第29話 恋人なら、待ち合わせからドキドキしますよね?
土曜日の午前十時。
駅前の大型ショッピングモール入り口にある、からくり時計の前。
俺は、待ち合わせの十五分も前に到着し、所在なくスマホをいじっていた。
……早く来すぎたかな。
夏休み最初の週末。周囲には楽しそうに笑い合うカップルの姿が多い。
スマホの画面を開いては閉じ、また開く。落ち着かないにも程がある。
スマホの画面を開き、時間を確認しては閉じ、また開く。さっきからその繰り返しだ。落ち着かないにも程がある。
「——結弦くん」
ふわりと、聞き慣れた声が耳をくすぐった。
顔を上げると、少し涼しげなノースリーブのワンピースに、薄手のカーディガンを羽織った白鷺さんが立っていた。
前に見た私服とは違う、少しだけ大人びたコーディネート。
俺は一瞬、息をするのを忘れて見惚れてしまった。
「お待たせしました♡」
彼女は、少し小首を傾げて微笑む。
「いや、俺も今来たところだよ」
俺は慌てて視線を外し、どうにかそれだけを返した。
少しだけ、沈黙が落ちる。
周囲のカップルたちの喧騒が、なぜか遠くに聞こえる。
……こういう時、普通の彼氏ならなんて言うんだ?
『可愛いね』とかか?
いや、俺のキャラじゃないし。
でも、何も言わないのも……。
脳内で一人緊急会議を開いた結果。
「……そのワンピースとても似合ってる」
俺は視線を地面に向けたまま、ボソッと、でもはっきりと聞こえるように言った。
「え?」
「……その服。涼しそうで、その……白鷺さんにとても似合ってるって言ったんだよ」
言い訳のように早口で付け足すと、白鷺さんは一瞬だけピタリと動きを止めた。
そして、パッと両手で麦わら帽子のつばを掴み、顔を隠すように少しだけ深く下ろした。
「……ありがとうございます♡」
……少しだけ裏返っており、帽子の下から覗く耳の先と首筋が、夕焼けみたいにほんのりと赤く染まっているのを俺は見逃さなかった。どうやら、今日の服選びに気合いを入れてきたのは俺だけじゃなかったらしい。
……こういう時、どう返していいかわからない。でも、嫌な沈黙じゃない。
「じゃ、じゃあ……行くか」
「……はいっ」
俺が少しだけ歩幅を狭めて歩き出すと、彼女も嬉しそうな足取りで、自然と俺の隣に並んだ。
ショッピングモールの中は、冷房が効いていて快適だった。
俺たちは並んで歩き始めた。
……一体何を、話せばいいんだ?
学校にいれば、「次の授業なんだっけ」とか「西園寺がさ」とか、いくらでも話題は転がっていた。
でも、今日は違う。制服もなく、クラスメイトもいない。
「……夏休み、満喫していますか?」
白鷺さんが、少しだけ探るように聞いてきた。
「いや。昨日まで、クーラーの効いた部屋でずっとゴロゴロしてた」
「ふふ♡ 結弦くんらしいですね」
「そういう白鷺さんは? お嬢様らしく、ハワイの別荘で優雅にバカンスとか?」
「私だって、ずっと家で本を読んだり、ゴロゴロしたりしてましたよ。……今日のデートが楽しみすぎて、出かける気になれなかったんですよ。な〜んてね♡」
「っ……」
さらっと爆弾を投下され、俺は言葉に詰まった。
ちらりと見ると、彼女も少しだけ口元を隠して照れくさそうにしている。相変わらず、攻めるくせに防御力が低い。
少しずつ、会話のテンポが戻ってくる。
俺たちは、雑貨屋、洋服屋、文房具店など、あてもなく色々な店を見て回った。
ふと入ったメンズの洋服店で、白鷺さんが一着のシャツを手に取った。
少し落ち着いた、ネイビーのシャツだ。
「結弦くんなら。こういう色も、似合いそうです」
彼女はシャツを俺の胸元に当てて、真剣な顔で品定めをする。
「え? いや、俺はあんまりこういうの着ないけど……」
「似合うと思いますよ。……それに、こういう服を着た結弦くんの隣を、私が歩きたいんです♡ ……ダメ、ですか?」
上目遣いで、少しだけ首を傾げて聞いてくる。
「……わかった。今度、考えてみる」
俺が視線を逸らして降伏すると、彼女は「ふふっ」と満足そうに微笑んだ。
逆に、雑貨屋に入った時。
俺はふと目に留まった、少し目つきの鋭い白猫の柄のポーチを指差した。
「これ。なんか白鷺さんっぽいな」
「……私が猫だから、ですか?」
「いや。なんとなく、雰囲気が。気高いけど、懐くと可愛いみたいな」
しまった。
白鷺さんはポーチを見つめたまま、パチパチと瞬きをして、みるみるうちに耳を赤くしていった。
「な、懐くと可愛い、ですか……?」
「あ、いや。言葉の綾というか、そういうイメージの話で……」
「……結弦くんの前では、もう隠せていないみたいですね」
彼女はポーチを両手で包み込むように持ち、真っ赤な顔のまま「ふふ♡」と嬉しそうに笑った。
ただ歩いて、ただ話す。
それだけなのに、なんだかひどく充実している気がした。
「……そういえば」
フードコートへ向かって歩いている途中。
白鷺さんが、急に足を止めた。
「ん?」
俺が振り返ると、彼女は少しだけ上目遣いになって俺を見つめた。
「結弦くん」
「おう」
少しの、間。
周囲のBGMが、なぜか急に静かに感じられる。
「以前……お互いを名前で呼ぶ練習を、しましたよね?」
「あ、ああ……そうだな」
「今日は学校じゃありませんし……少しだけ。練習、しますか?」
俺は、固まった。
ここで? 今?
でも、彼女の瞳は真剣で、ほんの少しだけ期待が混じっているように見えた。
「……じゃあ」
俺は小さく息を吸い込み。
周囲に人がいないことを確認して、なるべく自然に、彼女の名前を呼んだ。
「……澪」
沈黙。
白鷺さんは、ピタリと動きを止めた。
そして、みるみるうちに顔を赤く染め、またしても麦わら帽子をグッと深く被り直した。
「……ふにゅ」
小さく、情けない声が漏れる。
「……やっぱり。まだ、早かったですね♡」
帽子で顔を隠したまま、必死に強がる彼女。
「俺もそう思う。心臓に悪すぎる」
俺たちは顔を見合わせ、どちらからともなく「ははっ」と笑い合った。
その瞬間、俺たちの中にあった最後のぎこちない空気が、完全に溶けて消えていくのを感じた。
フードコートの窓際の席。
俺たちは冷たいドリンクを飲みながら、ガラス越しに見える夏の空を眺めていた。
「普通の恋人って」
ストローを弄りながら、白鷺さんがぽつりと言った。
「案外、難しいですね」
「……だな」
手を繋ぐわけでもなく、気の利いたエスコートができたわけでもない。
ただ歩いて、名前を呼んで自爆して、笑っただけ。
でも。
「……でも。少し、楽しい」
俺が素直な気持ちを口にすると。
白鷺さんは、今日一番の、花が咲くような柔らかい笑顔を向けた。
「私もです♡」
夏休みの初デート。
普通の恋人。……案外、悪くないな。
俺はもう一口、冷たいドリンクを飲んだ。
窓の外の夏空が、やたらと青かった




