第32話 恋人なら、はぐれないように手を繋ぎますよね?
参道から少し外れた、明かりの少ない横道。
人通りが途絶えたその場所で、紺色の浴衣を着た彼女が、ゆっくりと振り返った。
驚きに見開かれた瞳が、俺を捉える。
「……み、澪」
俺は肩で息をしながら、それだけを絞り出した。
無事だった。怪我もない。誰かに絡まれているわけでもない。
よかった。本当に、よかった。
「結弦……くん?」
安堵で膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、俺はまだ乱れた息のまま、つい強い口調で言ってしまった。
「……何やってんだよ、こんなところで。一人で勝手に行動するな」
「……」
俺の言葉に、白鷺さんは少しだけ目を伏せた。
そして、次の瞬間。
「……どこへ行ってたんですか!」
えっ?
「だから、どこへ行ってたんですか!!」
白鷺さんが、怒ったような声を上げた。
でも、その声は微かに震えていた。
「えっ、俺!?」
「そうです! 私が少しだけかき氷の方を見た隙に、結弦くんが急にいなくなってしまうから……! 西園寺さんたちもいないし、電話は繋がらないし……」
白鷺さんは目に涙をいっぱいに溜めたまま、俺の胸にドンッとぶつかるように近づいてきた。
「結弦くんの、ばか……っ」
ポカッ、と。
小さな拳が、俺の胸を叩いた。
「置いていかないでください……! ばか、ばか……」
ポカ、ポカ、と。
痛くもない、力のない拳が、何度も俺の胸を叩く。
彼女は両手で俺の浴衣の胸ぐらをぎゅっと握りしめ、顔を伏せたまま、ぽろぽろと言葉をこぼした。
「……私、もう……見つからないかと思いました」
俺の胸に押し当てられた彼女の頭が、微かに震えている。
その言葉と、胸に当たる小さな拳の感触で、俺は理解した。
俺が彼女を探していたように、彼女もまた、一人で迷子になって不安でいっぱいになっていたのだ。
お互いがお互いを「いなくなった」と思い、必死に探していた。
俺は、彼女の震える手を、自分の手でそっと包み込んだ。
「……悪かった。俺も、澪を見失ってテンパってた」
俺の胸ぐらを掴んでいた白鷺さんの手に、ぴくりと力が入った。
「……」
彼女は顔を上げないまま、数秒だけ動きを止め。
「……本当に、ばかです」
微かに震えていた声が、ほんの少しだけ、甘く溶けたような色を帯びていた。
彼女はそう言って、俺の胸にこつんと額を預けた。
ただ、この小さな震えを守りたい。
二度と、あんな不安な思いをさせたくない。
その感情だけが、今の俺のすべてだった。
俺は、彼女の手を包み込んでいた自分の手を離し。
何も言わずに、彼女の右手を、俺の左手でしっかりと握り直した。
「結弦……くん?」
ドンッ、と。
腹の底に響くような音が、夜空に響いた。
俺たちが同時に見上げると、真っ暗な夜空に、大輪の花火が咲いていた。
赤、青、黄色。
色とりどりの光が、二人の顔を照らし出す。
「……綺麗ですね」
「ああ……」
さっきまでは、花火の音なんてこれっぽっちも聞こえていなかった。
でも今は、隣に彼女がいる。
繋いだ手の温もりを感じながら見る花火は、今まで生きてきた中で、一番綺麗だった。
帰り道。
花火大会が終わり、駅へと向かう人の波に乗って歩く。
「……今日は。ありがとうございました」
白鷺さんが、繋いだ手を少しだけ揺らして言った。
「ん? 何が?」
「探してくれて。見つけてくれて」
「……当たり前だろ」
俺が照れ隠しにそっぽを向くと、彼女は「ふふっ」と小さく笑った。
「あの、結弦くん」
「ん?」
「さっき……『白鷺さん』じゃなくて、『澪』って呼んでくれましたよね?」
「……え?」
呼んだ? 俺が? 名前で?
「……嘘だろ。俺、そんなこと言ったか?」
「言いましたよ。はぐれた時と、花火が上がった時の……二回も」
「二回!?」
俺は頭を抱えた。無意識だった。完全に無意識に、俺は彼女の名前を呼んでいたのだ。
顔が熱い。花火の熱のせいじゃない。
「……すごく、嬉しかったです♡」
彼女は上目遣いで、少しだけ悪戯っぽく、でも本気で嬉しそうに微笑む。
いつもなら「忘れてくれ」と誤魔化すところだ。でも、今日の彼女のあの不安そうな顔を思い出すと、そんな逃げの言葉は出てこなかった。
「……ああ、もう」
俺はガシガシと頭を掻きむしり、一度だけ大きくため息をついてから、真っ直ぐに彼女を見た。
「二回も呼んだなら、今さら取り消せないだろ。……もう、それでいい」
「えっ?」
「これからも……澪って呼ぶから。それで文句ないだろ」
俺が視線を逸らしながらぶっきらぼうに宣言すると、澪は、一瞬だけぽかんと口を開け、それからみるみるうちに顔を真っ赤に染めた。
「っ……!」
「ほら、帰るぞ」
俺が照れ隠しに歩き出そうとすると、彼女は慌てて俺の隣に並び、繋いでいた手を一度離し——今度は彼女のほうから、俺の手をぎゅっと、両手で握り直した。
「……澪?」
「今度は、ちゃんとした理由がありますから♡」
彼女は顔を真っ赤にしたまま、でも少しだけ誇らしげに言った。
「はぐれないように。……もう、離れたくないですから」
それは、はぐれる前に俺が心の中で思っていた言葉に対する、完璧なアンサーだった。
「……だな」
俺は少しだけ笑い、彼女の小さな手を、今度こそしっかりと握り返した。




