第35話 恋人なら、隣に立てるようになりたいですよね?
家に帰り、自分の部屋のドアを閉めた瞬間、俺はベッドに力なく倒れ込んだ。
煙の匂いが染み付いた私服のまま、仰向けになって天井を見つめる。
澪のお兄さんの、あの静かで、冷徹な目が怖かった。
澪が、何度も何度も俺の方を振り返りながら、何かを訴えかけていたあの目を忘れられない。
『君にはまだ、関係のない話だ』と言ったお兄さんの言葉が、今も耳の奥でリフレインしている。
何より、高級車に乗り込む澪の手を取ることすらできなかった、あの時の自分が許せない。
ぐるぐると、同じ後悔ばかりが頭の中でループする。
本当に情けない。自分が嫌になる。
何にもできない、ただの高校生。
……住む世界が、違う。
頭ではわかっていたつもりだった。彼女が学校一のお嬢様で、俺がただのモブ男子であることは。
でも、今日初めて、その『壁』の厚さと高さを、皮膚感覚で思い知らされた。
いや、そもそも『恋人のフリ』だったはずだ。勘違いして、浮かれていたのは俺の方だったのか……。
俺はポケットからスマホを取り出し、LAINの画面を開いた。
トーク履歴の一番下。
『今日はBBQですね♡』という、今朝送られてきた彼女からのメッセージ。
返信欄に指を置く。
でも、打つべき言葉が見つからない。
『大丈夫?』
——違う。全然大丈夫そうじゃなかっただろ。
『今日はごめん』
——違う。俺が謝ったところで、何かが解決するわけじゃない。
『また会おう』
——もっと違う。そんな能天気な言葉、今の彼女に送れるわけがない。
結局、俺は何も入力できないまま、画面を閉じた。
あんなことがあった後で、俺だけ『いつも通り』の彼氏ヅラなんて、できるわけがなかった。
「結弦、飯食わないのか?」
夕食の時間。リビングに降りると、親父が缶ビールを片手にテレビを見ていた。
「ああ。ちょっと腹減ってなくて」
親父は俺の顔をちらりと見て、それ以上は何も聞かなかった。
昔からそうだ。この親父は、俺が何か悩んでいる時、無理に聞き出そうとはしない。
親父はビールを一口飲み、テレビから視線を外さずにぽつりと言った。
「男ってのはさ」
「……」
「生きてりゃ一度くらい、自分じゃどう逆立ちしても届かないような相手と出会うもんだ」
俺は、立ち止まった。
「その時、逃げるか、それとも歯を食いしばって頑張るかで……その後のそいつの顔つきが、少しだけ変わるもんだよ」
親父は俺の事情なんて何も知らない。ただの一般論。ただの人生論だ。
でも、その言葉は、今の俺の胸のど真ん中を正確に射抜いていた。
俺は何も言わず、親父の背中に向かって小さく会釈をして、自分の部屋へと戻った。
夜の十一時。
暗い部屋の中で、スマホが短い通知音を鳴らした。
画面が光る。
表示された名前は、『白鷺 澪』。
『今日はごめんなさい。』
それだけ。
いつもの『♡』も、スタンプもない。
たった一文から、彼女がどれだけ落ち込み、不安に押し潰されているかが痛いほど伝わってきた。
俺は、スマホを両手で握りしめた。
今度こそ、逃げるわけにはいかない。
少しだけ考えて、文字を打ち込む。
『謝ることじゃない。』
送信。
少しの間。
俺は、さらにキーボードを叩いた。
『俺が、もっと頑張る』
送信。
何を頑張るのか。どう頑張るのかなんて、具体的には書かなかった。
でも、今の俺に言える、一番の嘘偽りない本音だった。
数秒後。
『……はい♡』
いつものマーク。
でも、すぐに追撃でもう一通送られてきた。
『ありがとうございます』
♡が、消えていた。
強がっていつもの自分を作ろうとしたけれど、やっぱり無理だったのだろう。
俺は、その不器用なメッセージを見つめたまま、もう一通だけ送られてきた言葉に目をやった。
『次に会った時は、ちゃんと笑いますね』
その健気な一文に、俺は思わず小さく、でも力強く笑った。
「……約束だからな」
俺はスマホを机の端に置き、部屋の電気をつけた。
散らかっていた漫画を端に寄せ、問題集と参考書を積み上げる。
椅子に座り、シャーペンを手に取った。
……勉強ができれば、何かが変わるとは思わない。
お金持ちになれば、認めてもらえるとも思わない。
そんな単純な話じゃないことは、俺にだってわかる。
でも。
あの人に。「君には関係ない」と、「話にならない」と思われたままでは。
俺は一生、彼女の隣には立てない。
自分で自分を否定して諦めたら、その時点で本当に終わりだ。
悔しいけど、今の俺には何も持っていない。だけど、それを自覚することこそが、前に進むために必要なんだ。
俺は、参考書のページを開いた。
テストは終わったばかりだ。でも、そんなことは関係ない。
俺は生まれて初めて。
自分のためでも、自己満足のためでもなく。
「澪のために」
何かを、本気で頑張りたいと思った。




