第36話 恋人なら、笑っていてほしいですよね?
あのバーベキューの日から、数日が経っていた。
俺の机の上には、以前なら夏休みの終わりまで開かれることのなかった参考書とノートが積み上げられている。
シャーペンを動かし、英単語をノートに書き殴る。
だが、何度書いても、頭の中をよぎるのは、あの時の澪の背中だった。
……なんか、集中できてないな。
俺はため息をつき、シャーペンを置き、LAINの画面を開く。
あの日、『俺がもっと頑張る』と送って以来、澪からの連絡はない。俺からも、何を送ればいいのか分からず、ただ時間だけが過ぎていた。
ピコン♪
通知画面に表示された名前に、俺の心臓が大きく跳ねる。
『白鷺 澪』
『今日、お時間ありますか?』
俺は、考えるよりも先に指を動かしていた。
『ある。いつでもいい』
送信ボタンを押し、俺はクローゼットから一番マシな服を引っ張り出した。
待ち合わせは、初デートの時と同じ、駅前のからくり時計の前。
俺は十五分前に到着し、息を整えながら彼女を待った。
「——結弦くん」
声がして振り返る。
そこには、水色のワンピースを着た澪が立っていた。
待ち合わせに来てくれた。それだけのことなのに、俺は胸の奥がじわりと緩むのを感じた。
あの日から、俺が澪を心配していたように。澪もまた、誰かに会いたくて限界だったのかもしれない。
「お待たせしました♡」
彼女は、小首を傾げてふわりと微笑んだ。
いつもの、完璧なお嬢様の笑顔。
……いや、違うな。これは無理してる澪だ。
俺は、一瞬でそれに気づいた。
口角は上がっている。目も細めている。でも、どこかが決定的に違う。
いつもなら「可愛い」と思ってドギマギしていたはずのその笑顔が、今はただ、ひどく痛々しく見えた。
「いや、俺も今来たところだよ」
「ふふっ。どこに行きましょうか」
俺たちは並んで歩き始めた。
駅近くの静かなカフェに入り、向かい合わせの席に座る。
冷たいアイスティーが運ばれてきて、それを一口飲んだ時、俺は自分が心の底からホッとしていることに気づいた。
あの日からずっと、部屋の暗闇の中でスマホを握りしめていたあの息の詰まるような不安が、『目の前に彼女が座っている』たったそれだけのことでスッと消えていく。
澪もまた、運ばれてきたアイスティーを両手でそっと包むように持ち、ひとつだけ静かに息を吐いた。
その小さな仕草だけで、俺には十分だった。この子も、ずっと息を詰めていたんだ。
「……お兄様には、少し怒られてしまいました」
アイスティーのストローを指先で弄りながら、澪がぽつりと言った。
彼女は小さく笑っていた。まるで、大したことじゃないと俺を安心させるように。
「……そうなんだ」
俺は、言葉に詰まった。
「大丈夫だ」なんて無責任なことは言えないし、お兄さんのあの圧倒的なオーラを思い出すと、自分の手のひらの空っぽさが嫌になる。俺はただの高校生で、彼女の家柄に対して、何一つ対抗できる力なんて持っていない。
自信なんてこれっぽちもない。
だけど、
せめて、この時間だけは、あの息苦しい現実から、彼女を連れ出してあげたい。
あのふにゃって子供っぽく笑う澪に戻ってもらいたいんだよ。
「そういえばさ、この間のバーベキューのあと、田中のやつ……」
俺は、必死に話題を振った。
田中のアホな行動、西園寺の暴走、朝比奈の冷たいツッコミ。
楽しかった、あの川辺での出来事。
二人で同じ『喫茶店』と書いて、同じタイミングで手を伸ばして、西園寺に冷やかされて。
あの眩しい思い出に縋り付くように、俺は必死に言葉を紡いだ。
「ふふっ……田中くん、本当に面白いですね」
澪は、声を立てて笑ってくれた。
不安なことを全部忘れて、あの楽しかった瞬間に戻りたい。そんな風に、彼女もまた、俺の差し出した思い出を必死に抱きしめようとしてくれているのが分かった。
だけど。
笑い合えば笑い合うほど、その笑顔の端々に、隠しきれないぎこちなさが滲んでしまう。
一度だけ、澪が笑顔のまま、遠くを見た。
ほんの一瞬。すぐにいつもの表情に戻った。
気づいていないふりをした。でも、俺には見えていた。
……違う。
俺も、澪も、お互いを安心させたくて、必死に『いつも通り』を演じようとしている。
でも、俺が求めているのは、そんな痛々しい気遣いの果てにある愛想笑いじゃない。
お互いに傷を隠し合って、無理に笑い合うような関係じゃないんだ。
帰り道。
夕焼けに染まる通学路を、俺たちは並んで歩いていた。
信号待ちで、立ち止まる。
赤信号の光が、彼女の横顔を照らしていた。
その顔は、やはりどこか無理をして、完璧な自分を保とうとしているように見えた。
俺は、急に立ち止まった。
「……澪」
彼女が、驚いたように振り返る。
「無理して、笑わなくていいよ」
俺の言葉に、澪はピタリと動きを止めた。
「え……?」
「俺の前くらい……普通でいてほしい。」
説教をするつもりはない。励ます言葉も持っていない。
『頑張れ』なんて、これ以上彼女に言えるわけがなかった。
だから、ただ。
俺の前でだけは、あの『完璧なお嬢様』の仮面を被らないでほしかった。
今までのような、ただの白鷺澪でいてほしかった。
澪は、目を見開いたまま、数秒間沈黙した。
そして。
ぽろり、と。
彼女の大きな瞳から、一粒だけ、涙が零れ落ちた。
夕日に照らされたその雫が、アスファルトに吸い込まれていく。
でも、彼女は泣き崩れたりはしなかった。
手でさっと涙を拭うと、顔を上げ、俺を見て。
「……ありがとうございます」
小さく、笑った。
今度は、無理をしていない、少しだけ照れくさそうな、本物の笑顔だった。
駅の改札前。
別れ際、澪は俺に向かって小さく手を振った。
「結弦くん」
彼女は、少しだけ上目遣いになり、いたずらっぽく微笑んだ。
「今日……ちゃんと、笑えました♡」
その言葉の最後についた『♡』は。
間違いなく、完全復活の合図だった。
「……おう。またな」
俺も、つられて自然に笑っていた。
一人になって、夕焼け空を見上げる。
……お兄さんに認められることも大事だ。勉強も、頑張らなきゃいけない。
でも。
俺が一番、やりたいこと。
それは。
一番近くで澪を笑わせられるのは……俺でいたい。
そのちっぽけで、でも俺にとっては一番大きな目標を胸に刻み、俺は帰路についた。




