第24話 恋人なら、勝負をしますよね?
放課後の教室は、静かだった。
部活動の掛け声が遠くから聞こえる中、俺は一人、自分の席で数学のワークと格闘していた。
「……この公式、どこで使うんだ」
消しゴムのカスを指で弾いて、次のページを開く。
来週に迫った期末テスト。以前の俺なら、ある程度のところで切り上げて帰っていた。今日は、なぜかそういう気になれなかった。文化祭をやり切った後から、こういうことが少し増えた気がする。理由は、自分でもよくわからない。
ガラッ。
教室のドアが開く音がして、軽やかな足音が近づいてくる。
顔を上げなくてもわかる。甘いシャンプーの香りと、迷いのない歩調。
気づけば、俺の隣の席に、当たり前のような顔をして白鷺さんが腰を下ろしていた。
「今日は、お早いですね」
「……たまにはな。白鷺さんこそ、図書室じゃないのか」
「たまには、教室でやるのもいいかなって思いまして」
彼女は慣れた手つきでテキストを広げた。
この「当たり前」の空間が、どこかひどく心地よかった。
「結弦くん、そこ。二行目の符号が逆です」
「……あ、本当だ。サンキュ」
今日の白鷺さんは、やけに真面目だった。いつもなら小悪魔ムーブの一つも挟んでくるのに、今は一心に俺のワークをチェックしている。
「……今日は厳しいな、白鷺先生」
「甘やかしても結弦くんのためになりませんから。ふふっ」
そんなやり取りをしながら、小一時間が経過した。
俺がワークの一区切りに伸びをした時、白鷺さんがパタンとテキストを閉じた。
そして、少しだけ真剣な顔で俺を見た。
「結弦くん」
「……ん?」
「勝負、しませんか?」
俺は首を傾げた。
「勝負?」
「期末テストの勝負です。一教科だけでいいです。結弦くんが私より点数の高い教科が一つでもあれば、結弦くんの勝ち」
「……無理だろ」
即答した。
「白鷺さんは学年一位だぞ。テスト返却日に廊下で泣いてる連中の、元凶だぞ」
「だから、一教科だけです」
白鷺さんは挑戦的に口角を上げる。
「どこか一つ、本気を出して私を上回ってみてください」
……英語なら、あるいは。
学年一位を相手に、それでも一矢報いられる可能性があるとすれば、そこしかない。
白鷺さんの自信満々な顔を見ていたら、俺の中の小さなプライドが静かに火を噴いた。
「……了解。受けて立つ。勝ったら?」
俺の問いに、白鷺さんは少しだけ沈黙した。
夕日が差し込んで、彼女の頬をオレンジ色に染めていく。
彼女は一度だけ視線を泳がせ、それから覚悟を決めたように俺を真っ直ぐ見据えた。
「……私の負けなら。何でも一つ、結弦くんの言うことを聞きます」
「……」
「……」
何でも。一つ……だと?
俺の脳内で、その言葉が危険な音を立てて反響した。
たとえば、デートに行けとか。それとも、もっと「恋人」らしい、いけない何かとか。
嫌でも思考がそっちに引っ張られる。
いやいやいやいや。何考えてんだ俺。
俺が必死に首を振っていると、俺の異常な動揺を見た白鷺さんの表情が、徐々に固まっていった。
「……結弦くん?」
「あ、いや、ええと。その、な、何でもって……」
「……あっ」
白鷺さんが、自分の言葉のもう一つの意味に気づいた瞬間だった。
彼女はハッとして、両手を胸の前で交差させ、椅子ごと半歩引いた。みるみるうちに、首筋から耳の先まで夕日よりずっと鮮やかな赤に染まっていく。
「そ、そ、そ、その! ち、ち、違いますからね! 何か美味しいものを奢れとか、そういう健全な! 不埒なお願いは受け付けませんから!!」
「わ、わかってる! 俺も別にそんなこと考えてないから!!」
「嘘です!! 今、絶対に不埒なこと想像しましたよね!?」
「してない!! お前こそ自分で勝手に想像して自爆してんじゃねーか!」
「し、してませんっ!!」
「………………」
「………………」
お互い顔を真っ赤にして叫び合い、息が切れて沈黙が落ちる。
数秒後。白鷺さんは両手を胸の前に交差させたまま、ジト目で俺をじっと見てきた。耳まで真っ赤にして、口をへの字に曲げて。
「……本当は、少し期待しましたか?」
「だからしてないって!!」
「怒らないので正直に言ってみなさい」
「信じてほしい!!」
「ふふっ」
俺の必死な反応を見て、彼女は噴き出すように笑った。いつもの、小悪魔な笑み。
「結弦くん……可愛いですね♡」
「誰のせいだと思ってんだ!!」
完全に彼女のペースだった。でも、その笑顔を見ていたら、俺の胸の奥もなんだか軽くなった気がした。
「じゃあ、俺が負けたら?」
俺が尋ねると、白鷺さんは唇に人差し指を当てた。
「……秘密です♡」
「それズルいだろ」
「勝ったら教えてあげます。結弦くんが、絶対に断れないようなことを……ね?」
首をこてんと傾げ、目を細めて微笑む。
帰り道。
白鷺さんの手が、いつものように俺の袖をきゅっと掴んでいる。
「楽しみですね、結弦くん」
「……テストが、か?」
「はい。勝負も、……結弦くんが本気になるところを見るのも」
彼女はニコッと笑った。
一秒、二秒、三秒。
彼女が急に前を向いて、袖を握る力を強める。
その耳が、また真っ赤になっているのを、俺は見逃さなかった。
「……絶対、一教科は取ってやるからな」
俺の独り言のような決意に、彼女は何も言わず、ただ嬉しそうに頷いた。
第24話をお読みいただきありがとうございます!
期末テストを舞台に、二人の勝負が始まりました。
負けた方は、「何でも一つ」お願いを聞くことに。
王道ラブコメな約束ですが、言い出した白鷺さんが一番動揺していました(笑)
結弦は学年一位の白鷺さんから、一教科でも勝利を奪えるのでしょうか。
そして、勝者のお願いとは……?
「二人とも自爆してる(笑)」
「勝負の結果が気になる!」
「お願いの内容を早く知りたい!」
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