史実と架空部分について 付録資料集
第7章 史実と資料から見た『カダフィーとライス』
【本章について】
本編第1章から第6章では、たった1人の女性の選択を起点に、リビアと世界の歴史が別の道へ進んだ。ここでは、その出発点になった実際の人物、事件、制度、技術を紹介する。
本文で描いた人物の会話や意思決定のすべてが文書で記録されているわけではない。実在の出来事と時代背景を骨格に置き、歴史上の空白には作者の想像を加えている。神による時間の巻き戻し、結婚、架空の経済政策や軍事事故については、本作独自の歴史である。
――国と社会――
1.カダフィー政権下のリビアは、石油収入を公共事業、学校、医療、都市施設などに配分していた。教育は初等段階から大学まで原則無償で、公的医療も無料提供を掲げた。産油国の富が国民生活を支える仕組みは、本作の国家建設の出発点である。実際の医療サービスの質や提供状況には地域や設備による差もあったが、無料教育・無料医療という基本政策は実在した。第2の人生では、その制度をカダフィー本人の死後も続く法律と予算に組み込む過程を描いた。
2.リビアは1951年12月24日に独立し、1969年9月1日に国王イドリース1世の政権が倒された。米軍が使用していたウィーラス空軍基地は1970年6月11日にリビアへ返還された。基地返還は米国務省の外交文書で確認できる。1977年3月2日の人民主権宣言、2003年12月19日の大量破壊兵器計画放棄表明も、カダフィーの国家運営を考えるうえで重要な節目である。[A05]
3.アメリカとリビアの外交関係は、2006年5月に全面的に回復した。2008年9月5~6日には、コンドリーザ・ライス国務長官がトリポリを訪れ、カダフィーと会談している。カダフィーは2009年2月から2010年1月までアフリカ連合の議長を務めた。本作が描く2人の再会とリビアの国際的役割には、こうした実際の外交関係が土台にある。[A01][A02][A03]
4.アメリカのレーガン大統領がカダフィーに「中東の狂犬」という表現を用いたのは、1986年4月9日の記者会見だった。同年4月14~15日には米軍がリビアを空爆した。作品冒頭に描く国際的な悪評の背景には、長く続いた対立の歴史がある。[A04]
――2人の出発点――
5.2011年8月24日、トリポリのバーブ・アル=アジジーヤ複合施設を占拠した反体制派が、コンドリーザ・ライスの写真を集めたアルバムを発見した。AP写真と複数の通信社によって報道されている。カダフィーが以前からライスへの個人的な好意を口にしていたことも当時の報道に残る。アルバムがこの物語を着想する直接のきっかけとなった。[A08]
6.一方、2008年の訪問時にライスが抱いた個人的な感情、2人が互いの気持ちをどこまで理解していたか、手を取らなかったことへの後悔などは小説として描いた。ライスが寿命を終えてカダフィーと再会し、2010年に戻って「私と一緒にアメリカへ来ない?」と誘うところから、別の歴史が始まる。旧約聖書をともに用いるイスラム教とキリスト教の神を同じ存在として語る死後の面談も、本作の世界設定である。
――大学で語られる近現代史――
7.ガマール・アブドゥル=ナセルは1952年の自由将校団革命に関わり、1956年7月26日にスエズ運河会社の国有化を宣言した。英国・フランス・イスラエルとの武力衝突は、運河をめぐる権益と主権の争いから発展した。国有化を定める法令はスエズ運河庁の資料に残っている。[A06]
8.パレスチナ解放機構(PLO)は1964年に設立され、ヤーセル・アラファトは1969年にその議長に就いた。1974年10月28日のラバト・アラブ首脳会議はPLOをパレスチナ人の正統な代表として位置付け、同年11月にアラファトは国連総会で演説した。スタンフォード大学でカダフィーがこれらの人物をどう評価したかは、実際の政治的出来事を材料にした小説独自の講義である。[A07]
9.スターリン、チトー、ムッソリーニ、ヒトラー、ガンジーをめぐる講義も、実際の事件や政策を踏まえている。ただし、カダフィーが各人物を比較し、学生にどう語ったかという発言そのものは作者が構成した。
――石油を工業と交通へ変える――
10.リビアは以前からソ連・ロシア製の戦闘機やフランス製のミラージュなど、多国籍の航空装備を導入してきた。整備用設備、部品、技術者教育、検査認証の問題が発生するのは、その保有経緯があるためである。作中のロシア・フランスとの大規模整備事業や、イスラエル製電子機器を組み合わせる国際工業団地は、現実の軍需産業を出発点に組み上げた架空史である。
11.1970年、カダフィーの側近アブドルサラーム・ジャルードが毛沢東・周恩来体制下の中国へ渡り、核兵器・核分野の協力を求めたと伝えられている。周恩来が中国の核兵器不売の方針を伝え、供与を認めなかったという経緯は、複数の研究で扱われている。中国の石油・鉄道・科学技術をめぐるリビアとの交渉は、その後も続いた。本作では、2010年に中国政府の正式な承認を持たない高官が逆に核兵器を売り込む。帰国後の高官の処分と「多くの国民の身体の中で生きています」という結末は、小説上の出来事である。
12.2004年10月20日、川崎重工業は中国の四方車両と共同で、中国鉄道部向けの高速車両60編成480両を受注した。基本となったのはJR東日本のE2系新幹線で、中国での製造に向けた技術移転も契約に含まれていた。この関係を知らなければ、リビア向け中国製高速列車に川崎重工業の名前が出てくる意味は理解しにくい。[A09]
13.川崎重工業の対中技術移転にJR東海が強く反発したことは、2010年当時の雑誌や後年の取材記事で報じられている。会社による公式コメントとは別に、実際の受発注関係の推移が業界記事のテーマとなっている。本作のCRH400Liと砂漠仕様の高性能空調、JR東海側がリビア向け事業に反応する展開は創作だが、企業間の緊張には史実の背景がある。[A10][A11]
14.トリポリ―ベンガジ高速鉄道、CRH400Li、川崎重工業製の専用空調、国家的Street View政策、日本ブランド四輪駆動車の国内組立て、リビア国家継続章とライスの儀礼服は、作中の新しい歴史で実現した事業である。実在企業の名前を用いるときも、過去の調達や技術移転から、その企業が関係する理由を本文中に示している。
――2011年の分岐――
15.史実の2011年3月11日に東日本大震災が起き、米第7艦隊などはトモダチ作戦で日本の救援活動に参加した。一方、本作では津波の規模が史実を大きく上回り、真珠湾やサンフランシスコ湾も甚大な被害を受ける。リビア、イラン、タイの救援隊が参加する展開も、この時間線の出来事である。[A12]
16.史実では2011年3月17日に国連安全保障理事会決議1973が採択され、米軍とフランス軍を含む多国籍軍がリビアで軍事行動を行った。本作では米第6艦隊が大規模災害の救援に向かう途中で反転を命じられ、米空母に原子炉事故が起き、フランス空母シャルル・ド・ゴールは事故によってシドラ湾に沈む。フランス空軍の給油機も故障してリビアへ降り、ウクライナのAn-225によって引き取られる。これらの事故と後始末、CIAやフランス側の秘密記録が中国によって公開される展開は、本作の架空改変である。
17.1999年5月、ベオグラードの中国大使館が米軍の爆撃を受け、中国人3人が死亡した。米国は目標の同定に誤りがあったと説明した。本作に登場するリビアの中国大使館への誤爆と、中国側の情報公開には、この事件の記憶が背景として使われている。ただし、2011年の大使館誤爆は本作独自の出来事である。
18.2020年4月20日、WTI原油の5月限先物は一時1バレル当たり-40ドル台まで下がり、終値は-37.63ドルとなった。原油の現物をすぐ大量に引き取れば誰でも利益を得られたという意味ではなく、先物の受渡し条件と貯蔵設備が価格を左右した事件である。カダフィーが貯蔵タンクと輸送枠を早期に確保し、危機を事業機会に変える展開は創作である。[A13]
――最後に残る国――
19.史実のリビアでは、2011年以後、政治的分裂、武装勢力の対立、公共サービスの停滞などが続いた。本編は、カダフィーとライスの選択によってその歴史が変わり、無償教育・無償医療が本人の死後も維持され、リビアがアラブ諸国とアフリカ諸国を結ぶ政治的役割を後継政権へ引き継ぐ結末を描く。これは実在した政策と外交活動を出発点にした、本作の到達点である。
20.作品の核となるのは、軍隊や資金を用意したから歴史が変わったという話ではない。1人の女性が、かつて選ばなかった生き方を自分の意志で選び直したこと。その小さな決断が、国家を維持するための時間と制度を生んだ。この点だけは、どの外交記録を探してももちろん答えは載っていない。
――主な参照資料とリンク――
以下は閲覧先を確認した資料である。媒体によっては記事の後半に会員登録が必要であり、将来のサイト改修によってURLが変わる場合もある。機関名と資料名を併記したのは、リンクが変わったときに再検索できるようにするためである。
A01.米国務省・外交史室――米国とリビアの外交関係、2006年の全面回復
https://history.state.gov/countries/libya
A02.米国務省・外交史室――コンドリーザ・ライスの2008年9月5~6日トリポリ訪問
https://history.state.gov/departmenthistory/travels/secretary/libya
A03.アフリカ連合――歴代議長一覧、カダフィーの2009~2010年の任期
https://au.int/en/page/au-chairperson
A04.レーガン大統領図書館――1986年4月9日記者会見、カダフィーへの呼称
https://www.reaganlibrary.gov/archives/speech/presidents-news-conference-26
A05.米国務省 FRUS――1970年6月11日のウィーラス空軍基地返還
https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1969-76ve05p2/d60
A06.スエズ運河庁――1956年7月26日の運河国有化法令
https://www.suezcanal.gov.eg/English/About/CanalTreatiesAndDecrees/Pages/NationalizationDecree.aspx
A07.Economic Cooperation Foundation――1974年ラバト・アラブ首脳会議でのPLOの位置付け
https://ecf.org.il/issues/issue/85
A08.CBS News(AP写真)――2011年8月24日に発見されたライス写真アルバム
https://www.cbsnews.com/news/condoleezza-rice-photos-found-in-qaddafis-compound/
A09.川崎重工業――2004年の中国向け高速車両480両の受注・技術移転
https://global.kawasaki.com/en/corp/newsroom/news/detail/ba041020.html
A10.FACTA 2010年6月号――川崎重工業の技術移転に対するJR東海の反発を報道
https://facta.co.jp/article/201006026.html
A11.東洋経済オンライン 2018年3月12日――JR東海・川崎重工業・中国高速鉄道の関係を検証
https://toyokeizai.net/articles/-/211939
A12.米第7艦隊・米太平洋艦隊――2011年3月のトモダチ作戦、救援活動
https://www.cpf.navy.mil/Newsroom/News/Article/2757654/7th-fleet-relief-support-update-march-28/
A13.米国エネルギー情報局(EIA)――2020年4月20日のWTI期近先物終値-37.63ドル
https://www.eia.gov/TODAYINENERGY/detail.php?id=43875
【調査に使ったが、オンライン資料として個別URLを付けていないもの】
・世界銀行『Survey of ICT and Education in Africa: Libya Country Report』(2007年)。教育制度の状況を確認するための刊行資料。
・世界保健機関のリビア保健医療報告。公的医療制度と供給体制の歴史を知る資料。
・国連安保理決議1973および1974年のPLO関連文書。公式の文書番号から検索できる。
・ジャルードの中国訪問に関する近現代史・核拡散研究の記述。研究書の書誌を参照する。
・作者がインターネット普及前に受信した北京放送の内容についての記憶。これはウェブ検索で再現できる資料とは別に扱う。




