第12話 恋人なら、一緒に勉強くらいしますよね?
「え? 来週テストじゃん」
昼休み。弁当を食べ終わった西園寺さんが、スマホを見て裏返った声をあげた。
「やば。もうそんな時期か」
朝比奈さんが頭を抱える。
「俺、数学終わってる……」
俺は机に突っ伏した。暗記科目はなんとかなる。でも数学だけは、昔から頭が受け付けない。たぶん俺と数学の間に、解決できない因縁がある。
「えっ?高坂にも苦手なものあるんだ」
「俺をなんだと思ってるんだ。完全無欠のサイボーグか」
「違うの?」
「違うよ」
西園寺さんが笑う。朝比奈さんが「まあわかる」という顔をしている。
そのとき、斜め向かいの席で静かに本を読んでいた白鷺さんが、ぱたんと本を閉じた。
「……私が教えます」
顔を上げると、白鷺さんが小悪魔な微笑みを浮かべていた。
「恋人ですから♡」
「キャーーーーーッ!!!」
「出たぁぁぁ!!!」
「高坂ぁぁ爆発しろぉぉ!!!」
女子の悲鳴と男子の怒号が、教室に響き渡った。
俺は再び机に突っ伏した。数学より先に、心臓の耐久値が底を尽きそうだった。
放課後。
図書室の窓際の席で、俺たちは向かい合って座っていた。
「では、ここからいきましょう」
白鷺さんが、俺の問題集をすっと指差す。
「……うん」
シン、と静まった室内。聞こえるのは、紙をめくる音と、遠くで鳴っている吹奏楽の音だけだ。
こんな静かな場所で、二人きりで、向かい合わせ……。
状況を整理すると、地味に緊張するな。
「ここの公式は、分解すると理解しやすいんです」
白鷺さんの声は静かで、よく通る。教え方が妙に上手い。
「……わかりやすっ」
「え?」
「いや、独り言」
白鷺さんがふっと笑い、俺はペンを走らせた。
十分ほど経ったころ。
白鷺さんが不意に説明を止め、俺のノートの端っこに、シャーペンでサラサラと何かを書き始めた。
……なんだ?
俺が覗き込むと、そこには綺麗な字で、こう書かれていた。
『結弦くんの集中力、切れてますね』
図書室は私語厳禁だ。だからこその筆談らしい。
俺は少しムッとして、彼女のシャーペンを借りて書き返した。
『切れてない。真面目に聞いてる』
『嘘です。さっきから、ノートじゃなくて私の顔ばかり見てるじゃないですか』
『見てない』
『見とれてたんですか?』
『違うって』
俺が慌てて否定の文字を書くと、白鷺さんは手で口元を覆い、声を出さずにくすくすと笑った。
そして、ノートを自分の方へ引き寄せ、再び何かを書き始める。
その横顔は、完璧な小悪魔のそれだった。
ノートが、すっ、と俺の前に押し戻される。
そこに書かれていたのは、たった二文字。
『好き』
「っ……!!」
俺は危うく、図書室の静寂を破って叫び声を上げそうになった。
心臓が、ドクンと嫌な音を立てて大きく跳ねる。
す、す、す、すき!?
今、好きって書いたよな!?
俺が目を白黒させていると、白鷺さんは楽しそうに笑いながら、その文字の後に言葉を書き足した。
『……な、数学の公式はありますか?』
『好き・な、数学の公式はありますか?』
…………くっ。この、小悪魔!
完全に遊ばれている。
俺が恨めしそうな視線を向けると、白鷺さんは「ふふっ」と音のない笑いをこぼし、すっと身を乗り出してきた。
「っ!」
近い。
彼女の顔が、俺の肩すれすれの位置にある。
ふわりと、あの甘いシャンプーの香りが鼻をくすぐり、俺の心臓はさらに警鐘を鳴らし始めた。
「ここの計算、間違ってますよ」
「あ、ああ……そうだな。直す」
俺は動揺を隠すように、慌てて消しゴムを手にした。
当の白鷺さんは、何事もなかったように真剣な顔で俺の手元を見つめている。
……まったく心臓に悪い。
俺が手元に目を戻そうとしたとき、白鷺さんも同じタイミングで俺のノートを指差した。
指先が、重なった。
「……っ」
白鷺さんが固まる。俺も固まる。
一秒の沈黙。
「す、すみません」
「い、いや、俺が」
二人同時に引っ込める。図書室に、微妙な沈黙が落ちた。
白鷺さんが、こほん、と小さく咳払いをして前を向いた。耳が赤い。
俺は符号を直しながら、なんとか平静を保った。
「ここ、答え二十七」
「三十六です」
「……」
「惜しくありません」
「そんな言い方ある?」
「あります」
俺はもう一度計算し直す。
「あ」
「今度は?」
「三十五」
「一歩前進です」
「全然前進してない」
白鷺さんはくすっと笑った。
三十分後。
俺の集中力は、完全に臨界点を超えていた。
「……無理」
シャーペンを放り出して、机に突っ伏す。数字が全部、古代の象形文字に見えてくる。
「ふふっ」
頭上から、くすくすという声が聞こえた。
「……なんだよ」
「いえ。結弦くんが弱音を吐くの、初めて見たので」
顔を上げると、白鷺さんが口元を手で隠して笑っていた。いつもの完璧スマイルでも、小悪魔な笑みでもない。ただ、おかしそうに笑う、普通の女の子の顔。
「……俺だって完璧じゃないから」
「知ってます。でも……そういう結弦くんも、可愛いですよ?」
「男に可愛いって言うな」
むすっとすると、さらに楽しそうに笑われた。
「ほら、あと少しですよ」
白鷺さんがもう一度問題集を指差す。
……しょうがない。やるか。
それから一時間。
「できた」
俺は思わずガッツポーズをした。
「すごいです、結弦くん!」
白鷺さんが、自分のことのように目を輝かせた。
その顔を見ると、不思議と数学の疲れが吹き飛んだ。
「……教えるのうまいな、白鷺さん」
「そうでしょうか」
「上手い。俺には絶対無理だ」
「ふふっ。家庭教師の先生の真似をしただけです」
「いや、それができるのが普通じゃないって」
白鷺さんが、少しだけ首を傾けた。
「……褒め上手ですね、結弦くんは」
「事実を言ってるだけだよ」
白鷺さんが、すっと目を伏せた。耳の先が、また赤くなっている。
俺は問題集を閉じて、立ち上がった。
「帰るか」
「はい」
帰り道。
夕焼けに染まった通学路を、並んで歩いた。
手は、繋いでいた。
今日は俺から繋いだ。昨日までなら、「恋人ですから♡」なんて言い訳があった。今日は、どちらも何も言わなかった。
「……ありがとな、今日」
「いえ」
「教えてもらえて、助かった。本当に」
繋いだ手に、少しだけ力を込めて言った。
白鷺さんが、ぴたりと足を止めた。
「……嬉しいです」
振り向いた彼女の横顔が、夕日で赤く染まっていた。
小悪魔な笑みじゃない。強がりじゃない。
「頼ってもらえるの……すごく、嬉しいんです」
ぽつりと落ちた声が、夕方の風にさらわれていく。
俺はしばらく黙っていた。
「そっか」
うまい言葉が出てこなかった。でも、それだけでよかった気がした。
白鷺さんが、もう一度前を向いた。そのまま、少しだけ歩幅を俺に合わせてくる。
「……テスト、絶対いい点とってください」
「なんで急に先生モードに戻るんだよ」
「だって恋人ですから♡ 結弦くんの成績が悪いと、恥ずかしいじゃないですか」
「プレッシャーかけ方が彼女っぽくないな」
「彼女っぽいことも言えますよ?」
「言わなくていい」
「……ちゃんと復習してくださいね」
白鷺さんが、繋いだ手をきゅっと握り返してきた。
力強くもなく、弱くもない。
ちょうどいい、だった。
「……わかった」
俺は前を向いたまま答えた。
夕日が、二人の影を長く伸ばしていた。
翌日のホームルーム。
「来月、文化祭だからな。出し物は今週中に決めてくれ」
先生の一言で、教室が一気に浮き立った。
廊下に出ると、掲示板に『文化祭実行委員募集』のポスターが貼ってある。
「もうそんな時期か」
「楽しみですね」
白鷺さんが、ポスターを見上げてそう言った。
俺は横顔をちらりと見た。
「文化祭、好きなのか」
「……どうでしょう」
白鷺さんが少し間を置いて、静かに微笑んだ。
「今年は、去年と違う気がします」
そう言って歩き出した白鷺さんの制服が、夕風に揺れた。
俺はその背中を見ながら、小さく笑う。
「……俺も」
そう思った。
第12話を読んでいただきありがとうございます!
今回は「一緒に勉強するだけ」のお話……のはずだったのですが、図書室で筆談したり、距離が近かったり、結局いつもどおりニヤニヤ回になってしまいました(笑)
次回からはいよいよ文化祭編です!
二人の距離がさらに縮まるイベントが盛りだくさんなので、ぜひ楽しみにしていただけたら嬉しいです!
「ニヤニヤした!」
「筆談ずるい!」
「文化祭楽しみ!」
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