第19話 恋人なら、もう戻れませんよね?
「午後も飛ばしていくよー!」
西園寺さんの号令と共に始まった午後の営業は、午前中を上回る大盛況だった。
教室の中は常に満席で、オーダーと配膳が休む間もなく続く。俺と白鷺さんは、ほとんど会話を交わす暇もなかった。
それでも。
俺がトレイにお茶を乗せれば、彼女が受け取りに行く。彼女が空のグラスを戻せば、俺がすぐに次を準備する。誰に指示されるわけでもなく、ただ自然に、お互いの動きが連動していく。
忙しさの中で、俺は無意識に彼女の姿を探していた。
「……この二人だけ阿吽の呼吸じゃん」
通りがかった朝比奈さんが呆れたように呟いた。訂正する暇すらなかった。
午後三時。
ピークを過ぎ、店内が少しだけ落ち着いた頃だった。
引き戸が開いて、店内が少しだけざわついた。
「あ、生徒会長だ」
御堂筋先輩が、普通のお客として入ってきた。今日は実行委員の腕章をつけていない。空いている席に静かに腰を下ろした。
「いらっしゃいませ。ご注文は——」
「やあ、澪。忙しそうだね」
オーダーを取りに行った白鷺さんに、先輩が自然に話しかける。
「御堂筋先輩。お疲れ様です」
白鷺さんがふわりと笑った。完璧なお嬢様の笑顔ではなく、気の置けない相手に向ける、自然な笑顔。
二人は少しだけ言葉を交わし、短く笑い合った。
カウンターの裏で、俺はお湯を沸かし続けた。
聞きたくないのに、意識がそっちへ向いてしまう。胸の奥が、ちくりと波立つ。
「また妬いてる顔してるけど」
横から声がした。西園寺さんがニヤニヤしながら覗き込んでいる。
「違う」
「はいはい。否定早いのも変わんないねー」
西園寺さんはクスクス笑いながらホールへ戻った。
紅茶を飲み終えた御堂筋先輩が、席を立った。
出口へ向かう途中、カウンターの前で立ち止まった。
俺の目を、真っ直ぐに見た。
「高坂くん。……喫茶店、良かったよ。二組らしくて」
「ありがとうございます」
先輩は少しだけ間を置いて、それから静かに言った。
「澪は、頑張りすぎる癖がある。……よろしく頼む」
それだけだった。
ライバルとしての圧も、後輩への説教も、何もなかった。ただ、大切な人を次の人間に預けるような、穏やかな目だった。
「……わかりました」
俺が答えると、先輩はかすかに笑って、教室を後にした。
その背中が、ひどく大きく見えた。
「お疲れ様ー! 片付けは明日! 今日は解散!」
文化祭一日目が終わった。
クラスメイトたちが次々と帰り、教室には戸締まりを確認する俺と白鷺さんだけが残った。
オレンジ色の光が差し込む、静かな教室。祭りの後の余韻が、少しだけ空気を重くしていた。
「……白鷺さん」
「はい?」
俺はずっと胸につかえていたことを、ようやく口にした。
「御堂筋先輩と……昔から、あんな感じなのか」
白鷺さんは、少しだけ動きを止めた。
「……実家同士の付き合いもあって、昔からお世話になっていました」
特別な感情があるわけじゃないと、頭ではわかっている。でも、俺の知らない時間の話が、どうしようもなく苦しかった。
「……そっか」
帰る準備をしようとした。これ以上話すと、みっともないことを言ってしまいそうだったから。
だが。
白鷺さんが、一歩、俺に近づいた。
いつもなら袖を掴む距離。でも今日は違った。彼女は俺の目の前に立って、真っ直ぐに俺を見上げた。
「……結弦くん」
「ん」
「恋人ですから♡」
いつもの、小悪魔な笑顔。
でも。
その笑顔がゆっくりと崩れて、彼女は少しだけ俯いた。
静かな教室に、秒針の音だけが響いた。
「……便利じゃ、ありません」
沈黙。
時計の音が、やたらと大きく聞こえた。
白鷺さんは、顔を上げなかった。
俺も、動けなかった。
何秒経ったか、わからない。
ゆっくりと、白鷺さんが顔を上げた。今度は、目を逸らさなかった。
「今は」
少し間があった。
「ちゃんと、そう思って……言っています」
言ってしまった、と気づいた瞬間。
彼女の顔が、耳まで一気に赤く染まった。
「あっ……その、違っ……!」
両手で顔を覆って、あわあわと後退る。
俺は、固まったまま動けなかった。
心臓だけが、馬鹿みたいにうるさかった。
「おーい! 二人ともまだいるー?」
廊下の奥から、西園寺さんの声。
引き戸が少しだけ開いた。
西園寺さんが顔を覗かせて——二人を見て——。
「……あっ!?」
一瞬だけ固まって、ニヤッと笑った。
「お邪魔しましたー♪」
引き戸が静かに閉まった。
また、二人きりになった。
白鷺さんは顔を覆ったまま、俯いている。
俺は、まだ何も言えていなかった。
言葉が、出てこなかった。
それでも。
「……帰るか」
俺がそう言うと、白鷺さんが顔を上げた。目が赤い。でも、泣いてはいなかった。
「……はい」
教室を出た。
廊下を歩き出して、数歩目。
どちらからともなく、手が重なった。
誰も見ていない。誰に見せるわけでもない。
それでも、俺は離さなかった。
夕日の中、二人の影が並んで伸びていく。
白鷺さんの指が、少しだけ強く絡んできた。
俺も、握り返した。
歩幅が、自然と合っていた。
第19話をお読みいただきありがとうございます。
文化祭、一日目が終わりました。
書きながら、この二人はもう戻れないところまで来たんだな、と思いました。
「先輩イケメンすぎる」「白鷺さん……」「結弦、早く気づいて」と思っていただけましたら、★やフォローで応援していただけると嬉しいです。




