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「恋人のフリだけですから♡」と言った学校一のお嬢様が、毎日俺を本気で落としにくる。  作者: リディア


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30/38

第30話 恋人なら、約束くらい覚えていますよね?

 フードコートで少し遅めの昼食を終えた俺たちは、再びショッピングモールの中を歩き始めた。


 午前中のあの張り詰めたようなぎこちなさは、もうすっかり消えている。

 歩幅も自然と合い、時折肩が触れそうになっても、お互いに変に避けるようなことはしなくなった。


「このお店、可愛いですね」

「ああ。でもあのクッション、どう見ても犬じゃなくて熊だろ」

「ふふっ、確かに。結弦くんの言う通りですね」


 学校にいる時と同じようなテンポで、言葉が自然に交わされる。


 ふと、立ち寄った生活雑貨の店で、俺の視線があるコーナーでピタリと止まった。

 マグカップのコーナー。

 そこには、様々な動物をモチーフにしたカップが並んでいた。


 ……そういえば。


 記憶が、文化祭前のあの休日にフラッシュバックする。

 ホームセンターの後に寄った百円ショップ。

 少し目つきの鋭い白猫のマグカップをじっと見つめていた白鷺さんと、俺が言った言葉。


『文化祭が終わったら、俺が買ってやるから』


 俺は、自然と足を進めていた。

 棚の端に置かれていた、あの時と同じような——いや、あの時よりも少しだけ上品なデザインの、白猫のマグカップを手に取る。


「白鷺さん」


 俺が声をかけると、別の棚を見ていた彼女が振り返った。


「これ」


 俺は、手に持ったマグカップを彼女の目の前に差し出した。

 白鷺さんは、俺の手元にあるマグカップを見て。

 それから、俺の顔を見て。

 もう一度、マグカップを見た。

 彼女の目が、少しずつ丸くなっていく。


「……覚えていて、くださったんですね」


 ぽつりと。

 消え入りそうな、小さな声がこぼれた。

 その瞳が少しだけ潤んでいるように見えたのは、気のせいだろうか。


「……約束したからな」


 俺は、照れ隠しに視線を逸らして言った。


「それだけだ」


 白鷺さんは、マグカップにそっと手を伸ばしかけて、ピタリと止めた。


「でも……。あの時のものより、ずっと高いですし……」

「いいから」


 俺は首を振り、彼女の手にマグカップを押し付けた。


「約束は守る。それに……」


 俺は一度言葉を切り、彼女の目を見た。


「今日は、『普通の恋人』なんだろ?」

「……結弦くん」

「こういう日くらい、受け取って」


 白鷺さんは、数秒間、何も言わずにマグカップを見つめていた。

 そして。

 それを大事そうに両手で包み込むと、麦わら帽子を少しだけ深く被り直した。


「……ありがとうございます♡」


 帽子の下から覗く耳の先が、夕焼けみたいに真っ赤に染まっている。

 彼女はそれ以上何も言わず、ただ、もらったマグカップを愛おしそうに胸に抱きしめていた。


 買い物を終え、俺たちは帰りの電車に乗った。

 休日の夕方ということもあり、車内は少し混雑していて、座席はすべて埋まっていた。

 俺たちはドアの近くに並んで立った。

 白鷺さんは片手にマグカップの入った紙袋を持ち、もう片方の手で吊り革を掴んでいる。


「発車します」


 アナウンスと共に、電車が動き出す。

 ガタン、と少し大きめの揺れ。

 電車がカーブに差し掛かり、遠心力で体が持っていかれそうになる。


「あっ……」


 白鷺さんが、バランスを崩した。

 紙袋を庇おうとして、吊り革を掴む手が滑ったのだ。


「危ない」


 俺は反射的に、彼女の肩を支えようと手を伸ばした。

 だが、その瞬間、さらに電車が大きく揺れた。

 俺は彼女ごと倒れそうになるのを防ぐため、とっさに彼女の背後にある壁(ドア横のスペース)に片手をついた。


「っ……」

「……え」


 揺れが収まる。

 俺は壁に手をついたまま、小さく息をついた。

 そして、ようやく状況を理解した。


 ……近っ……!


 俺と白鷺さんの距離は、数十センチもなかった。

 俺の腕の中に彼女がすっぽりと収まり、いわゆる『壁ドン』のような状態になっている。

 ふわりと香る甘い匂い。見下ろす位置にある、彼女の少しだけ潤んだ瞳。


 沈黙。


 車内のガタンゴトンという音だけが、やけに大きく聞こえる。

 白鷺さんが、目を丸くしたまま俺を見上げている。


「ご、ごめん!」


 俺は慌てて腕を引き、距離を取ろうとした。

 だが、夕方の帰宅ラッシュで混み合い始めた車内では、俺の背後にも人が立っていて、これ以上後ろに下がることができなかった。


「……あの、結弦くん」


 腕の中に閉じ込められたままの白鷺さんが、小さく俺の名前を呼んだ。

 見下ろすと、彼女は空いている手で自分の胸元をぎゅっと押さえながら、上目遣いで俺を見つめている。

 顔は耳まで真っ赤に染まっていたが、なぜか彼女は目を逸らさなかった。


「……助かりました。ありがとうございます」

「いや、不可抗力だから。……でも、これ、ちょっと……その、動けなくて」


 言い訳のように俺が呟くと、再び電車が小さく揺れた。

 その反動で、俺の胸に彼女の肩が軽くぶつかる。


「っ……!」

「あ、ごめん……!」

「い、いえ……大丈夫、です。……結弦くんの心臓の音、すごいですね」


 白鷺さんが、ぽつりと呟いた。

 俺の心音が、至近距離にいる彼女に完全に伝わってしまっているらしい。顔から火が出そうだった。


「……っ!!聞こえないふりしてほしい……」

「ふふっ。無理ですよ。……だって、私の心臓の音より、ずっと大きいですから」


 彼女はそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。

 でも、その強がりの笑顔の裏で、彼女の胸元の服が、小さな呼吸に合わせて小刻みに揺れているのを俺は知っている。


「……でも。今のは、少し反則です♡」


 彼女は真っ赤な顔のまま、俺の腕の中で少しだけ身を縮め、甘えるような声で囁いた。


「だから不可抗力だって!!」


 俺が必死に反論すると、白鷺さんは「ふふっ」と噴き出すように笑い、それから少しだけ嬉しそうに目を伏せた。

 混雑した車内。逃げ場のない至近距離。

 顔は熱いし、心臓は破裂しそうなくらいうるさい。

 でも、このままもう少しだけ……電車が着かなければいいのにと、心のどこかで思っていた。


 最寄り駅に到着し、夕暮れの改札前。


「今日は、ありがとうございました」


 白鷺さんが、紙袋をぎゅっと胸に抱いたまま、丁寧に頭を下げた。


「猫さん……大切にします」

「……割るなよ」


 俺が少し照れながら言うと、彼女は嬉しそうに目を細めた。


「はい♡ ……毎日、使います」

「毎日って。白鷺さんって、紅茶しか飲まないだろ」

「結弦くんにいただいたマグカップで飲むお水は、きっと特別ですから」


 そんな冗談を言って、俺たちは笑い合った。

 帰りの電車のドアが閉まる。

 窓越しに、白鷺さんが小さく手を振った。俺も軽く手を振り返す。

 電車が遠ざかり、彼女の姿が見えなくなるまで、俺はその場に立ち尽くしていた。


 帰宅。

 自分の部屋のドアを閉めた瞬間、俺はベッドに倒れ込んだ。


「あー……」


 深い溜め息が漏れる。

 今日一日の出来事が、走馬灯のように頭の中を駆け巡っていく。

 少し大人びたワンピース姿。

 俺の名前を呼んで自爆した時の「ふにゅ」。

 マグカップを受け取った時の真っ赤な耳。

 そして、電車での……至近距離。

 全部思い出して、俺は自分の顔が熱くなるのを感じた。


「……今日は。心臓に悪すぎた」


 ベッドの上で身悶えしていると。

 ピコン♪

 スマホの画面が光った。


『白鷺 澪』

『今日は、本当にありがとうございました♡』

『猫さん、大切にします』


 そのメッセージを見て、俺の口元は自然と緩んでいた。

 俺はキーボードを叩き、返信を打つ。


『こちらこそ。』

『また出かけよう』


 送信。

 画面を見つめていると、数秒後。


『はい♡』


 たった二文字。

 俺は、スマホを胸の上に置いて、天井を見上げた。

 ……夏休み、悪くないな。


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