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ループマン

男が目覚めると、そこは決まって三メートル四方の無機質な石造りの部屋、その唯一の扉の前だった。


「……あ」


乾いた声が、喉の奥から漏れる。それは言葉というよりは、肺に残った最後の一呼吸が外に逃げ出したような、掠れた風の音に似ていた。

男の記憶は、長い年月をかけて磨耗しきった石畳のように滑らかで、何も引っかからない。自分が誰なのか、どこから来たのか、なぜここにいるのか。そのすべてが、濃い霧の向こう側に消えていた。


ただ一つ、古いレコードのノイズのように、脳裏にこびりついて離れない会話の断片がある。


『とにかく、転生したい』


それは間違いなく、自分の声だった。暗闇の中で、何者かに放った、切実な、あるいは投げやりな要求。

「とにかく、転生」。その言葉が、かつての自分が抱えていたどんな絶望から生まれたのか、今となっては知る由もない。人との繋がりを断ち切りたかったのか、あるいは現世という名の袋小路から逃げ出したかったのか。ただ、今の男にとって、その願いは出口のない呪いそのものだった。


男は震える手で扉を開ける。


扉の先には、人が一人歩くのがやっとの細い通路が続いていた。天井は低く、肩をすぼめなければ冷たいコンクリートの壁に触れてしまう。通路の先には、また別の小さな部屋がある。

その部屋の中央には、あまり馴染みのない、だが本能的な恐怖を呼び起こすような、無数のケーブルに繋がれた金属製の椅子が置かれていた。


椅子に座る。それがこの世界の「唯一の選択」だった。

座った瞬間、冷たい固定具が手首と足首を拘束し、天井から降りてくる重厚なヘッドギアが視界を完全に遮断する。


「……ッ!」


数秒の静寂の後、全身を貫く凄まじい衝撃波。全細胞が一度バラバラに解体され、無理やり再構築されるような耐え難い激痛。

そして――気がつくと、男は元いた小さな部屋の扉の前で、無様にうずくまっていた。


同じ世界が、また始まる。


男はこの「転生」のたびに、自身の「器」が変化していることに気づいていた。

ある時は、節くれだった老人の手。またある時は、産毛の生えた幼い子供の足。あるいは、自分の性別すら曖昧になるような滑らかな肌。


「……これが、転生、なのか」


鏡はない。だが、視界に入る自分の手足や、触れた時の肉の感触、重心の高さが、同じ世界をループするたびに確実に「別人」へと挿げ替えられている。

しかし、それがどうしたというのだ。

姿形が変わろうとも、目覚める場所は同じ石の部屋。歩くのは同じ狭い通路。そして行き着く先は、あの椅子。


この世界が提供する「転生」とは、ただのアバターのランダムな変更でしかなかった。中身という「魂」に過酷な負荷をかけ続けながら、外側だけを機械的に変え続ける。それは救済ではなく、魂を使い潰すための悪質な再利用のように思えた。


男はこの不毛なループの合間に、部屋や通路を隅々まで調べ尽くしてきた。

そこにあるのは、意味があるようでいて、その実、徹底的に無意味な遺物の残骸だけだった。

通路の壁には、不自然な凹みがある。前回は握り拳一つ分だったはずが、今は赤ん坊の頭が入るほどに広がっているように見えた。その隣には、脚の一本が折れた古い木製の椅子が、重力に逆らうような奇妙な角度で転がっている。


部屋の隅には、砂嵐だけを映し続ける古いブラウン管テレビが置かれていた。

男は、テレビの裏側を覗き込む。埃を被った真空管と、複雑に絡み合った配線の束。その配線の隙間に、誰かが噛み捨てたような、不自然に白いガムが貼り付いている。


「……これは、なんだ。ヒントなのか」


男は指先でガムを剥がし、確かめる。しかし、それは何のヒントにもなり得ない。次に戻ってくるとガムは消え、代わりにテレビの画面にひび割れが一つ増えている。

壁のシミ。壊れた家具。文字の潰れた古本。

男はそれらに縋り付いた。これは脱出のための暗号ではないか? 誰かが、自分に試練を与えているのではないか?


「この古本の、三十二ページの一行目が鍵だ」

「テレビの砂嵐の周期に、出口の座標が隠されているはずだ」


そんな仮説を立てては、次の瞬間には裏切られる。

本を開けば、ページは白紙に変わっている。テレビの砂嵐は、ただ不規則に網膜を焼くだけだ。

結局のところ、それらは慈悲でも罠でもなかった。この世界を設計した何者かが、ただ転生を繰り返す間の暇つぶしとして、ガラクタを適当に放り込んだだけなのだ。そこに意図も、論理も、整合性も存在しない。ただ「そこに在る」だけだった。


「俺は……何をしたんだ」


男は床に座り込み、自身の失われた現世に思いを馳せる。

自分は、誰の目にも止まらぬ極悪人だったのではないか。あるいは、国一つを滅ぼすような大罪を犯したのか。だからこそ、この「無限地獄」に放り込まれた。

自分の願い――「とにかく転生したい」という言葉は、実は「永遠に自分を罰し続けてほしい」という意味だったのではないか。

ありもしない「過去の罪」を捏造し、それを悔いることでしか、この虚無に耐えることができなかった。


通路に、錆び付いた一本の小さなネジが転がっているのを見つけた。

男はそれを手に取り、壁の隅に押し当てた。

たとえ自分の体が老いようと、幼くなろうと、ネジを握る「意思」だけは捨てなかった。


一、二、三……。


力強く、壁に傷を刻んでいく。この線は転生後も不思議と消える事なく、残り続けた。一本の線が、彼がこの場所で「死」と「生」を繰り返した唯一の実績になる。

誰に観測されることもない、無価値な記録。

男はネジを握りしめ、次の部屋へと歩き出す。


衝撃が走り、意識が飛び、また扉の前に戻る。

そのたびに、壁の傷を増やす。

通常、生命のドラマは何かを生むが、この密室でのループには、磨耗と消費しかない。


男はただ、ネジを壁に立て、再び線を刻む。

一万本、十万本。

その傷が、やがてこの強固な箱庭に亀裂を入れてくれると信じて。


男は今日、何度目かもわからぬ扉を開けた。

そこには、前回まではなかったはずの、一台の「止まった時計」が置かれていた。

秒針は、今にも動き出しそうなほど微かに、震えていた。


男が椅子に座る。

衝撃。

暗転。


そして、再び扉の前。

男の掌の中には、まだ、あの錆びたネジが握られていた。

不意に視界に入った自分の腕は、先ほどまでの毛深い男のそれではなく、細く白い、女の腕に変わっていた。


だが男は、もはや驚かなかった。

ただネジを握り直し、壁に刻まれた無数の傷跡――消されることなく増え続ける「矛盾の記録」を見つめ、静かに、次の「椅子」へと歩き出した。

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