第3話 おはようございます、彼氏さん♡
——昨日のアレは、きっと何かの間違いだ。
朝の冷たい空気を吸い込みながら、俺は自分にそう言い聞かせていた。
学校一のお嬢様から「恋人のフリ」を頼まれ、帰り道に腕を組まれた。
うん。いくらなんでも非現実的すぎる。
俺みたいな平穏至上主義のモブ男子に、そんなラブコメみたいなイベントが起きるはずがない。あれはきっと、最近睡眠不足だった俺が見た都合のいい幻覚だ。
そうに決まってる。
今日学校に行けば、白鷺さんはいつものように雲の上の「完璧なお嬢様」で、俺は遠くからそれを眺めるだけの「モブ男子A」に戻るんだ。
「……よし。平常心、平常心」
俺はパンッと自分の両頬を叩き、気合いを入れて通学路の角を曲がった。
前方には、見慣れたうちの高校の校門がある。
だが、今日の校門前は、なんだか様子がおかしかった。
「……なんだ、あの人だかり」
登校してくる生徒たちが、なぜか校門の脇で足を止めている。
特に男子生徒が顕著で、遠巻きに何かを——いや、「誰か」をチラチラと見ながらソワソワしていた。
視線の先。
朝の陽光を浴びて、艶やかな黒髪を風に揺らしている女子生徒が一人。
「あ……」
白鷺 澪だった。
両手で鞄を前で持ち、行儀良く、誰かを待つように立っている。
「おはようございます。ふふっ、今日もいいお天気ですね」
挨拶をしてくる生徒たちに、彼女は完璧なお嬢様スマイルで応じていた。
その優雅な振る舞いに、男子たちは次々と顔を赤くして撃沈していく。
……なんであんなところに立ってるんだ?
疑問に思いながらも、俺は極力目立たないように、人だかりの端っこを通って校門を抜けようとした。
目を合わせちゃダメだ。あれは俺とは違う世界の住人。昨日のことは夢——。
「あっ」
不意に、白鷺さんとバチッと目が合った。
瞬間。
彼女の顔から「完璧なお嬢様」の仮面が、ほんの少しだけ外れた気がした。
パァッと花が咲いたように表情が明るくなり、彼女は小さく手を振った。
そして、周りにいた男子生徒たちをすり抜けて、一直線にこちらへ歩いてくる。
え?
嘘だろ? こっちに来る?
「おはようございますっ」
俺の目の前でピタリと止まり、白鷺さんは小首を傾げた。
「お、おはよう……白鷺さ……」
「——彼氏さん♡」
…………。
俺の思考回路が、完全にショートした。
いや。
今、なんて言われた?
彼氏さん?
俺が?
朝一番で?
しかも校門のど真ん中で?
「……は?」
ようやく、それだけが口から出た。
白鷺さんは、俺の反応を見て満足そうにくすくすと笑っている。
「朝、待ってたんですよ? 一緒に行こうと思って」
「ま、待て待て待て待て」
俺は慌てて声を潜めた。
「白鷺さん、今なんて……」
「彼氏さん、って言いましたけど?」
「バ、バカっ、声が大きい! 周り見てみろ!」
俺が視線で促すと、周囲の生徒たちは、全員が口をポカンと開けてこちらをガン見していた。
『え?』『今、彼氏って言った?』『誰あの男子?』という心の声が、手に取るように聞こえてくる。
「別にいいじゃないですか。私たち、お付き合いしてるんですから」
「フリだろ!?」
「でも、恋人ですから♡」
白鷺さんは悪びれる様子もなく、すっと俺の隣に並んだ。
そして、これ見よがしに、俺との距離を詰めてくる。
肩と肩が、触れ合いそうな距離。
ふわりと、あの甘いシャンプーの香りが鼻をくすぐる。
「……近い」
「恋人ですから。これくらい普通ですよ」
「普通じゃない。周りの目が痛い。刺さる。いや、物理的に刺さってるの!」
俺が冷や汗を流していると、白鷺さんは少しだけ上目遣いになり、俺の制服の袖をちょこんと摘んだ。
「恋人って、こうするものじゃないんですか?」
「……ずるいよ、そういう言い方」
「ふふっ。じゃあ、行きましょうか」
白鷺さんは小悪魔のように微笑むと、摘んでいた袖から手を離し、今度は自然な動作で俺の隣を歩き始めた。
校舎へ向かう石畳の道。
いつもは一人で歩くその道に、今日は学校一の美少女が隣にいる。
すれ違う生徒たちが、ことごとく立ち止まってこちらを振り返る。
モーゼの十戒のように、俺たちの前だけ見事に道が開いていく。
……調子が狂う。
隣にいる学校一の美少女に、完全に狂わされてる。
「ねえ、結弦くん」
周囲の視線なんて全く気にしていない様子で、白鷺さんが話しかけてきた。
「なんだよ……」
「昨日の夜、何してました?」
「普通に夕飯食って、風呂入って、寝たけど……」
「えー。私のこと、少しは思い出してくれませんでした?」
「……思い出すわけないだろ。フリなんだから」
俺がそっぽを向いて答えると。
白鷺さんは少しだけ前に出て、俺の顔を覗き込んできた。
「嘘ですね」
「なっ……」
「結弦くん、さっき校門で私と目が合った時、すごく焦ってました。きっと『昨日のことは夢だ』って自分に言い聞かせてたんでしょう?」
図星を突かれ、俺は言葉に詰まった。
こいつ、なんでそんなことまでわかるんだ。
「私はですね……」
白鷺さんは、一歩だけ俺に近づく。
歩きながら、誰にも聞こえないような小さな声で、囁いた。
「昨日の夜、ずっと結弦くんのこと、考えてましたよ」
「——っ」
胸の奥が、ぎゅっと掴まれたように跳ねた。
顔を見ると、彼女はいつものからかうような笑みを浮かべている。
でも。
朝の光に照らされた彼女の耳の先は、ほんのりと赤く染まっていた。
……演じてるのか、素なのか、どっちなんだよ。
からかわれているとわかっていても、心臓のバクバクが止まらない。
俺の反応を見て、彼女は嬉しそうに目を細めている。
「ほら、結弦くん。早くしないと予鈴が鳴っちゃいますよ」
「……誰のせいだと思ってんだよ」
俺たちは並んで靴を履き替え、階段を上り、廊下を歩く。
その間もずっと、二人の距離は肩が触れそうなほど近かった。
周りの視線は痛いほど突き刺さってくるが、隣を歩く彼女がそれを全て弾き飛ばしてくれているような、不思議な安心感があった。
やがて、2年B組の教室の前。
俺は一度、大きく深呼吸をした。
ここを開ければ、クラスの連中が待ち構えている。
「開けますよ?」
白鷺さんが、楽しそうにドアに手をかけた。
そして。
ガラッ。
「おはようございます」
白鷺さんがいつものお嬢様スマイルで教室に入り、俺がその後ろに続く。
瞬間。
賑やかだった教室が、水を打ったように静まり返った。
全員の視線が、俺と白鷺さんに突き刺さる。
俺と一緒に登校してきた事実が、クラス中に一瞬で理解されたのがわかった。
シン……。
誰も喋らない。
呼吸の音すら聞こえない。
……あ、これ終わったわ。
——俺の平穏な高校生活、本当に終わった。
第3話、お読みいただきありがとうございます!
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次回、第4話。
教室の静寂を破るのは誰か? そして、学校中を巻き込んだ「偽装恋人」の日常が始まります!
お楽しみに!




