不整合
バルバトの指先は、常に純白の手袋で覆われている。
整理課の執務室において、彼が素手で何かに触れることは万に一つもない。それは衛生上の理由ではなく、精神的な潔癖ゆえのものだ。彼にとって、この世界は常に「不整合」という名の汚れに満ちており、整理課のデスクこそが、その汚れを拭い去るための唯一の聖域だった。
彼のデスクには、最新のホログラム端末と並んで、あえて旧式の物理的な「厚型帳簿」が広げられている。デジタルデータは書き換えが可能であり、上層部の権限一つでログの消去さえ行われる。だが、上質な紙に刻まれた自身の筆跡と、ページをめくる際の微かな抵抗感だけは、誰にも奪えない真実を宿している。それが彼の持論だった。
整理課――そこは、現世の生を終えた死者の魂が最初に行き着く、天界の検問所である。
膨大な数の魂が、ここで過去の全記録を精査され、「天界」か「地獄」か、あるいは「保留(再審査)」かに振り分けられる。バルバトはその最前線で、寸分の狂いもなく魂を天秤にかけてきた。
彼は、自分がなぜこれほどまでに「正しさ」と「整合性」に固執するのか、その起源を詳しくは思い出せない。明確な記憶は霧の向こう側だが、断片的に残っているのは、左右の長さが数ミリ違う箸のペアや、一文字だけ傾いた看板、あるいは一円の収支が合わない帳簿に対して、内臓を素手で掻き回されるような激しい嫌悪感を抱いていた感覚だけだ。彼にとって、世界の不整合は耐え難い「ノイズ」であり、そのノイズを消し去り、完璧な調和を保つことだけが、彼が己の存在を肯定できる唯一の手段だった。
「んー案件番号8801。事故に巻き込まれて死亡…目立った悪事はない…。その他のスコアもいいですね。天界行き…。この人は転生管理課に送りましょうかね。」
「……次。案件番号8802。現世での所業…窃盗および小規模な詐欺……ですか…。しょうもない小悪党ですね。スコアも低いし…これは地獄決定。」
バルバトが冷徹に断じ、重厚な印章を書類に押し当て申請をしようとしたその瞬間だった。執務室の静寂を切り裂くように、無機質な介入音がシステムから響き渡った。
「――8802番。判定変更。天界へ転送せよ」
バルバトのペンが、紙の上で止まった。神経質そうな眼が鋭く細められる。
これで本日、12件目だ。一日にこれほど判定が覆るなど、数年前までは考えられないことだった。
「ここ最近多いよな…」
「私も今日で5件あった」
執務室内はざわつき始めた。判定を弾かれたのはバルバトだけではなく、整理課に所属する者の多くが同様に体験している様であった。
バルバトは言った。
「……説明を求める。この魂のどこに、天界行きの資格がある。スコアはCだ。しかもこの経歴を見れば地獄で当然だ。」
バルバトは空に向かって、静かに、だが底冷えするような声で問いかけた。スピーカーから返ってきたのは、感情の欠落した事務的な合成音声だった。
『上層部からの通達による。当該案件は「スコアB+」と再判定された。現在、天界側での受け入れキャパシティに大幅な余裕があるため、選別基準の弾力的運用が全階層に適用されている。異議は認められない』
「弾力的運用……」
バルバトは、白手袋の指先でデスクを規則正しく叩いた。コン、コン、という乾いた音が室内に響く。
かつて、魂の選別という過酷な責務は「地獄」の専売特許であった。
有史以来、死者の大半は業を背負い、その重さに応じて地獄の各階層へと振り分けられる。それが世界の理であり、天界はただ、針の穴を通るような徳を積んだ極少数の「聖人」を迎え入れるだけの、静謐な掃き溜めに過ぎなかった。
しかし、時代は変わり、死者の数は増大した。地獄の処理能力は限界を迎え、阿鼻叫喚の亡者たちが審判を待つ列は、次元の境界を超えて溢れ出した。そこで、効率的な統治と秩序の維持を名目に、天界がその選別作業の大部分を肩代わりすることになったのだ。
「管理コストの分散」――表向きにはそう説明された。だが、地獄から天界へ審判の主導権が移ったその日から、厳格だったはずの天界の門は、音もなくその重い閂を緩め始めていた。
バルバトは、その「移譲」の瞬間から現在に至るまでの全データを、脳内の精密なグリッドに刻み込んでいる。
バルバトの冷徹な計算と、長年の経験が弾き出す統計によれば、ここ数ヶ月の「天界送り」の基準は、もはや論理的な崩壊を招いている。本来なら地獄の最下層で数千年の刑に服し、魂を浄化すべき悪人が、書類上のわずかな「適性」という曖昧な言葉だけで、いとも簡単に「楽園」の門をくぐっていく。
彼は、手元の私的な帳簿をめくった。そこには、公式の記録には決して残らない「矛盾の集計」が、顕微鏡で覗くような緻密な文字で書き込まれている。
「……供給が、需要を不自然に追い越している。グラフの曲線が描く未来は、破綻だ」
バルバトは、椅子の背もたれに深く体を預けた。
地獄との司法契約、天界の厳格な規律、魂の循環サイクル。そのすべての歯車が、目に見えない巨大な力によって無理やり加速させられている。天界は、まるで飢えた猛獣のように、質を問わず、ただ「数」だけを求めて魂を「中」へと招き入れている様だった。
なぜ、これほどの「数」が必要なのか。
天界が真に完成された「楽園」であるならば、選別を緩めてまで住人を急増させる必要などないはずだ。むしろ、質の低い魂が混じることは、管理体制の複雑化と、天界自体の純度の低下を招くリスクでしかない。それなのに、上層部は狂ったように門戸を開き続けている。
「……論理が通らないな。この方程式には、未知の変数が隠されているのかもしれませんね。」
バルバトはヨロつきながら席を立ち、床から天井まで続く巨大な窓の前へと歩み寄った。
整理課の窓からは、今日も終わりなき魂の列が見える。乳白色の霧の中に浮かぶ死者たちは、自分がこれからどこへ行くのかも知らず、ただ「救済」という淡い期待に縋りながら、整理課が下す審判を待っている。
バルバトは予備の白手袋をポケットから取り出し、指の一本一本を確かめるようにきつく嵌め直した。
彼のワーカホリックな一晩が、また始まろうとしていた。
彼は、上層部の意向に逆らって革命を起こそうなどとは微塵も思っていない。ただ、目の前の不整合を消し去り、天秤の傾きを元に戻したいだけだ。そのためには、どれほどの禁忌に触れようとも構わなかった。
「……調べてみればいい。一文字の誤脱も、一魂の不正も、私の天秤は見逃さない。汚れは、拭い去らねばならないのだから。」
整理課の廊下。バルバトの規則正しい靴音が、鏡面のような大理石に虚しく反響する。
彼はまだ知らない。
自分がこれから暴こうとしている「矛盾」の先に醜悪な事実が隠されているという事を…。
不整合を執拗に追い求める彼の歩みは、皮肉にも、彼自身が最も忌み嫌う「世界の秩序の崩壊」を加速させる引き金になろうとしていた。
バルバトは冷たい廊下を独り進む。その背中は、狂気にも似た誠実さに満ちていた。




