第39話 恋人なら、覚悟くらい聞かれますよね?
夏休みの終盤。
自室で参考書と格闘していた俺のスマホが、不意に鳴った。
画面には、見知らぬ番号。
普段なら出ないところだが、なぜかこの時ばかりは、出なければならないという直感のようなものがあった。
「……はい」
『高坂結弦くんかな』
忘れたくても、忘れられるはずがない。あの時の、お兄さんの声だ。
『白鷺澪の兄です』
「……っ」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
あの日、高級車の前で立ち尽くした自分の無力さと悔しさが一瞬で脳裏を過り、握りしめたスマホが手汗で滑りそうになる。
『もし時間があるなら、一度話がしたい。……今日の午後二時。駅前のホテルラウンジで』
指定されたのは、高校生の俺が立ち入るには不釣り合いすぎる場所。
正直、断って逃げ出したかった。
でも、逃げたら、俺と澪の関係はそこで終わる。
『届かない相手と出会った時。逃げるか、頑張るかで……少しだけ変われる』
親父の言葉が、脳裏をよぎる。
「……分かりました。伺います」
午後二時。
人生で初めて足を踏み入れた高級ホテルのラウンジは、しんと静まり返っていた。
制服をビシッと着こなしたスタッフ。ふかふかの絨毯。静かに流れるクラシック音楽。
その空間のすべてが、ただの高校生である俺には場違いに感じられた。
お兄さんは、すでに奥の席に座っていた。
スーツではない。前回と同じような、仕立ての良い私服。それでも、彼がそこにいるだけで放つ圧倒的な存在感は健在だった。
「来てくれてありがとう。座ってくれ」
「……失礼します」
緊張で体がガチガチになっている俺を見て、お兄さんは少しだけ目元を緩めた。
「何を頼む? 好きなものでいいよ」
「あ、ええと……コーヒーで」
メニューを見る余裕すらなく、咄嗟にそう答えてしまった。
お兄さんは、ウェイターにコーヒーを二つ頼むと、小さく笑った。
「高校生は、苦いものが好きなのかな」
その一言で、張り詰めていた空気がほんの少しだけ柔らかくなった。
「……今日は、君に交際を反対するために呼んだわけじゃない」
コーヒーが運ばれてくると同時に、お兄さんが静かに口を開いた。
「え?」
「一つだけ。君に聞いておきたいことがあったんだ」
お兄さんは、真っ直ぐに俺の目を見た。
「君は。……澪をどう思っている?」
長い沈黙が落ちた。
ここで「好きです」と即答するのが、たぶん正解なのだろう。
でも、俺の中で渦巻くこの感情は、そんな一言で片付けられるほど単純なものじゃなかった。
「……分かりません」
俺は、正直に答えた。
「ただの恋人とか、そういう枠組みで括れるのか、自分でもまだ整理がついていなくて……」
俺は、一度言葉を切り、お兄さんの目を真っ直ぐに見返した。
「でも。……笑っていてほしいと、思います」
「……」
「俺の前では。無理をしてほしくない。ただ笑っていてほしい。……それだけは、本当です」
俺の答えを聞いて、お兄さんは少しだけ目を細めた。
「高坂くん」
お兄さんは、テーブルの上で両手を組み、静かに語り始めた。
「君は誠実な青年だ。努力もできる。澪を大切に思ってくれていることも、今の言葉でよく分かった」
「……」
「だが。……現実は、優しさだけでは変えられない」
お兄さんの言葉が、重く響く。
「世の中には、努力では届かないものもある。君はまだ十七歳だ。これからいくらでも世界は広がり、価値観も変わる。だから私は……君たちのこの恋が、永遠だとは思っていない」
反論できなかった。
彼の言う通りだ。永遠なんて、今の俺には証明する術がない。
「最後の質問だ」
お兄さんは、一段と真剣なトーンで言った。
「もし、澪が……白鷺家を捨ててでも、君と一緒にいると言い出したら。君は、それを受け入れるか?」
ドクン、と。
心臓が大きく跳ねた。
白鷺家を捨てる。
お嬢様という地位も、家族も、すべてを捨てて、俺を選ぶ。
……それは、ロマンチックな言葉に聞こえるかもしれない。
でも。俺は、即答できなかった。
少しだけ、考えた。
「……嫌です」
俺は、はっきりと答えた。
お兄さんが、少しだけ驚いたように眉を動かした。
「どうして?」
「俺は……澪に、何かを失ってほしくありません」
俺は両手を膝の上で強く握りしめ、言葉を紡いだ。
「家族も。白鷺家という家も。……澪には、自分の環境を全部、好きでいてほしいんです。俺といるために何かを犠牲にするなんて、そんなの、絶対に笑えない」
「……」
「だから。……俺が頑張ります」
俺は、再びお兄さんの目を見た。
「今の俺には、何もありません」
「それは、自分が一番分かっています」
一度だけ息を吸う。
「……でも」
「だから諦めるなんて、俺にはできません」
澪の隣で、胸を張って笑える男になりたい。
そのためなら。
今の俺にできることを、一つずつ積み重ねるしかない。
俺の言葉が終わっても、お兄さんはしばらく黙ったまま、コーヒーに口をつけていた。
怒らせただろうか。生意気だと思われただろうか。
やがて、お兄さんはカップを置き、静かに立ち上がった。
「……そうか」
「……」
「今日は、十分だ」
お兄さんはそう言って、俺に向かって右手を差し出した。
「高坂くん。……君は思っていたより、ずっと誠実な青年だった。ありがとう」
俺は慌てて立ち上がり、その手を握り返した。
バーベキューの時よりも、少しだけ柔らかく感じたのは、気のせいだろうか。
「……ありがとうございました」
ホテルを出ると、眩しい夏空が広がっていた。
俺は大きく、深呼吸をした。
勝ったわけじゃない。
交際を正式に認められたわけでもない。
俺がまだ無力な高校生である現実は、何一つ変わっていない。
でも。
逃げなかった。
俺はポケットからスマホを取り出し、LAINを開いた。
トーク画面。
『終わった』
——違う。心配かけるだけだ。
『今日は暑いな』
——能天気すぎる。
迷った末に、俺は短く打ち込んだ。
『勉強頑張ってる』
送信。
数秒後。
『結弦くんも♡』
とんちんかんな返信だったが、それが彼女らしいというか、なんというか。
俺はスマホの画面を見つめたまま、少しだけ笑った。
「……まだ、始まったばかりだ」
スマホをポケットに戻し、俺は歩き出した。
眩しくて、少しだけ目を細める。
ふと。
今頃澪は、何をしているだろうか。
紅茶でも飲んでいるのかもしれない。
あのマグカップで。
俺は、それだけを考えながら、夏の日差しの中を歩いた。




