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「恋人のフリだけですから♡」と言った学校一のお嬢様が、毎日俺を本気で落としにくる。  作者: リディア


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第38話 【澪視点】恋人なら、本当の気持ちは隠してしまいますよね?

 重厚なアイアンゲートをくぐり、静まり返った私道を滑るように進んだ黒い高級車が、玄関の前で静かに停車した。


「おかえりなさいませ、お嬢様」


 ドアが開くと同時に、制服に身を包んだ使用人たちが深々とお辞儀をする。


「ただいま戻りました」


 私はどうにかそれだけを返し、靴を脱いで自室へと向かった。

 普段なら、どんなに疲れていても彼らに笑顔を返すのが、私の『完璧なお嬢様』としての当たり前の振る舞いだった。でも、今日ばかりは、その仮面を維持するだけの気力が、私のどこにも残っていなかった。


 静かすぎる廊下。高価な調度品。


 ここには、肉の焦げる香ばしい匂いも、クラスメイトたちの賑やかな笑い声も、何一つ存在しない。

 

 自分の部屋に入り、重い扉を閉める。

 大きなベッドに腰掛け、バッグを机の上に置いた。

 ふと、その隣に置かれた白い陶器が目に留まった。

 あのデートの日。結弦くんが『約束だから』と、不器用に、でも真っ直ぐな目で私に手渡してくれた、白猫のマグカップ。

 私はそっと手を伸ばし、その冷たい磁器の表面を両手で包み込んだ。


 ——俺が、もっと頑張る。


 昨日の夜、LAINに残された彼のその言葉を思い出す。


 その文字を見た時、私がどれほど救われたか、結弦くんはきっと知らない。

 結弦くんは、ただの優しくてお節介なクラスメイトだったはずなのに。

 私の家柄にも、私の仮面にも興味なんてなくて、ただ私が疲れて倒れそうな時に、黙ってほうじ茶を淹れてくれるような人だった。


 だから、甘えてしまった。


『恋人のフリ』という便利な言葉を盾にして、彼のもとに逃げ込んでしまった。


 その結果が、これです。


「……私の、わがままのせいで」


 ポツリと、誰もいない部屋に声が落ちた。

 私が彼を、こんな白鷺家の面倒な事情に巻き込んでしまったのだ。


 バーベキューで彼が見せた、あの呆然とした顔。お兄様の威圧感に言葉を失いながらも、私を守ろうとしてくれた、あの不器用な優しさ。


 結弦くんを、これ以上傷つけたくありません。

 普通なら、ここで身を引くべきなのだ。結弦くんのためを思えば、それが一番正しい選択だと、頭では分かっているんです。


 なのに。


「……嫌だなって思うのは、わがままなのでしょうか?」


 マグカップを握る指先に、ぎゅっと力がこもる。

 冷たい磁器の感触が、不思議とあの人の温度を思い出させた。


 旧校舎の裏庭で、私が初めて素顔を晒した時、彼は何も聞かずに黙ってほうじ茶を差し出してくれました。

 テスト勉強の時、ふざけてノートに『好き』と書いた私を見て、真っ赤になって慌てふためいていました。


 そして。


 花火大会の夜、人混みで迷子になった私を見つけて、汗だくになりながら、力強く私の手を握り直してくれました。


 ただのクラスメイトです。

 ただの偽装の恋人です。


 最初は、そのはずでした。

 

 でも、気づけば、彼の呆れたようなため息も、不器用な優しさも、少しだけ乱暴な手の引き方も。

 そのすべてが、私の心の一番柔らかい場所を、ぎゅっと掴んで離さないんです。


 ……本当にこの感情は、何なのでしょうか?


 彼が隣で笑ってくれないのなら、誰に褒められたって、お嬢様として完璧でいることに何の意味があるのでしょう。


 自分でも呆れるほど身勝手で、醜い感情。

 でも、これが、私が彼に対して抱いてしまった、嘘偽りのない本音です。


 トントン。


 短いノックの音が、私の思考を引き裂いた。


「澪。入るよ」


 お兄様です。

 ジャケットを脱ぎ、少しだけ疲れた顔をしたお兄様が、部屋の入り口に立っています。


「お兄様……」

「今日のことは、早く忘れなさい」


 お兄様の声は、どこまでも静かでした。私を叱るわけでもなく、怒鳴るわけでもない。


「高坂くんという男の子は、悪い子ではないようだね。彼の目を見れば、誠実な人間だということくらいは私にも分かる」

「では……!」


 私が思わず身を乗り出すと、お兄様は少しだけ目を伏せ、悲しそうに首を横に振った。


「だが、白鷺家は簡単な家ではない。彼のような普通の高校生が、背負いきれるほど生易しい世界ではないんだ。それは、彼にとっても不幸なことだよ」

「……」

「今日はもう、ゆっくり休み休みなさい」


 パタン、と静かにドアが閉まる。


 お兄様の、家族を想う優しさ。

 彼を巻き込むべきではないという、大人の正しさ。


 それが痛いほど分かるからこそ、反論できない自分の無力さが、鉛のように胸にのしかかってくる。


「……不幸だなんて」


 結弦くんと一緒にいる時間が、不幸なはずがありません。

 学校の隅で笑い合っている時、何気なくて温かいんですよ。


 私はベッドに崩れ落ち、シーツに顔を伏せた。

 視界の端で、机の上に置かれた白猫のマグカップがぼやけて滲む。


「……結弦くん」


 その名前を呼んだ瞬間でした。


 胸の奥で必死に閉じ込めていた何かが、音を立てて崩れ落ちる。

 私は慌てて口元を押さえました。

 

 声を漏らさないように。

 泣き声がお兄様に聞こえないように。

 それでも涙だけは、どうしても止まってくれませんでした。


 夕方。


 お湯を沸かし、私は一杯の紅茶を淹れました。

 使うのはもちろん、彼からもらった猫のマグカップです。

 温かい紅茶を、ゆっくりと口に含む。


「……美味しい」


 でも、喉を通る紅茶の味は、いつもよりずっと薄くて、全然味がしませんでした。

 なぜか、花火の日に繋いでくれた手の温もりより、ずっと冷たく感じました。


「何をしてるんでしょうか……」


 部屋の机の上に置いたスマホを見る。


 トーク画面の一番下にある、『俺がもっと頑張る』という、結弦くんからのメッセージを何度も目でなぞる。

 本当は、そんなに頑張らなくていいのに。

 私のために、そんなに無理をしないでほしいです。

 

 でも、そんな本音、今の私には送れませんでした。

 彼をこれ以上、白鷺家のどうしようもない事情に巻き込みたくなかったから。

 ここから先は、彼の手を離して、私一人で立たなければいけない。そうやって、心を冷たく凍らせようとしていた、その時でした。


 ——ピコン。


 静寂に包まれた部屋で、不意にスマホが短い通知音を鳴らしました。

 画面が光り、暗い部屋の中に一つの名前が浮かび上がります。


『何してる?』


 結弦くんからの、たった一言の短いメッセージ。


「っ……」


 それを見た瞬間、せっかく堪えていたはずの感情の堰が、音を立てて決壊しました。

 

 なんで、結弦くんはいつもそうなんでしょうか。

 私が一番心細くて、一番誰かに助けてほしいと思っている時に限って、まるで見透かしているかのように、当たり前の顔をして私の前に現れるんです。


「……結弦くんの、ばか」


 スマホを両手で強く握りしめたまま、私は声を震わせて泣きじゃくりました。

 画面の文字が、溢れ出す涙で滲んで見えなくなっていきます。


 彼を遠ざけなきゃいけないのに。

 彼の負担になりたくないのに。


 このメッセージ一つで、私の決意なんてあっさりと崩れ去ってしまう。

 私は、自分が思っていたよりもずっと、結弦くんのことが——。


 震える指先で、画面の涙を拭う。


 会いたい。

 今すぐに、結弦くんに会いたいです。

 私は、震える指先で、文字を打ち込み始めました。


『会いたいです』

 ——消した。そんなことを言ったら、彼を困らせてしまう。


『今日は、すごく寂しいです』

 ——消した。そんな弱音、彼の前でだけは言いたくない。


『声が聞きたいです』

 ——それも、消した。


 何度も、何度も文字を打っては消し、涙で画面が滲んでいく。

 最後に、私は精いっぱいの気持ちを込めて、たった一文だけを書き残した。


『紅茶飲んでます♡』


 送信ボタンを押す直前。

 いつもの『♡』のマークを付けるかどうか、私の指先は小さく震えて、しばらく迷った。


「……これくらいなら、許されますよね」


 そっと、送信。

 それは、私の胸の奥にある、どうしようもない愛おしさが、形を変えて溢れ出たものだった。


 スマホを机に置き、私は窓を開けた。

 部屋に入り込んでくる、ぬるい夏の風。

 遠くの空は、燃えるような茜色の夕焼けに染まっています。


 この広い空のどこかで、彼もまた、この同じ夕焼けを見ているのだろうか。


「……会いたいです」


 その声は、夕焼けに溶けていった。

 返事はない。

 届くはずもない。


 それでも私は、

 胸に抱いたスマホを、もう少しだけ強く抱き締めた。


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