2.殿下、それ呪われています
「初めまして、アルフレッド殿下。トゥーニャ・ルイーバと申します。九歳です」
通された令嬢の姿を見た瞬間、アルフレッドの脳が完全にキャパシティを超えた。
(…………立派ダナー……)現実逃避
そこにいたのは、人間サイズに合わせて小さくはなってるが、実に立派な、ツヤツヤと輝くマグロだった。
すでに限界を迎えていたアルフレッドの心に、この、泳ぐ黒ダイヤの出現はとどめの一撃だった。
そんな王子の精神が崩壊しかけていることなど露知らず、マグロは会話の途中、うっとりと手をエラに当てて言った。
「わたくしの両親はとても仲が良く、お互いの顔を見ただけで、何を考えているのかがわかるそうなのです。
わたくしも未来の旦那様とは、お互いの顔を見て考えていることに気づけるような……そう、顔色が読めるような夫婦になりたいと思っております」
仲睦まじい両親に憧れ、未来の夫婦像を語る、令嬢としての模範的な可愛らしいセリフ。
しかし、アルフレッドの目の前にあるのは、完全に色ツヤのいいマグロの頭である。
(マグロの顔色を…読む…?)
限界を超えたストレスと疲労のせいで、アルフレッドの口から、最悪の本音が生々しく漏れ出た。
「……俺には、お前の顔色なんて読めない。
どうせ結婚後も、お前はマグロなんだろ……」
「マグロ……?」
ピキ、と部屋の空気が凍りついた。
背後に控えていた側近が、見たこともないほど顔を真っ青にして裏返った声をあげる。
「でっ、殿下!?」
側近の大げさな反応に、アルフレッドは首を傾げる。
トゥーニャはマグロの頭に小さな手を添え、不思議そうに、しかし至極真面目なトーンで問いかけてきた。
「マグロ……というのは、夜伽の際に受け身状態、ということでしょうか?」
「…なぁッ!?」
アルフレッドは椅子から飛ぶように立ち上がった。
あまりの衝撃発言に、一瞬で疲労が消し飛んで脳内がパニックになる。
(夜伽!? 受け身!?九歳の令嬢がなんて単語を口にしているんだ!?
いや待て、俺の発言のせいで、こいつは『結婚しても夜の営みでマグロ(無反応)なんだろ』と責められたと誤解したのか!?)
会って間もない令嬢に対し、最低最悪のセクハラをかましてしまった。そんな自覚が頭を殴りつける。
「ち、違うんだ!マグロというのは、お前の顔の話で……」
「まぁ、わたくしの顔が、マグロ…ですか」
「殿下ぁぁぁ!!!これ以上は大変な事になります!!落ち着いてください!!!
あー!!殿下は今日もお疲れのご様子でぇぇぇぇ!!」
側近が涙目で叫びながらアルフレッドの前に立ちはだかる。「夜伽の態度」でも「お前の顔の話」でも、完全な詰みだった。
「初めて言われましたわ…」
「……すまない。そうではないんだ……!!だが、その…!んあああああああ!!
…全員、下がれ。下がってくれ…!ルイーバ令嬢と二人だけで話がしたい」
アルフレッドは頭を掻きむしり、地を這うような声で部屋から側近や侍女を全員下がらせた。
静まり返る室内。目の前には、相変わらずじっと自分を凝視しているマグロ。
アルフレッドは僅かに震える手で顔を覆い、椅子に背を預けて白状した。
「……本当にすまなかった。夜伽云々の意図は毛頭ない。それに、お前の顔の美醜について評価する気も、さらさらなくて…。
……ただ…、俺の目には、お前の顔が……立派なマグロに見えているんだ」
「………まぁ……」
(…ついに言ってしまった…。令嬢にあれほどの暴言を吐いたのだ。今さら魚の件を隠し通したところで、良い結果にはならないだろう……)
呆れているのか、マグロは口をパカリと開けたまま、何も喋らない。アルフレッドが拳をぐっと握りしめ、その重苦しい沈黙に耐えていると――。
「……ええと…それは遠回しのお断りの言葉でしょうか…?わたくしは殿下のお眼鏡にかなわなかった、と…」
「ち、違う!そういう意味ではなく、真実なんだ!
俺にはルイーバ嬢の本当の顔がわからない!!ドレスにマグロが乗っているようにしか見えないんだ!
それに、ほかの候補者たちもサバやカツオやタラに見えてしまうんだ…!!!」
「まぁ…全ての人が魚に見えてしまうのですか?」
「…いや、婚約者候補だけで……あ、従姉妹もアジに見えたな…」
先日の従姉妹を思い出し、慌てて訂正する。従姉妹は今回の婚約者候補には含まれていないはずだ。
「婚約者候補と従姉妹様…、共通点は…女性…?では城で働く者は…??」
自分のバカげた話を怒るでもなく、むしろ真剣に考察し始めた様子のマグロに、アルフレッドは少しずつ冷静さを取り戻していった。
「……すまない。取り乱して変な事を言ってしまった……。どうやら俺は本当に頭がおかしくなったようだ…。はは……こんな状態では継承権もどうなるか分からないな……。
ルイーバ嬢、迷惑を掛けてしまった。きっと婚約の話もなくなる…。今日の事は忘れて…」
「お待ちください、殿下」
パシッと軽い音がして、手を握られた。
その小さな手の温もりに、至近距離にマグロの顔があるのも忘れて、アルフレッドの胸が小さく跳ねた。
「殿下、それは頭の病気ではなく、呪いです!!」
「の、呪い…??そんなおとぎ話のようなこと――」
「呪いは実在します!」
今までおっとりとしていた声が、急にはっきりとした力強いものに変わった。
呆然とするアルフレッドの手を握ったまま、トゥーニャは、爛々とマグロの瞳を輝かせて語り出す。
「わたくし、昔からおまじないや占いの本を読むのが大好きでして。あ、別に呪い全般が好きなわけではありませんのよ?ただ、隣国から取り寄せた古いおまじないの実例集に、まさにこれとそっくりな事件が載っていたのです」
「実例……?」
「ええ。ある貴族が嫌いな相手を陥れるために、『周囲の人間の顔がすべて爬虫類に見える呪い』をかけたという記録が残されていますわ。
殿下、まさにそれです。殿下の脳がおかしくなったのではありません。殿下は悪意ある何者かに呪われているのです!」
熱く力説するマグロの勢いに、アルフレッドは気圧されながらも、どこか張り詰めていた心がすうっと軽くなるのを感じていた。
(そうか……。俺の頭がおかしくなったわけじゃなくて、呪われていたのか……)
自分は狂っていなかった。それだけで、暗闇に光が差したような、救われた気持ちになる。
――が、一瞬遅れて、冷静な思考が殴りかかってきた。
(……いや、王太子が呪われてるのも普通にダメだろ!?国を揺るがす大問題だった!!)
一瞬でも安堵しかけた自分を全力で殴りたい。
しかし、トゥーニャは頼もしげに胸を張ると、繋いだままの小さな手に、ぐっと力を込めて言った。
「ですが、殿下。呪われていると言っても、希望はあります!
本によれば、呪いというのは、術者を見つけ出して白状させれば解ける仕組みになっているのです。
つまり、殿下に呪いをかけた犯人を捕まえれば、万事解決しますわ」
「術者を、見つけ出す……」
アルフレッドは、自分の手を握る小さな手を見つめた。
ドレスを着たマグロに迫られている、シュール極まりない光景のはずなのに、彼女の迷いのない言葉は、絶望のどん底にいたアルフレッドにとって、確かに唯一の希望の光に見えた。
「だが、どうやって術者を――」
アルフレッドがそこまで言いかけた時、どこからか視線を感じて扉に目を向けると、さきほど追い出したはずの側近が、ドアの隙間からじとりとした目でこちらを覗き見ている。
(……また殿下が、いたいけなご令嬢に夜伽云々の大暴言を吐いていないだろうな……)
という、強い警戒がひしひしと伝わってくる目だった。
これ以上、二人きりで話を続けるのは無理そうだ。今日のところはここまでにするしかない。
アルフレッドが小さく息を吐き出して手を離すと、トゥーニャは我に返ったように、おっとりとした令嬢の佇まいに戻った。
「………わたくしが知っているお話はここまでですわ。あとは、お城の優秀な皆様が解決してくださるでしょう」
まるで、自分の出番はもう終わりだと、綺麗に割り切っているかのような口調だった。
トゥーニャはドレスの裾をエレガントにつまみ、実に見事な、非の打ち所がないお別れの挨拶をした。
「それでは、アルフレッド殿下。一日も早く呪いが解け、殿下に素敵なご婚約者が決まりますよう、心よりお祈り申し上げますわ」
側近に聞こえない程度の声量で、そう言って退室していく。
アルフレッドは、さきほどまで彼女の小さな手が握ってくれていた自分の手のひらを見つめ、どこか寂しさを覚えていた。
ルイーバ→рыба(ロシア語で魚)




