序 縁が切れたあとに残るもの
婚約を破棄するとき、人は短い言葉を好む。
心が変わった。縁がなかった。ほかに愛する者ができた。
その言葉を書き取るには、紙は一枚も要らない。ところが、そのあとに運ばれてくる記録は、たいてい箱に入っている。指輪の受取書、婚礼の支度に払った銭の控え、貸した畑の地券、まだ返されていない麦の証文。言葉を口にした者が、箱の大きさに驚くこともある。私は、その箱を読む仕事をしている。
私はアデル・ロ・ハーゲン。法学士である。学都の法学院を出たあと、六年のあいだ、ある王都の天秤の民の自治区にある法の書庫で、テルバという年配のカノールのもとで写字と比較の仕事をした。いまは欽定緑律教団の神前法廷に付く履行検分人として、裁定が下ったあと、返すべきものが返されたか、支払うべきものが支払われたかを確かめて回っている。裁く者ではない。裁きのあとを歩く者である。
書庫には、いま行われている法も、滅んだ国の法もあった。師は、よくできた法ばかりを集めてはいなかった。なぜそのように定め、誰を守り、誰を困らせたか。それを確かめるには、失敗した法ほど多くを教える、というのが師の考えで、私は六年かけて、その考えに追いついた。婚姻にまつわる定めは、殊にそうである。家を守るために作られた一条が、その家で暮らす者を苦しめる。その苦しみを除こうとした別の一条が、今度はまだ生まれてもいない子の取り分を失わせる。一人分の善意では、量りきれぬことが多い。
この本は、諸国の婚約が解かれたあとの裁定を集めたものである。
婚約を解くことと、誓いを軽んずることとは、同じではない。取り決めた手順に従い、当事者が承知して解く約定もある。初めから当人の承知を欠いていたという争いもある。誰が、何を、誰に約したか。それを読む前に、破棄した者はすべて不実であると決めてかかれば、書庫の半分は読めなくなる。
逆に、心が変わったのだからすべてを初めに戻せる、と思うのも早い。相手の家から受け取った麦は、すでに人の腹に入っている。婚礼のために織らせた布には、織り手の冬が費やされている。二人が同じことに頷けば二人の縁は解けようが、その頷きだけで、別の者の冬までは返せない。
本書に、愛の真偽を量る秤は出てこない。
書庫にいたころ、それを期待して師を訪ねて来る者を何人も見た。あなたがたは嘘をつけないのだから、この人が私を愛しているか分かるでしょう、と。師は毎度、分からない、と答えた。嘘をつけぬことと、他人の胸の内を知ることとは、別の性質である。訪ねて来た者は、師がそう言うときだけ、師の言葉を疑った。私は人間で、嘘もつける身であるから、疑われるのには慣れている。だが、この一点については、師と同じ答えしか持っていない。
分かるのは、言った言葉と、残った証文と、その後にしたことの、互いに合うところと合わぬところまでである。この本も、その範囲を出ない。
裁きの仕組みにも、ひとつ注意を置く。
国の法廷は、その国の法と、当事者の約定を読んで裁く。その裁きに不服ある者には、欽定緑律教団の神前法廷が開かれている。そこでは、根源八法に背いておらぬか、公平に量られたか、踏むべき手順が踏まれたかが問われる。裁定者の手にも緑の茨が現れるのは、裁く者だけが律の外に立つことのないためである。
そして、人の定めた法そのものが歪んでいるなら、カノールが、その法の是非を検める。裁定者が一件の争いを裁く仕事と、カノールが法そのものを量る仕事と、私のように裁定のあとを確かめる仕事とは、それぞれ異なる仕事である。私はこの書の編者として、それらの記録を同じ棚に置くが、同じ名では呼ばない。
収めた案件では、先に争点を記し、次に証文を置いた。それから双方の申し立て、審理の抜き書き、裁定、履行の記録を続けた。私の考えは、編者考という名を付けて末尾に置いてある。裁定者の言葉に、あとから私の言葉を紛れ込ませぬためである。
金額と日付は、原本どうしを照らして確かめた。原本が食い違うところは、食い違うまま記した。証明されなかった噂は採らない。裁きに不要な奉公人や子供の名も、できる限り省いた。紙に名が残ることを、名誉とばかり考えてはならない。これは師の流儀で、私はまだ、それより良い流儀を知らない。
勝った者の請求が、すべて認められるとは限らない。負けた者が、その生涯の何もかもにおいて悪いとも限らない。その程度のことを忘れないために、私は判決のあとを調べる。もとより、それが私の役目でもある。返すべきものが返されたか。取り戻したものを、誰がどう使ったか。名を削られた者が、次の帳面にはどのような名で載ったか。
そこまで追うと、法廷の中では短かった話が、また長くなる。
最初の案件では、王太子が真実の愛を得たと告げた。
婚約を解く書に印が置かれた翌朝、別の家が、麦の返還を求めた。
いずれも、同じ婚約にかかわる、正確な記録である。
王国歴1664年 花冠の月 26の日
神前法廷 履行検分人詰所にて




