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第5話 国家を運ぶ列車

第5話 国家を運ぶ列車


2011年の夏、コンドリーザはリビアへ渡った。夫は同行せず、現地の予定表には学校、診療所、港湾、技術訓練所を並べた。カダフィーが国家の全体像を思い浮かべるとき、彼女はその中で一人ずつ違う仕事をしている人間を見てみたかった。


最初に訪ねた東部の公立病院は、外壁こそ塗り直されていたものの、廊下の奥で古い空調機がうなっていた。診察券を確かめる人々は、彼女が誰なのか気づくまで順番を待つ方に忙しかった。病院長は、交換する予定の装置が港で通関を止められていると話した。書類上の品目が途中で変えられ、病院側が追加の申告を求められているのだという。


ライスは工事の工程表と積み荷の番号を確認した。大臣へ電話をかけて怒鳴れば、その場は早く片づくかもしれない。しかし、次の輸入装置でも同じ問題が起きるなら、病院にとって何も解決しない。彼女は港の担当者へ連絡し、何を根拠に分類を変えたのか、書類はどの部署で止まっているのかを順番に確かめた。病院長には、翌日までに必要な申請書を写して届けると約束した。


「私の夫は新しい鉄道がどこまでできたか、毎朝でも聞きたがるわ。でも病院にある機械だって、動かなければ患者を困らせるでしょう。今日は大臣の新しい演説より、こちらの装置がいつ使えるようになるかを確認したいの。設備の更新費を出しただけで仕事が終わったとは考えたくないわ」


見学の最後、看護師が彼女へ、砂漠を走る列車には立派な冷房を入れると聞いた、と話した。ライスは頷き、病院にも同じくらい長く保守できる装置が必要だと答えた。看護師は、ぜひ大佐へ伝えてほしいと言い、ライスはきちんと伝えると約束した。


翌日、ライスは技術学校を訪れた。ロシア製航空機の整備課程へ進みたい女子学生が、工具箱の中身を並べ、校内実習で起きた測定誤差について質問した。隣の学生はイスラエル製レーダーの校正に興味があると言う。ライスは、装置の出身国が違っても、正しい測定と記録を残す責任は変わらないと説明した。彼女自身がすべての工具を扱えるわけではない。だからこそ、分からないことを現場の技術者へ尋ねる姿勢を忘れないようにしていた。


港の問題が片づくと、最初に渡された書類の中から不審な命令も見つかった。地方の治安担当幹部が、病院や商店の関係者へ不必要な出頭を繰り返し求め、拒む者に営業上の不利益を与えていた。ライスは証言を記録し、関係者を保護できる正式な窓口へ提出した。夫にも事情を伝えたが、地方の誰かを名指しして処分させるより、被害を訴えた人々の仕事が続くことを優先した。


その幹部についての行政調査が始まる前に、砂漠の道路で消息が途絶えたという知らせが入った。公用車が故障し、連絡が届かないまま、遠隔地の捜索隊が車体を見つけたときには手遅れだった。事故記録には、荒れた路面と車両故障、救援要請の不達が並んだ。ライスはその報告にも目を通したが、病院の通関書類と職員の保護を片づける方に時間を使った。


フロリダの夫へ電話すると、彼は病院の空調機の件を聞いて、医療省へすでに連絡を入れたと答えた。


「省庁へ言うだけでは足りないのよ。私は港の記録と、病院が持っている申告書を見たわ。今回の荷物が着いても、次の装置が同じ理由で止まるなら、また患者が困る。あなたには、省庁を一度だけ動かすより、毎回同じ手順で届く仕組みを作ってほしいの」


「君が現地へ行くと、私の大臣たちは書類の山から逃げられなくなるな。よいことだ。だが、もう数日も顔を見ていない。仕事の報告を受け取るのは君が帰ってからでもよいと思っている」


彼女は自分の予定を確かめ、明後日には戻ると答えた。受話器を置いたあと、彼が本当に待っているのは資料ではなく自分だと分かり、少し嬉しくなった。


*


リビア側が空母の撤去期限を切らなかったのは、フランスに好きなだけ海底へ放置させるためではなかった。事故の規模を考えれば引き揚げ計画には調査、特殊船の手配、海上保険、原子炉区画の安全確認が必要になる。実現できない期限を切るより、フランスが作業を始める条件をリビアとの交渉によって確定させる。その一方で、イタリア、チュニジア、エジプト、マルタがそれぞれの沿岸と漁業を理由に期限を求めている。カダフィーは、他国の政府に代わって期限を緩める約束をする権限がないこともよく承知していた。


フランスとの交渉は、原子力空母の引き揚げと環境調査の手順へ移っていた。リビアは作業海域への立ち入りを許し、沿岸国の技術者が海水と底質の調査へ参加した。期限を厳しく求めたのはイタリア、チュニジア、エジプト、マルタであり、カダフィーは期限を切らない姿勢を変えなかった。


フランスの代表団はサルベージ費用と保険、環境調査の負担を一緒に説明しようとした。ライスは資料を分けて並べ、それぞれの責任者と支払期限を確認した。相手が長く話すほど、分類の混同もよく見える。カダフィーは時に相手へ好きなだけ話をさせ、長い沈黙の後で、肝心の問いを1つだけ戻した。


「大きな船だということは、沈んだ時から分かっている。曳航や引き揚げの技術について、私が机から命令を出しても早くなるものではない。必要な調査は認めるし、撤去に要る時間も相談する。しかし、あの艦をリビアの海底へ置いたままにするという選択肢だけは、最初から存在しない。その条件で準備を進めていただきたい」


帰りの車でライスは、夫が相手の説明を聞いている間に、すでに次の交渉条件を考えていたことを指摘した。カダフィーは、フランス側にも事情を話す時間が必要だと答えた。ライスは、事情を聞くのはよいけれど休みの日まで会議を増やさないで、と頼んだ。彼は笑い、翌日の会議を午後からに変更した。


*


戦争の危険が遠ざかっても、ライスの手帳は空白にならなかった。次に彼女が調べたのは、国家の上から見えない部分だった。


地方政府が受け取る予算は、中央のどの書類を通っているのか。病院に届く薬は、港を出てから何日で診療所に着くのか。港で足止めされた車両の所有者は、誰へ申し立てればよいのか。議会で決まった手当が、遠い村にいつ届くのか。


彼女は夫に表を示した。


「あなたは飛行機のエンジンの部品が遅れれば、すぐ気づくでしょう」


「工場が止まるからな」


「病院の酸素ボンベが遅れても、同じくらい早く分かる仕組みが必要よ」


「担当大臣を呼ぶ」


「担当大臣がいない日にも動く仕組みを作るの。あなたが熱を出して寝ている日にも」


カダフィーは表を眺め、赤い鉛筆を取った。診療所と物流センターを結ぶ線の上に、数字を書き足した。


「届けるまでの日数を公開する」


「ええ。遅れが見えるようにする」


「数字を偽れば」


「病院側の受領記録と照合する」


「それでも嘘はつく」


「だから複数の人が見られるのよ」


2人は同じ紙の両側へ、それぞれ別の字で書き込んだ。ライスは時々、夫の字が読めずに本人へ聞いた。カダフィーは彼女の表の細かさに文句を言いながら、数字だけは正確に写した。


その夜、彼女は久しぶりにピアノを弾いた。夫は隣室で何か書いている音を立てていたが、曲が終わるころには扉の横に立っていた。


「会議は終わった?」


「終わった。君が弾く曲を聴く」


「楽譜を持ってきて。2曲目を弾くわ」


彼は素直に取りに行った。国家指導者に命令を聞かせることが難しいと感じた時期もあったが、今は楽譜なら持ってきてくれる。


*


高速鉄道の契約書が実際の列車になるまでには、華やかな首脳会談の何倍もの事務仕事があった。2011年の災害と軍事危機で海外の部材輸送が滞ると、中国側の工程表も一度見直された。リビアでは用地の測量、沿岸の塩害対策、砂が吹き込む区間の施設保護、変電所の系統接続を順番に進めた。試験線の段階では車両だけの速度を出しても営業許可にはならない。信号の設定、非常時の避難、駅での空調の回復能力、車椅子の乗降、整備要員の資格まで審査対象となった。


川崎重工業が受け持つ空調装置には、真夏の車内温度の測定記録と交換部品の供給期限を契約上の検査項目に入れた。中国側の車両製造責任と日本側の機器供給責任を分けたうえで、双方の境目を共同試験する。2010年にJR東海との関係を心配した日本の業界関係者が注目したのも、そこでどの設計情報が移るのかという問題だった。リビア側の担当者は、新しい技術移転を誰かの善意で行わせるつもりはなく、契約で許された範囲を一件ずつ記録した。


駅の位置は政治問題にもなった。トリポリとベンガジを結べば終わりという路線図では、途中の町が線路の脇に取り残される。旅客が乗り換えるバス路線、沿線の診療所、地方の港へつなぐ道路を直す予算も加えられた。ライスは自分が視察した病院の搬送記録を示し、カダフィーは工事担当者へ、町の外れに駅だけ建てて人を歩かせる計画は持ってくるなと命じた。


2015年、沿岸を東西に結ぶ高速鉄道が開業した。


トリポリ駅の出発案内にはベンガジの名が表示され、改札口には大学へ通う学生と、病院の予約票を持つ老人と、家族を訪ねるために荷物を抱えた人々が並んだ。駅前広場の以前の姿も、Google Map carが残した道路画像で誰でも確かめられた。整地前の砂地、資材を積んだトラック、基礎工事、完成した歩道橋。写真の連続は、国家が『建設した』と言うだけの広報より確かな履歴になっていた。カダフィーが工事を命じた当初、鉄道の価値を速度だけで説明する政治家もいた。しかし開業後に変わったのは、2つの都市の距離だけではなかった。


東部の工場は西部の技術学校から卒業生を採用し、ベンガジの商人はトリポリの港の取扱状況を見て仕入れを決めた。中央政府の予算が現場へ届いているか、列車の時刻表と駅舎が誰にでも示してくれる。約束の期限を過ぎても何もできないという政治的な不満には、毎日動く公共事業という具体的な答えがあった。


開業式に来たカダフィーは、最高速度を掲げた案内板の前で、運転士と保守担当者へ時間を取った。故障の記録はどの部署が受け取り、沿岸の砂塵が強い区間ではフィルターの交換をどう計画しているか。保守担当者が答えると、カダフィーは車両の製造企業と空調設備の供給企業で連絡が途切れないよう念を押した。


ライスはその会話を聞き、沿線病院の職員が持ってきた患者輸送の資料に目を通していた。開業を祝う席に来たはずなのに、車椅子の利用者が各駅で乗り降りする時間をどれだけ取るかが気になったのだ。職員は、時刻表の余裕を増やすと到着が遅くなるという。ライスは、途中で乗せられない列車が目的地へ数分早く着いても、それは患者にとって役に立たない、と答えた。


式が終わり、2人は試乗列車の窓際に並んだ。砂漠の明るい地平線の向こうに、新しい住宅地と倉庫群が現れる。カダフィーは、沿岸の都市を結ぶことで国内の部族間の距離も縮まると考えていた。


「私は鉄道を通せば、東部と西部の政治がすぐ同じになると思っているわけではない。だが人が毎日行き来し、商売の相手が増えれば、国の分裂を望む者も簡単な説明だけでは人を集められなくなる。国境の線は一度引けば残る。人の行き来は、毎日つくり直さなければならない」


「あなたが列車を好きなのはよく分かったわ。でも、私が最初に知りたいのは維持費よ。橋もトンネルも空調も、何十年と直し続ける必要がある。大臣が変わっても点検記録と予算が続くようにしておいて。あなたが駅に立つたびに保守担当者が走ってくるのでは、国の鉄道として長続きしないでしょう」


カダフィーは、今度は予算を検査する議会があると答えた。その言い方には誇りがあったが、ライスは少し笑った。議会に議決を委ねながら、本人がその議決を気に入らないこともある。彼女はその矛盾を、今では夫が変わってきた証拠として見ていた。


窓の外を白い撮影車が走っていた。Street Viewの撮影を始めた頃、役所の者は道路の写真に何の価値があるのかと首をひねった。いまでは開業前後の画像が保存され、駅が建つ前の荒れた土地を誰でも見られる。


カダフィーは、沿線の光景をもう1枚撮っておきたいと言い、カメラを構えた。しかし、撮影しようとした対象は列車の窓ではなく、そこに映った妻の横顔だった。ライスが気づいて向き直ると、彼は何事もなかったように車両の資料を撮ったふりをした。


*


高速鉄道が開通してしばらくすると、ライスは夫を伴わず、南部の技術学校を訪ねた。学校には鉄道の保線、発電設備の保守、病院機器の整備を学ぶ学生がいた。教室の掲示板に貼られていたのは、国際企業の広告より、卒業生がどの職場へ進んだかという一覧だった。


ある教員は、政府が設備を揃えても、学生が卒業後に首都へ集中してしまうことを悩んでいた。南部の町で育った若者が地元へ戻れば、病院や発電所の人員不足が緩和される。しかし仕事の種類も給与も首都の方が多い。


ライスは、学生の希望を聞く前に、教員の考える理想の配置を押し付けたくなかった。彼女は昼食後に学生を集め、どんな仕事をしたいかと聞いた。故郷の病院の機械を直したいという学生も、ベンガジの工場へ行きたいという学生もいた。外国へ留学して新しい資格を取った後、数年たってから帰りたいという学生もいた。


「国の設備を守る人を増やしたいのは分かるわ。でも、教育を受けた人に好きな仕事を選ぶ余地があることも、良い国の条件でしょう。南部へ戻ってもらいたければ、地元で働く技術者にどんな訓練や昇進の機会があるか、学校と企業が一緒に考えなくてはね」


校長は、政府の高官へ訴えるつもりで準備していた要望書を差し出した。ライスは受け取り、夫に渡すと約束した。ただし彼女はその前に、地元の工場と病院の責任者にも同じ資料を読んでもらうよう勧めた。大統領の机から仕事を作るより、働く人々自身の需要を確認する方が長続きすると考えたからだ。


夜、フロリダへ電話をするとカダフィーが出た。彼女は学校の印象を話した。国家が技術者を育てても、本人が望む職場へ移れるようにするのは難しいという話になると、夫はしばらく黙った。


「君は国中に学校を増やせと言っているのか。新しい学校を造るなら、教師も設備も必要になる。私はその支出を止めるつもりはないが、工場からの求人がなければ卒業生は困るぞ」


「だから学校の数だけ決める会議にはしたくないの。就職先になる工場や病院の人にも来てもらうわ。あなたも出席していいけれど、最初から答えを言わないで。学生が何を希望しているか、まず聞いてほしいの」


カダフィーは、自分が聞く側へ回るのはいつだって難しいと言った。ライスは、それでも以前よりはずいぶん上手になったわ、と答えた。彼女が電話を切ったあと、学校の校長へ送る次の書類を用意した。夫は夫の会議を進める。自分は自分の目で見た現場の問題を、翌日の仕事につなげるつもりだった。


*


国家継続章という新しい勲章が作られたとき、ライスは授与通知を最初から最後まで読んだ。文面には、2011年の国家危機回避だけでなく、行政手続きの改善、教育と産業の国際的な連携が列記されていた。彼女は選考委員会の名簿を眺め、夫が何も関わっていないはずはないと考えた。


夕食後、ライスは通知をカダフィーへ渡した。


「私にはこの勲章があなたの発案に思えるの。もちろん議会が決めたのでしょうけれど、あなたが自分の名前で授けるなら私は遠慮したかもしれない。それが『国家継続』という言葉なのが気になるわ。あなたは、いつから国が指導者より長く続く必要を、ここまで真面目に考えるようになったの?」


「死んだあとに国を見た日からだ。君は2010年に戻るべきだと言った。私は41年を使えばもっと確実に国を作り直せると思っていた。だが、君が指摘したとおり、長い時間があっても同じやり方を続ければ失敗も積み重なる。私がいなくても動く国を造る。そのために働いてきた人間の名を、国として残しておきたい」


ライスはしばらく返事をしなかった。勲章より、彼が自分の死後の話を平然とすることにまだ慣れていなかった。彼は彼女の気持ちに気づき、話題を授与式の服装へ移した。濃紺のスーツなら勲章がよく映えると言われ、ライスは、その色を選ぶのは自分だと宣言した。


授与式の日、ライスは濃紺の儀礼服を着た。カダフィーは祝辞を短めにまとめ、国家の仕事を個人の愛情と混同しないよう、自分なりに努力した。ライスは壇上で国への感謝を述べ、奨学金を受けて技術学校に通う若者たちの名前を挙げた。


式の後、写真係が何枚も撮影した。カダフィーはさらに2枚撮るよう頼み、ライスは怪訝な顔をした。彼は保存用だと説明したが、それほど枚数が必要な理由までは話さなかった。


*


2015年の開業後も、鉄道会社には車輪と軌道の保守、変電所の更新、空調の故障記録が積み重なった。国の財政当局は学校・医療・交通の経常費を一枚の表へ並べ、石油収入の変動が起きても設備を止めないための準備金を議論するようになった。カダフィーは、工事の決定権を譲るより、その支出を議会に説明する仕事の方が難しいとこぼした。ライスは、書類に署名する者が違っても、病院の窓口が翌朝開くなら成功だと答えた。


2020年、リビアの1人当たりGDPが日本を上回ったというニュースが流れた。石油収入が多く人口が少ない国だから、数字だけの比較には注意がいる。それでも戦争によって油田も港も止まる未来を避け、教育、医療、鉄道、航空機整備、電子機器、車両生産が続いていることを、リビアの人々は誇りに思った。


カダフィーは切り抜きを机へ置き、日本の数字を越えたと満足そうに告げた。ライスは、比較する指標を選ぶのは政治家の得意技ね、と言ったものの、紙面に印刷された工場の写真を大切そうに見ていた。そこには、以前彼女が訪ねた技術訓練所の卒業生が写っていたからだ。


「彼女を覚えている? レーダーの校正室で、温度補償の説明をしてくれた人よ。何年も前は見習いだったのに、今では検査班の責任者になっているのね。こういう記事を読めるなら、あのとき工場へ行った意味があったと思えるわ」


「君が会った技術者は、たいてい君の方を覚えている。国家指導者が工場へ来れば報道陣が付く。しかし君は装置の故障記録や職員の教育年数を尋ねた。働いている人間には、そういう客の方が忘れられない」


ライスは記事を夫の方へ戻し、あなたも今は故障記録を聞くでしょう、と言った。カダフィーは、最初から聞いていたと主張した。彼女はその真偽を争わず、次の資料を開いた。


同じ年、世界は新たな感染症への対応で混乱した。航空便が減り、工場の調達が滞り、人の往来が制限される。リビアには、それまでに整えてきた病院と物流網があったが、医療用資材をどの地域へ優先して送るかという新しい課題が現れた。


夫婦は朝食の席でも配分表を眺め、議会の公聴会へ出す数字を確かめた。ライスは、遠くの村の診療所が同じ日に検査資材を受け取れるかを気にかけた。カダフィーは、道路が止まれば積み荷をどこへ迂回させるかを考えた。互いの視線は違うところを見ていたが、同じ人々の暮らしへ向かっていた。


4月20日、WTI原油の5月限先物が、ニューヨーク市場で1バレル当たりマイナス37.63ドルという終値を付けた。輸送も航空も大きく減った世界では、原油を採掘する設備より、それを引き取って保管する場所の方が先に足りなくなっていた。値段が負になるというニュースは、一般の人々には数字の間違いにしか見えなかった。


カダフィーの机には、すでに米国内のタンクの利用契約、クッシング周辺で引き渡される先物を現物で引き取る条件、パイプラインでの輸送枠、メキシコ湾岸へ原油を動かすための手配、大型タンカーの空き状況が並んでいた。彼はWTIのマイナス価格が「世界中の原油が負の価値になった」という意味ではなく、決済期日までに指定地点で現物を受け取れない売り手が支払いをしてでも契約を手放す問題だと理解していた。彼は需要が落ち始めた段階で、原油価格より貯蔵施設の確保を重視した。中国企業にはリビア国内の貯油基地の増設を相談し、海上輸送の費用まで含めて計算させていた。


ライスは契約書を読み、夫に確認した。リビアには自国の油田があり、これからも原油を生産できる。それなのに、どうして米国で原油を買うのか。


「君の言うとおりリビアの地下には原油がある。だからこそ、今すぐ無理に汲み上げる必要がない。米国では引き取ってもらいたい人間が金を払う。貯める場所と運ぶ手段を先に確保できるなら、買う側になった方がよい時期もある。原油が地面の中にあるというだけで、目の前の市場を見ない理由にはならないだろう」


「計算としては分かるわ。でも、貯蔵と輸送の費用を引いた後に何が残るか、私は見たいの。契約だけ増やして、引き取る設備が使えなければ損失になるでしょう。米国内で受け取る分と、リビアへ運ぶ分も分けて考えて。油田を持つ国が石油を買った、という見出しだけでは説明できない仕事よ」


「買うか買わないかを会議で延々と議論するために、貯蔵タンクを借りたのではない」とカダフィーは言った。「引渡し日と受入容量が一致する契約に限って買え。タンクが満杯なら、その日の価格がマイナス100ドルでも手を出すな。商品と一緒に問題まで買い込むな、と担当者には伝えてある。採るべき危険と避けるべき危険は、金額ではなく引渡しの義務で決まる」


カダフィーは準備した表を彼女へ渡した。引渡し地点ごとの費用、タンクの残容量、輸送に必要な日数、現金払いの条件が並んでいる。彼は価格が実際に負になることまで読んでいたわけではなかった。それでも、安くなる時期に貯蔵設備が足りなくなるという問題は見つけていたのだ。


米国の情報機関は、リビア政府系資金による米国エネルギー資産の取得を警戒する報告書を書いた。カダフィーは記者会見で、米国の生産者が契約に従って売り、自分たちは契約に従って買ったと説明した。市場が付けた値段を取引の後で気に入らないと言われても困る、という態度だった。


プーチンから電話が来た。ロシア製航空機の整備事業を結んだ仲間が、今度は米国の原油を買い込むとはどういうことか、と笑う声がした。カダフィーは、ロシアの原油も条件が合えば買うと答えた。プーチンは、せめて値段が正に戻ってから相談してくれと言い、2人はしばらく世界の需要について話した。


価格が戻り始めると、カダフィーは手持ちの原油を少しずつ市場へ戻した。リビアの油田に無理な増産を指示するより、貯蔵と販売の時機を選ぶことが重要だった。


その夜、ライスは決済を終えた書類の束を机に置いた。


「あなたと暮らしていると、昨日まで誰も買いたがらなかったものが、今日には商売の中心になるのね。私は次に何を買うのか、先に聞いておきたいわ。家の隣の土地まで貯油タンクにすると言い出したら、さすがに反対するから」


「フロリダの天幕の横へタンクを造るつもりはない。君がピアノを弾く部屋に石油の匂いが入ったら、私は長い会議を終えて帰る場所を失う。それは今回の取引で最も大きな損失だ」


ライスは思わず笑った。夫も笑い、今日の契約書をきれいにそろえて棚へ収めた。


その夜、彼女がピアノへ向かうと、彼はいつもの椅子へ座った。世界の数字は翌朝も変わり、新聞には新しい問題が載る。しかし演奏の間だけは、報告書を広げる音を立てずにいた。曲が終わるとカダフィーは、今日は最後の和音が少し長かったと言った。ライスは、長く聞いてほしかったのよ、と答えた。


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