第31話 恋人なら、離れてはいけませんよね?♡
「うわー、すっごい人!」
「花火大会なんだから当たり前だろ! はぐれるなよー!」
夏休みの中盤。隣町で開催される大規模な花火大会。
駅前の広場は、浴衣姿の男女や家族連れでごった返していた。
西園寺さんの高い声と、田中の騒がしい声が人混みに吸い込まれていく。朝比奈さんが呆れたようにその後を追う。
「お待たせしました」
ふと、背後から声がした。
振り返った瞬間、周囲の喧騒がふっと遠のいたような気がした。
そこには、紺色を基調とした朝顔の柄の浴衣を着た、白鷺さんが立っていた。
いつもは綺麗に下ろしている黒髪が、今日はうなじを見せるように少しだけ緩くまとめられている。歩くたびに微かに鳴る下駄の音と、夜の提灯の明かりに照らされた、ほんのりと色づいた唇。
普段の隙のない制服姿とも、休日の私服とも違う。
どこか艶やかで、それでいて触れたら壊れてしまいそうな儚さがあって、俺は思わず視線をどこへ向けていいか分からなくなった。
「……似合ってますか?」
俺の視線に気づいたのか、白鷺さんが少しだけ裾を直すふりをしながら、上目遣いで小首を傾げた。
「……ああ。すごく、似合ってる」
俺がどうにか言葉を絞り出すと、彼女は少しだけ目を丸くした。
「……本当に?」
「嘘言ってどうするんだよ」
俺が少しだけむすっとして顔を逸らすと、白鷺さんは口元を袖で隠し、花が咲くように柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。……結弦くんにそう言ってもらえるのが、一番嬉しいです♡」
彼女はそう言って、下駄の音を鳴らして一歩近づき、自然と俺の隣に並んだ。
いつも通りの距離感。でも、漂ってくる微かなフローラルのような香りが、今日の彼女がいつもより少しだけ「特別」であることを俺に教えていた。
屋台が立ち並ぶ参道は、歩くのも困難なほどの混雑だった。
「高坂! あっちで射的やろうぜ!」
「私はりんご飴ー!」
「食べ歩きは禁止だって言ってるでしょ」
前方を歩く田中たちが騒いでいる。
俺と白鷺さんは、その少し後ろを、周囲の人波に押されないように気をつけながら歩いていた。
ドンッ、と誰かの肩がぶつかる。
「っ……」
「大丈夫か?」
「はい。少し、人が多いですね」
俺は彼女が流されないように、少しだけ彼女の側に寄り、自分の体で壁を作った。
人混みが押し寄せるたび、俺たちの肩が自然と触れ合う。彼女の体温が、薄い浴衣越しにダイレクトに伝わってきた。
あと少し手を伸ばせば、彼女の手に届く。
『はぐれるから』。そう言えば、手を繋ぐ言い訳は立つ。
でも、俺は手を伸ばさなかった。
学校じゃない。クラスメイトと一緒とはいえ、ここはただの夏祭りだ。
「恋人のフリ」なんて、そんな不誠実な言い訳で彼女の手に触れたくなかった。
……もっと、ちゃんとした理由がないと。
そんなことを考えている俺の横で、白鷺さんが不安そうに俺の浴衣の袖を小さく摘んだ。
「……人が、多いですね」
「ああ。……俺から離れるなよ」
「……はい」
俺がそう言うと、彼女は嬉しそうに頷き、さらに俺の背中にぴたりと寄り添った。
その信頼感が、どうしようもなくくすぐったかった。
「あーっ! 高坂くん見て見て! あそこのかき氷、山盛りだよ!」
前を歩いていた西園寺さんが、突然振り返って俺を呼んだ。
「え? あ、本当だ。すげえな、あれ」
俺は一瞬だけ、視線をそっちへ向けた。
ほんの、数秒。
いや、一秒にも満たない時間だったはずだ。
隣から伝わっていたはずの温もりが、ふっと消えるまでは。
「……白鷺さん?」
振り返った時。
俺の隣に、誰もいなかった。
さっきまで俺の袖を掴んでいたはずの、小さな手の感触だけを残して。
……まさかはぐれたか。
すぐ後ろにいるはずだ。人波に押されて、少しだけ遅れているだけだ。
「白鷺さん」
声を出す。
返事はない。周囲の喧騒にかき消される。
俺は足を止め、来た道を振り返った。
色とりどりの浴衣。知らない人々の顔。
紺色の朝顔の浴衣を探す。
いない。いない。どこにもいない。
スマホを取り出す。
電話をかける。
『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか——』
繋がらない。
人が多すぎて、電波が混線しているらしい。
LAINを開く。
『どこにいる?』
『はぐれた?』
メッセージを送る。
既読は、つかない。
嫌な汗が、背中を伝った。
俺は前を歩いていた西園寺たちに声をかけようとしたが、彼らもすでに人混みに飲まれ、見失っていた。
「白鷺さん」
もう一度、呼ぶ。
聞こえるはずがない。
邪魔だ。
前に進めない。
くそ。
どけ。
歩幅が、無意識に早くなる。
人混みをかき分ける。
「すみません、通してください」
肩がぶつかる。謝る余裕もない。
いない。
どこにも、いない。
ここは彼女が住んでいるような世界じゃない。
柄の悪い連中もいる。迷子になれば、どうしていいかわからなくなるかもしれない。
学校で一番綺麗だから?
違う。
お嬢様だから?
違う。
息が上がる。
くそ。俺の体力なんとかしやがれ。
肺が酸素を求めているのに、呼吸が浅い。
恋人のフリ。
もうそんなもの、どうでもいい。
彼女が学校一のお嬢様だとか、周りの目だとか。
そんなもの、もう、どうだっていい。
俺の隣に、彼女がいない。
それが、どうしようもなく嫌だ!!
「白鷺……っ!」
走る。
人混みを縫って、走る。
浴衣の袖が邪魔だ。下駄の音がうるさい。
どこだ。
どこにいる。
視界が狭くなる。
彼女の姿だけを探している。
紺色の浴衣。
朝顔の柄。
白い横顔。
どこだ。
俺は、ただのクラスメイトを探しているんじゃない。
俺は、偽装恋人のパートナーを探しているんじゃない。
俺は。俺は。俺は……。
「——澪!!」
今まで一度も、声に出して呼べなかったその名前を。
澪がいない。どこだ?
ドン、と夜空が鳴った。
「——澪!!」
参道から少し外れた、明かりの少ない横道。
人通りが途絶えたその場所で。
紺色の、朝顔の浴衣が、立ち止まっていた。
俺は、息を切らして近づく。
「……澪!」
びくっ、と。
その肩が震え、彼女がゆっくりと振り返った。
驚きに見開かれた瞳が、俺を捉える。




