに、あなたはまた黙ってしまっておいたのね。もっと早く見せてくれてもよかったのに」
独り言を言うと、涙が落ちた。笑いも込み上げてきた。こんな秘密が残っているなら、夫のことをまだ全部知ったとは言えない。亡くなった後でまで、新しい表情を見せる男だった。
整理を手伝っていた職員が戸棚を見て、保管先を尋ねた。彼女はアルバムの背を撫でてから答えた。
「ここに残します。公文書の目録には載せなくて結構です。国務長官だった私の写真もありますが、この棚を作った人は、資料の保存より別のことを考えていたのですから」
職員が去ると、ライスはもう一度2008年の写真を見た。
「最初から言えばよかったのに。……いいえ、あなたなら言わないわね。そういう人だった」
彼女は冊子を胸に抱いて、しばらく書斎に座っていた。
*
カダフィーが再び目を開けると、そこは生前に1度訪れた、神の管理する死後の空間だった。壁も机も椅子もなく、人と向かい合うために必要な広がりだけがある。以前と同じ神が立っていた。
カダフィーは、前にここで見た最初の映像を思い出し、今度は何が映るのかと身構えた。しかし、目の前に広がったのは、リビアの朝だった。
トリポリの駅。ベンガジの市場。学校へ向かう子ども。病院行きのバス。航空機整備工場。防空レーダーの校正室。沿岸の町を結ぶCRH400Li。Street Viewの年代別画像では、未舗装路が舗装され、学校が建ち、駅が増え、工場の周りに住宅が並んでいった。
カダフィーの肖像がなくなった駅から、列車が時刻どおりに出発した。教室には授業料の請求書が置かれず、公立病院の窓口では基本診療の費用を求められない。石油収入を積み立てた基金の監査報告が議会で審議され、新しい政権の大臣が説明している。
映像はトリポリの会議場へ移った。アラブ諸国の代表が並び、リビアの後継政権が共同医療・交通事業の実施結果を報告している。その次にはアフリカ連合との開発協議が映った。もうカダフィーはいない。国を代表して話しているのは別の世代だった。
「私はもっと時間が欲しかった。だが、あの学校と病院が無償のまま残り、アラブとアフリカの国々が私の後継者と話をしている。列車も私を待たずに走る。ようやく、国を私の一生より長く残せたのだな」
神はうなずいた。
「最初に君たちを呼んだ時、私は、多くの人が幸福を感じながら一生を終えられる世界に戻したいと話した。今回は世界を最初から作り直さずに済んだ。君がいなくなっても学校と病院が続き、人々が仕事をし、君の後を継ぐ者たちがアラブとアフリカの国々と話し合っている。君たち2人が選んだ人生が、そこまでつながったのだ」
カダフィーはもう1度映像を見た。自分がいなくても誰かが予算を審議し、学校へ通う子どもがいる。それが、神の答えだった。
それから、白い空間の向こうに一人の女性が現れた。
コンドリーザ・ライスだった。
カダフィーは歩き出した。最初にここで顔を合わせた時、二人は警戒しながら互いの言葉を測っていた。今度は彼女の姿が見えただけで足が速くなった。
「コンドリーザ。ずいぶん長く待たせたな。君がいない間、あの国のその後を見ていた。学校も列車も動いている。君が見たら、きっと私より先に故障した設備を探すだろうと思っていたところだ」
「もちろん探すわ。でも先に、あなたへ言いたいことがあるの。長く一緒に生きられて嬉しかった。あなたを見送ってからも、リビアの人たちは毎年新しい仕事を始めていたわ。それを報告する相手がいなかったのが、いちばん寂しかった」
二人は抱き合った。カダフィーが彼女の手を取ろうとしたところで、神がふと片手を上げた。フロリダの書斎が白い空間に現れる。鍵の掛かった戸棚が開き、アルバムと額装写真が並んだ。
カダフィーは顔をしかめた。ライスはその様子を見逃さなかった。
「ようやく聞けるわね。私は2度、あなたの写真アルバムに驚かされたのよ。最初の人生では、2011年にあなたの寝室から見つかったと新聞で知った。あなたの死後、あの写真が頭から離れなかった。今度は何十年も一緒に暮らした後、また2007年からのアルバムが出てきた。私たちが再会してからの写真だけなら分かる。でも、あの頃からあなたは私を見ていたのね」
カダフィーは戸棚から視線を逸らした。かつて核兵器の交渉や石油契約の会議で平然と相手を困らせていた男が、珍しく言葉を探している。
「米国の国務長官がどのような人物なのか知りたかった。報告書は読んでいたが、写真を見て、少し考えが変わった。公の席では厳しい顔をしている。ところが、音楽を弾く時は別の顔をする。私はその違いが気になった。実際に会った2008年には、写真よりもずっと魅力的な女性だと思った。だが、君は国務長官で、私はリビアの指導者だった。あの場で何を言えというのだ」
ライスは驚いたように目を見開き、それから笑い出した。
「国際会議では、あれほど大胆な要求を平然と口にする人が? 私に一言、会えて嬉しいと言う方が難しかったのね。2008年の私は、あなたが私を女性としても見ていることには気づいていた。でも、その気持ちに応える道を選ばなかった。あの頃から写真を集めているとまでは考えもしなかったわ。2011年にアルバムの報道を見たとき、胸が苦しくなったのを覚えている」
「君に会えて嬉しいと思ったのは事実だ。しかし、私は言葉を選び損ねると取り返しがつかなくなることも知っていた。革命の演説ならいくらでもできるのに、好きな女性の前では妙に慎重になる。自分でも気に入らない話だ」
ライスは彼の胸に手を置いた。戸棚にあった2008年の冊子が、二人の傍らに浮かんでいる。
「私はね、あの棚を開けた日に泣いたの。悲しかったからだけじゃないわ。長く暮らして、もう互いのことは十分知っているつもりだった。でも、あなたが私を見つめていた時間は、私が考えていたよりずっと長かった。それを最後まで隠すなんて、いかにもあなたらしい。嬉しかったのよ」
「君の写真を3枚ずつ残していたのは、いい加減な保管が嫌だったからだ。正面、予備、保存用。何十年も扱う資料なら当然だろう」
「もう言い訳は結構。お礼は受け取ってちょうだい。ありがとう、ムアンマル。私も、あなたが気づかないうちに何度もあなたの顔を見ていたわ」
彼はようやく笑った。
「最初は君のことを知りたかった。そのうち、君が今日どんな顔で帰るのかを待つようになった。君が隣にいる時は安心し、いない時には帰ってくる時間を気にした。どこからが愛だったかと聞かれても、境目は分からない。それでも今は、私が君を愛していたことを確かに知っている」
ライスは彼の手を握り、少し考えてから答えた。
「最初の人生で、あなたが私を好きだと気づいても、私はそのままアメリカへ帰った。2011年にあなたの寝室のアルバムを見て、あのとき声をかけていたらと考えたの。やり直しの人生を与えられて、私は自分の意志であなたの手を握った。初めはあなたとリビアを救いたかった。でも長く一緒に生きるうちに、国の仕事が終わってもあなたの隣にいたいと思った。あなたが残した学校も病院も、外交の仕事も続いている。それを2人で見届けられたのが、私は嬉しいわ」
答えを急ぐ必要はなかった。2人の前に広がった映像では、いつもの列車が新しい駅へ向かっていた。
二人は手をつないで歩き出した。神は何も語らず、遠くで見ていた。
しばらくすると、ライスが立ち止まった。
「それで、2007年の最初の写真を見せてくれる? あなたが私のどんな顔を好きになったのか、今度は私も知っておきたいの」
カダフィーは神を見た。神が黙って手を上げると、白い空間に写真が一枚浮かんだ。
ライスが笑う。カダフィーも、もう隠さずに笑った。
列車は砂漠を走り続けた。
【作品注記】
本作は史実を出発点とする架空改変史です。実在人物の私的な発言・婚姻、後半の外交・軍事事件などには創作を含みます。




