無貌の蠢動
ホロウ・ウィスパーとホロウ・スクリームが引き起こした集団自殺事件の翌日――。
NEXT社・社長室。
窓の外には、昨日までの惨劇など存在しなかったかのような穏やかな街並みが広がっている。
その景色を眺めながら、トレイター・コードは満足そうに微笑んでいた。
机の上には、紫黒の輝きを放つ二つの黒い結晶。
「第一段階の存在エネルギーは十分に確保できた。」
指先で結晶を転がしながら、小さく頷く。
「それじゃあ……始めようか。」
その一言と同時に、社長室の床一面へ紫黒の波紋が広がった。
波紋の中心から、一人の青年が静かに姿を現す。
「お呼びでしょうか、トレイター・コード様。」
黄瀬だった。
その瞳には感情らしい感情は残っていない。
トレイター・コードは満足そうに頷くと、手の中で弄んでいた小さな黒い欠片を軽く放った。
「よく来たな、黄瀬。」
「お前には褒美をやろう。」
欠片は黄瀬の手の中へ吸い込まれるように収まる。
黄瀬はそれを見つめ、小さく首を傾げた。
「これは……。」
「どう使えば――」
言葉は最後まで続かなかった。
黒い欠片が突然ふわりと浮かび上がる。
「……え?」
黄瀬が反応するより早く、その欠片は首筋へ溶け込むように沈み込んでいった。
「なっ……!」
思わず首筋を押さえる。
しかし、そこには何も残っていない。
「何を……。」
「何をしたんですか……!」
トレイター・コードは肩をすくめ、愉快そうに笑った。
「何を、だって?」
「実験だよ。」
その瞬間。
社長室の空間が音もなく裂ける。
裂け目の向こうから現れたのは、灰色のノイズで満たされた巨大な培養槽だった。
「ま、待ってください!」
黄瀬は一歩後ろへ下がる。
その瞬間、トレイター・コードの掌から紫黒の光塊が放たれた。
「ぐっ……!」
黄瀬の身体が宙へ浮く。
見えない力に引き寄せられるように、そのまま培養槽へ吸い込まれた。
培養液が激しく波立つ。
紫黒のノイズ。
赤橙のノイズ。
そして灰色のノイズ。
三色のノイズが渦を巻き、黄瀬の身体へ絡み付いていく。
「ぁ……あ……。」
必死に身体を動かそうとする。
しかし、指一本動かない。
「た……助け……。」
助けを呼ぼうと開いた口へ、灰色のノイズが流れ込んだ。
「っ……!」
声が消える。
肺が焼けるように熱い。
首筋から黒い紋様が全身へ広がり、皮膚が軋む。
身体の内側へ何かが入り込んでくる。
意識の奥底まで侵されていくような感覚。
(嫌だ……。)
(まだ終わりたくない……。)
(俺は……。)
思考さえノイズへ飲み込まれていく。
培養液の中で必死にもがく黄瀬を見つめながら、トレイター・コードは実験結果を観察する研究者のような目をしていた。
「反転人の肉体は、やはり適応力が高い。」
「カオス・プロセッサーのコアとの拒絶反応もない。」
小さく笑う。
「この実験は成功する。」
培養槽のガラスへ手を添える。
「器は黄瀬。」
「核はカオス・プロセッサー。」
「そして最後に必要なのは、十分な存在エネルギー。」
机の上の二つの黒い結晶へ視線を向ける。
「あの兄妹は期待以上によく働いてくれた。」
「これだけの存在エネルギーがあれば、今まで誰も到達できなかった存在を生み出せる。」
培養槽の中では、黄瀬の身体を覆う三色のノイズがさらに激しさを増していた。
顔が歪み。
皮膚が黒く染まり。
瞳から光が消えていく。
それでも、ほんの一瞬だけ。
黄瀬はガラス越しにトレイター・コードを睨み付けた。
その瞳には、まだ微かに人間としての意思が残っていた。
トレイター・コードは、その視線に気付いてもなお笑みを崩さない。
「安心しろ。」
「お前は死なない。」
「もっと価値のある存在になるだけだ。」
その言葉と同時に、培養槽は再び紫黒の空間へゆっくりと沈み始めた。
最後に見えたのは、苦痛に歪みながらも必死に抗い続ける黄瀬の姿。
そして――
その姿は紫黒の闇の中へ、静かに飲み込まれていった。
ホロウ・ウィスパーとホロウ・スクリームが引き起こした集団自殺事件の翌日――。
NEXT社・社長室。
窓の外には、昨日までの惨劇など最初から存在しなかったかのような、穏やかな街並みが広がっている。
その景色を見下ろし、トレイター・コードは満足そうに口元を歪めていた。
机の上には、紫黒の妖光を放つ二つの黒い結晶。
「第一段階の存在エネルギーは、十分に確保できた」
指先で結晶を弄び、小さく頷く。
「それじゃあ……始めようか」
その一言と同時に。 社長室の床一面へ、紫黒の波紋が広がった。
波紋の中心から、一人の青年が静かに姿を現す。
「お呼びでしょうか、トレイター・コード様」
黄瀬だった。 その瞳に、感情らしい光は残っていない。
トレイター・コードは深く頷くと、手の中の小さな黒い欠片を軽く放った。
「よく来たな、黄瀬」 「お前には、褒美をやろう」
欠片は吸い込まれるように、黄瀬の手の中へ収まる。 黄瀬はそれを見つめ、小さく首を傾げた。
「これは……」 「どう使えば――」
言葉は最後まで続かなかった。
黒い欠片が、突然ふわりと浮かび上がる。
「……え?」
黄瀬が反応するより早く。 欠片は首筋へ、溶け込むように沈み込んだ。
「なっ……!?」
思わず首筋を押さえる。 しかし、そこには何も残っていない。
「何を……」 「何をしたんですか……!」
トレイター・コードは肩をすくめ、愉快そうに笑った。
「何を、だって?」 「実験だよ」
その瞬間。 社長室の空間が、音もなく裂けた。
裂け目の向こう。 灰色のノイズで満たされた、巨大な培養槽が姿を現す。
「ま、待ってください!」
黄瀬が一歩後ろへ引いた、その刹那。 トレイター・コードの掌から、紫黒の光塊が放たれた。
「ぐっ……!」
黄瀬の身体が宙へ浮く。 見えない力に引き寄せられ、そのまま培養槽へ投げ込まれた。
バシャァン!!
培養液が激しく波立つ。
紫黒のノイズ。 赤橙のノイズ。 灰色のノイズ。
三色の渦が、黄瀬の身体へ狂ったように絡み付いていく。
「ぁ……あ……!」
必死に身体を動かそうとする。 だが、指一本動かない。
「た……助け……!」
助けを呼ぼうと開いた口へ、灰色のノイズが容赦なく流れ込んだ。
「っ……!」
声が消える。 肺が焼けるように熱い。
首筋から黒い紋様が全身へ広がり、皮膚が軋む。 顔の輪郭が、ずるりと溶解していく。
身体の内側へ、別の『何か』が強引に侵入してくる。 意識の奥底まで、冷たく侵されていく感覚。
(嫌だ……) (まだ終わりたくない……) (俺は……!)
思考さえ、ノイズの濁流へ飲み込まれていく。
培養液の中で必死にもがく黄瀬を、トレイター・コードは冷徹な研究者の目で見つめていた。
「反転人の肉体は、やはり適応力が高い」 「カオス・プロセッサーのコアとの拒絶反応もない」
小さく笑う。
「この実験は成功する」
培養槽のガラスへ、ゆっくりと手を添えた。
「器は、黄瀬」 「核は、カオス・プロセッサー」 「そして最後に……十分な存在エネルギー」
机の上の二つの黒い結晶へ、視線を向ける。
「あの兄妹は、期待以上によく働いてくれた」 「これだけの存在エネルギーがあれば、今まで誰も到達できなかった存在を生み出せる」
培養槽の中。 三色のノイズがさらに激しさを増す。
顔が崩れ。 皮膚が黒く染まり。 瞳から光が失われていく。
それでも。 ほんの一瞬だけ。
黄瀬はガラス越しに、トレイター・コードを激しく睨み付けた。 その瞳には、まだ微かに、人間としての意志が残っていた。
トレイター・コードは、その視線に気付いてもなお笑みを崩さない。
「安心しろ」 「お前は死なない」 「もっと価値のある……怪物になるだけだ」
その言葉と同時に。 培養槽は、再び紫黒の空間へゆっくりと沈み始めた。
最後に見えたのは。 苦痛に歪みながらも、必死に抗い続ける黄瀬の姿。
そして――。 その顔から『貌』が消え去り、闇の中へ静かに飲み込まれていった




