パブロフの犬なれど、親しき中にも礼儀あり
念のため歩み寄ろうとするミコトを片手で制して、少し下がりつつも太刀を柔軟性のある正眼に構え、世間一般だと最弱扱いの幻獣が虫の息なのを確認する。
(これで何処にでもいる雑魚とか、鬱だ……)
仮に訓練用ならぬ野性のディノニクスなら、特徴的な尻尾の棘は抜かれておらず、咄嗟に庇って受けた右肩の傷が酷くなっていたのは避けられない。
内心で冷や汗を流した途端、分泌されていたアドレナリンが途切れたのか、打撲にありがちな疼痛が感じられた。
多少のやせ我慢をして、抜き身の刃に施した現化拡張を解き、腰元の鞘へ納めれば様子見していたミコトが小走りに近付いてくる。
「ユウ、怪我は大丈… きゃうッ!?」
気遣うような言葉を言い終わるより早く、壁面のスピーカーから通電による大きなポップノイズが響き、異能を発動していなくても聴覚の良い猫さんがびびった。
「… 御免なさい、実戦形式の試験と同じで久し振りに使ったから、音響設備が不調だったみたいね」
若干、ばつの悪そうな主任のエイナに続き、聞き慣れたヴァネット先生の朗らかな声も鍛錬場に降ってくる。
「ふふっ、アッテネーターが劣化していたのでしょうか? それはさておき、二人が第七孤児院の初等課程を修了した事、嬉しく思います」
「一撃貰ったのは褒められないがな、 深手を負っていれば痛みと恐れで動きが鈍り、上手く立ち廻れなかったはずだ」
いつも通りに厳しめな鈴城教官の指摘に内心で苦笑して、幾つかあるカメラの一つに向き合い、ミコトと揃って仲良く頭を下げた。
より細かい改善点などは休憩を挟んだ夕刻に伝えるとの事で、後始末に入ってきた職員達と入れ替わりに本館へ戻り、散湯室に直行して返り血などの汚れを洗い流す。
身綺麗にして着替えてから、更衣室に放置していた装備の手入れも済ませ、廊下に出ると少しだけ不機嫌そうなミコトが佇んでいた。
「うぅ、遅い」
「そう言われも、待ち合わせはしてなかったような……」
「ん… また刀を磨いていたの?」
「勿論、血が付いたままだと錆びるからね」
小首を傾げてジト目になった猫さんの発言に同意するも、先ほどは目釘を外して柄から茎を抜くような真似はせず、刀身へ付着した血などを和紙で拭った程度に過ぎない。
錆止めの丁子油も一緒に取り除かれる都合で塗り直したが、然して時間は掛かっていないように思われる。
恐らく、ネコ科亜人種のミコトは水に濡れるのが苦手なので、早々に散湯室より出たのだろうと考えながら、取り敢えずはラウンジへの移動を促す。
僅かな別館までの途上を連れ添って歩いていると、不意にくいっと上着の裾が引っ張られた。
「… 庇ってくれて、ありがとう」
「あぁ、それを言うために待っていたのか」
思わず立ち止まったついでに手を伸ばし、やや照れた表情で伏せ耳となった猫さんの頭をポフるものの…… 常日頃から、おれや先生に撫でて貰う好機をミコトが虎視眈々と狙っているのもあり、摺り寄られると条件反射で身体が動く事実に驚愕する。
(ぐッ、もはやパブロフの犬だ)
某ロシア人医学者の動物実験と同じく、特定の刺激に誘導されているのかもしれない。
少々微妙な感慨を抱きつつも洗い髪の爽やかな香りに誘惑され、猫耳の滑らかな手触りを一頻り堪能していたら、不意に手指が滑って耳孔へズボッと嵌り込んだ。
「ひゃうぅううぅッ!?」
「あ… ごめん」
びくりと身体を振るわせて飛び退き、両掌で猫耳を隠したミコトに詫びるが、低く唸りながらの涙目で睨みつけられてしまう。どうにか宥め透かす事暫し、やや警戒を緩めた少女がぼそりと呟く。
「… 焼きチーズケーキ、食べたいかも」
「ぐっ、已むを得まい」
孤児院の暮しで生じた費用は視覚化され難く、将来的な財閥への就労を前提として貸与される仕組のため、無駄遣いは避けたくとも致し方ない。
新暦に於ける一般的な成人年齢の15才に達して働き始めたら、手堅く返済して職業選択の自由を回復しようと、獲らぬ狸の皮算用などしている内にラウンジまで辿り着いた。
ざっと室内を見渡せば、カウンター越しの厨房で夕刻の仕込みをしている遠坂さんの他にも、偶にアレンジ曲を弾いてくれるグランドピアノ(私物)の傍へ陣取ったオウカがいて、木製の円卓を挟んだソウジと将棋を指している。
そこへ向かうと盤面が優勢なのか、余裕綽々な二本角の御令嬢が視線を転じて見詰めてきた。
「二人ともお疲れ様、特段の負傷もなさそうね」
「ちょいと、肩に尻尾の一撃を喰らったけど打撲止まりだ」
「相変わらず、締まらない」
「あぅ、私が避けれなかったから……」
申し訳なさそうに弁明してくれる猫さんをオウカが手招き、疑いなく素直に近寄ったところで優しくハグする。
「ふぁぅ」
「別に気にしなくて良いの、愛らしい淑女の盾になるのは男の本懐でしょうし」
「さらっと過酷なことを言ってくれるなよ」
若干、百合っぽい雰囲気を醸して戯れる少女達にソウジが呆れ、溜息混じりに盤面の手駒を動かすが…… 横合いから盤面を見る限り詰んでいた。本人は気付いてないようだが、既に勝ち目など無く、真綿で首を絞めるように嬲られていると思しい。
こちらが着座して給仕のお姉さんに注文を済ませると、暇つぶしは終わりとばかりに僅か数手でオウカが勝ちをもぎ取り、賭けていたらしい悪友の呻き声がラウンジに響き渡った。
パブロフの犬と同系の実験を赤ん坊にやって、当時批判を受けた学者もいますね。あとパブロフの犬は何頭もいたので、実はパブロフの犬達だったり(;'∀')




