第26話 恋人なら、勝ったお願いを考えますよね?
一階の掲示板。
学年上位五十名の名前が張り出されたその前で、俺は静かに息を飲んだ。
『英語』の順位表。
上から順番に名前をなぞっていく。
三位。二位。
そして。
「……え?」
俺は、思わず間抜けな声を出した。
見間違いかと思い、もう一度、目を凝らす。
でも、そこに書かれている文字は変わらない。
二位 白鷺 澪
一位 高坂 結弦
学年一位。
俺の名前が、白鷺さんの上にあった。
「…………」
隣で、小さな吸気音が聞こえた。
白鷺さんが、掲示板を見上げたまま、ほんの一瞬だけ肩が落ちた。
次の瞬間には、元に戻っていた。
「……負けました?」
ぽつりと。
本当に、心底驚いたような一言がこぼれ落ちた。
「……俺も、びっくりしてる」
俺の言葉にも、実感は全くこもっていなかった。
「えっ!? ちょっと待って!?」
背後から、西園寺さんの素っ頓狂な声が響いた。
「マジで!? 高坂が英語学年トップ!?」
「嘘でしょ……高坂くん、勝ったの?」
「今日から高坂先生って呼んでいい!?」
「英語教えて! 私も勉強会入れて!」
田中と西園寺さんが矢継ぎ早に叫ぶ。
白鷺さんが、その様子を見て小さく笑った。
でも。
俺の耳には、その喧騒はほとんど入ってこなかった。
俺の意識は、隣でじっと掲示板を見つめ続けている、彼女の横顔にだけ向いていた。
昼休みが終わりかけ、掲示板の前の人だかりが少しずつ減っていく。
俺と白鷺さんは、少し離れた廊下の窓際に移動し、向かい合って立っていた。
「……」
「……」
少しの沈黙。
風が窓をすり抜け、彼女の黒髪を小さく揺らす。
白鷺さんは、一度だけ短く瞬きをして。
ほんの少しだけ、唇を尖らせた。
「……悔しい、です」
一拍の、間。
その言葉は、完璧なお嬢様の顔から出たものではなく、ただの負けず嫌いな一人の女の子のものだった。
でも。
彼女はすぐに顔を上げ、いつもの、ふわりとした笑顔を作った。
「でも。……おめでとうございます、結弦くん」
勝った。それだけのはずなのに。
どうして俺は、彼女の笑顔ばかり見ているんだ。
……なんでだろうな。
学年一位の彼女に勝った。あんなに必死に勉強して、目標を達成したのだ。
もっと、手放しで喜んでいいはずなのに。
俺は、自分の勝利よりも先に、目の前の彼女の笑顔の理由を考えてしまっていた。
悔しいはずなのに、どうしてそんなに優しい顔で笑うんだろうと。
「……ありがとう」
俺が短く答えると、白鷺さんはこくりと頷いた。
「じゃあ……」
俺が口を開くと。
「はい」
白鷺さんが、少しだけ身を乗り出した。
その瞳に、小さな期待の色が浮かんでいるのがわかった。
「……お願い、なんだけど」
「……はい」
「まだ、何も決めてない」
「…………え?」
白鷺さんが、ぽかんと口を開けた。
完全に予想外だったらしい。
「いや、勝つことばかり考えてて、ご褒美のことまで頭が回ってなかったというか。……全然、思いつかない」
俺が頭を掻きながら正直に言うと。
白鷺さんは数秒間、瞬きを忘れたように固まっていた。
そして。
ぷっ、と小さく吹き出して、くすくすと笑い始めた。
「結弦くんらしいですね」
彼女は口元を手で覆いながら、いつもの小悪魔な笑みを浮かべた。
「ふふっ。……わかりました。覚悟して待っていますね、彼氏さん♡」
いつもの笑顔だった。
帰り道。
夕日に染まるいつもの通学路を、俺たちは並んで歩いていた。
「早く、考えておいてくださいね♡」
白鷺さんが、俺の袖を掴んだまま上目遣いで言う。
「プレッシャーかけるな。……変なこと思いついたらどうするんだ」
「結弦くんが『変なこと』なんて言えないって、私、知ってますから」
「……お前なぁ」
俺たちが他愛もない会話をしながら歩いていると、学校前の分かれ道に着いた。
「それでは、また明日」
白鷺さんが、立ち止まって一礼する。
「おう。またな」
彼女は背を向け、自分の家の方へと歩き出した。
俺はなんとなく、その場に立ち止まったまま彼女の背中を見送っていた。
……。
夕焼けの中を歩いていくその背中が、なんだか、いつもより小さく見えた。
……気のせいか。
俺は小さく息を吐き、踵を返した。
第26話、お読みいただきありがとうございます。
今回は、事件らしい事件は何も起きませんでした。
それでも、何かが少しだけ動いた気がしています。
次回もよろしくお願いします。




